黒板アートに挑戦④ 今度はドラえもん
今日は令和2年5月16日。
今日は土曜日。雨。
のこのこ学校に行って、
黒板アート風の絵画第4弾を描いてきました。
これです。☟
プリントして、来週生徒に渡したいと思っています。
生徒にも、自分自身にも声かけです。
「さあ はじまるよ!」
元の絵はここに載せました。☟
※ここでも道草 ドラえもんを黒板に描いている先生がいた!(2020年5月9日投稿)
今日は令和2年5月16日。
今日は土曜日。雨。
のこのこ学校に行って、
黒板アート風の絵画第4弾を描いてきました。
これです。☟
プリントして、来週生徒に渡したいと思っています。
生徒にも、自分自身にも声かけです。
「さあ はじまるよ!」
元の絵はここに載せました。☟
※ここでも道草 ドラえもんを黒板に描いている先生がいた!(2020年5月9日投稿)
今日は令和2年5月16日。
この本を読み終えました。
「蚤と爆弾」(吉村昭著/文春文庫)です。
この本を本屋で買ったのは、今週の水曜日(13日)でした。
家に帰って、ページをパラパラッとめくったら、
パサッとチラシが落ちました。
文庫本にはさんでありました。
ムム、よく見るとこの映画の公開日は2015年!
ほぼ5年前のチラシでした。
5年。
思いのほか時間が経っています。
ひっくり返して見ました。
このチラシは2015年4月の新刊を知らせるチラシでした。
折りたたんであったものを開くと、たくさんの本名が載っていました。
その中に「蚤と爆弾」もありました。
☟
5年間、あの本屋のあの書棚に置かれていた本だったのでしょうか。
私は、ついにその本を引き抜いたのです。
なんかすごいことをやった気分です。
今日は令和2年5月15日。
3日前・・・別に日にちは重要ではありませんが、
自動車で走っていて、
目の前に「布亀」と書かれた自動車を見ました。
「ぬのかめ」と読むと、あのCMソングが思い出されました。
YouTube: 布亀の救急箱 CM 「ヒヨコのヒヨコッコ」
さんざん見てきたCMです。
1986年から放映されているそうです。
この子は今年34歳になっているわけです。
ちなみに30歳になった姿はこの動画で見ることができます。
おそらくその自動車は布亀株式会社の営業車だったと思います。
なぜ「布亀」?
思い浮かんだからには解決したいです。
ここに書いてありました。
一部引用します。
明治9年(1876年)に初代布目亀次郎が
富山県富山市四方で「布目六神堂」を創業。
(中略)
時代は移り変わり、昭和35年、布目六神堂を改め、
「布亀株式会社」を神戸市に設立。
社名は布目亀次郎から1字ずつとり、
「布亀」と名付けられました。
解決です。
CMソングといえば、このCMはいいですね。
コロナ禍にあっても、気持ちを明るくしてくれる曲です。
YouTube: ゼスプリ キウイ TVCM 2020「好きなことを楽しみながら」篇 60秒 歌詞付き
特に山での事件が楽しい。
キウイを食べてみようかなと思ってしまうCMです。
今までこのCMシリーズの曲はイマイチと思っていましたが、
今回ははまっています。
今日は令和2年5月15日。
5月13日朝日新聞朝刊
地元愛知県の記事。みよし市のこと。
フェースシールドを小中学校教職員と中学生に配付するとのこと。
フェースシールドをはめての授業が行われる!?
数か月前には想像もしなかったです。
このままフェースシールドが普通になるのか、
「そんな年もあったね」と笑えるのか。
勤務校では、来週から生徒の登校が始まります。
半日の準備期間があって、6月1日から終日です。
今日、同僚の先生から
「この動画を生徒にぜひ見せたい」と協力を求められました。
教えられて見ました。
YouTube: 【日本赤十字社】「ウイルスの次にやってくるもの」
確かに生徒に見せたい動画です。
さっそく準備を手伝いました。
動画を見せる手伝いなんて、大好きな仕事です。
特に最後の1枚の言葉がいいです。
今日、
わたしたちにできることを、
それぞれの場所で。
ホッとします。
今日も、手を抜かずできることをやってきたつもり。
その積み重ね。
今日は令和2年5月14日。
「何に時間を使うか」
やりたいこと、やるべきことはたくさんあります。
私に与えられた時間は無限ではありません。
「何に時間を使うか」
最近、自問することが多いです。
今からは、「番組についてブログを書くことに時間を使う」
と決めて、うちはじめました。
4月26日放映の「日曜美術館 疫病をこえて
人は何を描いてきたか」を昨日見ました。
勉強になりました。いい番組でした。
45分間番組ですが、ここ ☟ を見ると、
5分ほどで番組の内容がわかります。
※チャンスはピンチだ。響くアートの愛好家 日曜美術館「疫病をこえて 人は何を描いてきたか」
すごいサイトです。
適度に写真があり、聞き書きは完全です。
なぜこんなに完全な仕事ができるのでしょう。
番組のことをブログに書こうとすると、
写真を撮ったり、聞き書きしたり、けっこう時間がかかります。
「響くアート愛好家」さんのお陰で、
そこにかける時間が浮きました。
印象に残ったところのみ、書き留めます。
引用したり転載させていただきます。
〇法隆寺の釈迦三尊像の光背に刻まれた銘文によると、
622年に聖徳太子は病で亡くなった。
同時期に太子の母、后も亡くなっていて、疫病であったらしい。
〇12世紀末の絵。
疫病が鬼で表されている。
真ん中が疫病を退治する神様。
4本の腕を使って、鬼を捕らえ、酢に漬けて食べている。
「こういう風に疫病に特定の姿を与え、その振る舞いを
理解することが絵巻を見る鑑賞者たちにとっては
安心につながっていったのだと思います。
これは例えば現代電子顕微鏡で捉えたウイルスの姿が
メディアで報道されると、こういうものかと、
まずは理解の第一歩につながる。
そのことに似ているのかもしれません」
【山本聡美さん(日本美術史)】
〇京都 祇園祭
豪華絢爛で知られる祇園祭も、そもそも平安時代の初めに
疫病封じのために始まった。
「その闇が深ければ深いほど、
光は強く美しく目に映るわけじゃないですか。
周りで疫病が蔓延し、人々がたくさん亡くなって。
暗い時代において人はより強く光を希求すると。
それを具現化するものとして美術が絢爛豪華になるって言うのは
我々人間が持っている心の在り方なのかなっていうふうに
感じます」【小野正嗣】
〇アマビエ
新型コロナウイルス感染拡大後、SNS上に「アマビエ」の絵が
次々にアップされている。
〇アマビエが描かれた唯一の史料 ☟
「江戸時代の終わり頃、弘化3年の日付が入っている瓦版という
江戸時代のメディアなんですけども、そのかわら版の中に
出てくる物で、右側の文章については肥後国、
今の熊本県の海の中にアマビエと名乗るものが現れて、
その後6年間の豊作と疫病の流行を予言する。
さらにその後自分の姿を写して人々に見せなさいといって
海の中に去って行ったと書かれています」
【福井県文書館の長野英俊】
〇アマビコ
アマビコ(海彦)の史料はたくさんある。
☟ この錦絵は明治15年にコレラが流行した時に
感染予防のお守りとして街中で売られたもの。
アマビコも疫病から守ってくれる妖怪。
以上です。アマビエとかアマビコをこの番組で初めて知りました。
今はアマビエがお守りになっているのですね。
今日は令和2年5月14日。
「阿・吽」7巻(おかざき真里作/小学館)を読みました。
この巻の前半部。
桓武天皇の死が迫ります。
急きょ唐から帰国した最澄は、
天皇に会うことを望むが叶いません。
中後半部。
唐の長安にいる空海は、青龍寺の恵果和尚を訪ね、
その下で過酷な修行を積みます。
恵果和尚は、空海を後継者として認めます。
難しいマンガです。
空想の産物ならだいたいわかればいいかと思えますが、
事実に基づいているストーリーのようなので、
社会科教師としては食らいつきたい気持ちで、
3回どおり読みました。
「最澄と空海は、ぞりゃあテストに出るから覚えておいてよ」
と言ってた言葉の軽いこと、軽いこと。
最澄と空海のやったことをマンガでなぞるだけでも、
とても大変です。
「灌頂(かんじょう)」が重要語句ですがよくわかりません。
ほとんどページ数が書かれていない本なので、
何話目かで示します。
第37話の中で「端午節」について説明しています。
引用します。
起源は、河に身投げをした
詩人屈原(くつげん)の命日等諸説ある。
中国旧暦で夏の盛りのこの時期、
疫病予防の慣習として定着した模様。
日本では戦国時代に
菖蒲→勝負
との見立てで男子の節句として広まった。
今は「疫病予防」という言葉に敏感に反応してしまいます。
絵でも説明してくれています。☟
本編と違って、コラムっぽいページはわかりやすいです。
今日は令和2年5月14日。
前記事に引き続いて、
「明治・大正 日本人の意外な常識」(後藤寿一監修/実業の日本社)
より引用します。
1890年(明治23年)に、アメリカから神戸や横浜に上陸し
たインフルエンザは古風にも「お染(そめ)風」と呼ばれて恐れら
れた。当時はインフルエンザウィルスの存在が知られていなかった
のだから無理もないが、なんと明治の人たちはインフルエンザにま
じないで対抗しようとした。
わずか100年前の日本人がそんな手段で病気を治そうとしてい
たとは、にわかに信じ難い話である。
(185~186p)
どんな話であるか、具体的な記述を引用します。
では明治のインフルエンザはなぜ「お染風」と称されたのだろう
か。諸説あるが次々に感染して拡大する「伝染病」から「染」の字
をとり、歌舞伎や浄瑠璃の物語、「お染久松」のヒロイン、お染と
の連想が結びついたのではないかという説が有力である。
「お染久松」は商家の娘お染と奉公人久松の身分違いの恋を描いた
心中物語だ。人々はその物語の筋にならって、「お染風」から身を
守る術を考え出した。
(186p)
この術がすごい。
「恋しい久松はここにはいないから来ないでくれ」という意味を込
めて「久松留守」と書いた赤紙や、お染のほうから避けることを期
待して、物語のなかでお染が無理やり嫁がされそうになる「山家屋
(やまがや)」の名前を書いた赤紙を門に貼ったのである。
ワクチンがない当時では、このようなほとんど気休めにすぎない
まじないだけが人々にできる唯一の策だった。
(186p)
8年前にこの本を読んだ時よりも、
今回引用した文章は印象に残ります。
医学が進み、環境も整備された現代、
コレラやインフルエンザのような伝染病が広がるとは
ほぼ思っていませんでした。
しかし、今現実、新型コロナウイルスは感染拡大し、
ワクチンがない状態です。
明治時代の人たちの気持ちに近づけたと思います。
今はアマビエ or アマビコにすがろうと思っています。
おまじないです。
以上で、「明治・大正 日本人の意外な常識」からの引用を終えます。
今日は令和2年5月14日。
前記事に引き続いて、
「明治・大正 日本人の意外な常識」(後藤寿一監修/実業の日本社)
より引用します。
明治時代の文明開化の象徴の一つが、男性の断髪。
髷(まげ)を落とすことでした。
断髪に対するさまざまな葛藤や攻防が繰り広げられるなか、断髪
の広まりによってよく売れた品物があった。それは帽子である。今
では日よけファッションのひとつとして用いられている帽子だが、
当時は、髷の亡くなった寂しさを紛らすためにと、売り出されたの
である。
案の定帽子はよく売れたのだが、帽子を買ったのは髷の寂しさを
埋め合わせる人たちばかりではなかった。その反対に、どうしても
断髪に踏み切れず、残した髷を帽子をかぶって隠した人たちも少な
くなかったようだ。
旧弊とされたちょんまげを隠すために洋装の帽子を用いたという
皮肉な話も、いかにも明治時代らしい逸話である。
(148~149p)
価値観なんて、時代で変わるんだなと思った逸話です。
日本では、古代以降、長い黒髪は女性の象徴とされ大切にされて
きた。明治時代に入ってもその考えは変わらず、長い髪を束髪など
に結い上げるのが一般的であった。
その後、女性の社会進出も手伝って、大正時代に入るとその長い
髪をばっさり切る女性たちが現われはじめる。
ところが、現在では一般的といえる女性のショートカットに対し、
当時の人々は今では考えられないような反応を見せている。
断髪の元祖と呼ばれる読売新聞記者だった望月百合子が初めて断
髪して銀座を歩いたとき、行き交う人々からまるで見せ物小屋の猿
を見るように奇異な目つきでみられ、呆れられたという。(中略)
当時の人々にとって、髪の短い女性の存在は信じられないものだ
ったに違いない。
実際、断髪をする女性に対する社会の反発は根強く、断髪の女性
は嫁の貰い手がなくなると毛嫌いされた。また、女学校でも断髪に
するだけで退学を命じられた例があったというから、当時の女性が
断髪をするには相当の勇気が必要だったことがわかる。
(150p)
「退学を命じられた」
それはすごい。
100年後にビックリされるような価値観が、今もあるのだろうか。
そんなことを思いました。
近代化が進むにつれ、望月百合子のように、果敢に新しいスタイ
ルに挑戦する女性たちが続々と登場する。彼女たちはモダンガール、
略して「モガ」と呼ばれた。
これに対応して男性はモダンボーイ、略して「モガ」と呼ばれた。
モガはカンカン帽子、オールバックの髪型ともみあげ、ちょびひ
げ、縞や格子の柄の洋服にステッキをもった姿がトレードマークだ
った。
一方、モガはショートスカートにハイヒールの靴など外国の女優
をモデルにしたスタイルが多かったが、なにより髪を断髪にするこ
とが第一条件であった。そのため着物を着ていても断髪であればモ
ガと呼ばれた。
(150~151p)
文明開化の時期の男性の断髪、
大正時代の頃の女性の断髪のこと、
今なら授業で話すことができます。
次はいよいよインフルエンザのことを記事にします。
今日は令和2年5月14日。
前記事に引き続いて、
「明治・大正 日本人の意外な常識」(後藤寿一監修/実業の日本社)
より引用します。
今では寝具としてすっかり一般的になった毛布だが、もともとは
開国とともに開国とともに海外から日本に持ち込まれたもの。英語
のブランケットを略して「ケット」と呼ばれることが多かった。
当初は日本に入ってきたこの毛布はほとんどが赤色をしており、
明治初期の陸軍でも兵卒の寝具はやはり赤い毛布だった。その防寒
・防湿の特長からマントの代用として用いられ一人につき4枚支給
された。
その後、巷にも赤い毛布が出回り、人力車の腰かけやひざ隠し、
芝居の桟敷、茶店の床几(しょうぎ)など、至るところにこの赤い
毛布が使われるようになった。
1993年(明治26年)頃からは日本国内でも毛布が生産され
るようになるがしれもまた赤い毛布、当時でいう「赤ゲット」だっ
た。こうして日本では、毛布=赤という認識が定着していった。
(106~107p)
今の若者はバラエティ豊かな毛布を見ているかもしれませんが、
私のイメージは「毛布=赤」です。
納得です。赤は暖かい色なので使われたのかな。
ついでに「タオルケット」が気になって調べました。
Wikipediaによると次のように書いてありました。
厚手のタオル地で作られた身体の上にかけて、
あるいは身体をくるんで使用する寝具である。
タオルケットとは、タオル(英: towel)と、
掛け合わせた和製英語である。
英語ではコットン・ブランケット(cotton blanket)と呼ぶ。
「タオルケット」は和製英語だろうなと思って調べました。
予感は当たりました。
日本に列車が走るようになったのは、1872年(明治5年)。
日本の列車には1888年(明治21年)まで、
トイレがありませんでした。
当時は走行距離が短いため必要がなかったこともあるが、なによ
り動く列車にトイレをつけるなど考えもつかなかったのである。
しかし明治も半ばになると、路線も延長され、長距離列車を楽し
む人が増えてくる。今日では列車に乗るときにわざわざトイレ事情
を気に留める人はごく少数だろうが、明治の人々にとってトイレの
問題は非常に切実だった。列車にトイレがないのだから、用を足す
ためには短い停車時間のうちに駅のトイレへ駆け込むしかなかった
のだ。出発時ともなれば発車間際の列車に飛び乗る人々が続出する
ため、危険も取りざたされるようになった。
そしていよいよ官営鉄道がトイレの導入を検討していた矢先の明
治21年、ついに事故が起こる。停車中に駅で用を足した後、走り
出した列車に慌てて乗り込もうとした政府高官が列車への飛び降り
に失敗、転落死してしまったのだ。
この事故を受け官営鉄道は当初の予定を半年早め、急きょイギリ
スからトイレつきの客車を購入し、東海道本線で走らせている。以
後、トイレ付客車が純次導入されていくことになった。
(117p)
この資料には次のように書いてありました。
本とは年数が1年ずれます。
1889年(明治22 年 4 月 27 日)宮内省の
肥田浜五郎氏が藤沢駅でトイレ行ったところ列車が発車してしまい、
あわてて列車に飛び乗らんとしたが乗りそこない
転落死亡する事故がありました。
肥田氏は当時政府の高官であったため、
新聞社がこぞって列車トイレの必要性を書き立てました。
亡くなった人の人名、現場の駅もわかって
出来事がよりリアルに伝わってきました。
今日は令和2年5月14日。
前記事に引き続いて、
「明治・大正 日本人の意外な常識」(後藤寿一監修/実業の日本社)
より引用します。
卓袱台(ちゃぶだい)が日本に普及したのは明治中頃と意外に歴
史は浅い。それ以前の食卓スタイルはどのようなものだったのだろ
う。
時代劇などを思い出してほしい。江戸以前の日本では食卓を他人
と共有していなかった。各自、自分の前に膳を置いて食事をすると
いうのが、長らく日本で行われていた食事の風景である。
膳には多くの種類があり、懸盤(かけばん)や蝶足膳(ちょうあ
しぜん)は貴族用・大名用、宗和膳(そうわぜん)や猫足膳は茶席
用など形式で使用できる身分が決められていた。一般庶民のなかで
すら家長が木具膳(きぐぜん)、ほかの家族は折助膳(おりすけぜ
ん)と区別されていたのである。
(94p)
「時代劇などを思い出してほしい」
私は最近観た映画「武士の家計簿」を思い出しました。
調べてみました。
2016年2月2日放映の映画「武士の家計簿」(2010年)の
写真です。☟
全員が木具膳のように見えます。
身分制の結果としてかつて個人の膳を分けていた習慣は、じつは
今日の生活に引き継がれている。フォークやスプーン、洋食用の食
器は揃いものであったり共用したりするのに、茶碗と箸だけはそれ
ぞれ自分専用のものを使っていることが多い。これは膳を使ってい
た時代に、個人の箸や茶碗が決まっていたことの名残であろう。
(96p)
8年前に読んだ時にはこの部分どう思ったのだろう。
今回読み直して、最も印象に残ったのはここです。
確かにそうだ、なるほど!と思いました。
文化鍋、文化包丁などといった言葉は今でも耳にすることがある
のではないだろうか。
大正時代には文化鍋、文化包丁などあらゆるものに「文化」とい
う冠をつけることが流行した。もともとは西洋文化から持ち込まれ
たものを「文化〇〇」と呼んでいた。従来使われていたものよりも
便利で合理的なものを指していたようだ。この「文化〇〇」シリー
ズは大正時代の人々がもっていた近代的で合理的なものに対する憧
れの強さの証といえよう。
(96~97p)
「文化〇〇」はちょくちょく聞きますが、
大正時代が発祥だったのですね。
ちなみに文化鍋はこれ。☟