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2024年9月15日 (日)

本「日本海軍はなぜ過ったか」② 軍令部総長 伏見宮博恭王

  

今日は令和6年9月15日。

  

前記事に引き続き、

「日本海軍はなぜ過ったか」

(澤地久枝、半藤一利、戸髙一成/岩波書店)

から引用していきます。

  

戸髙

(前略)その大枠として、海軍全体が悪者にされるのは嫌なんです

ね。だから、この話についてはそうだ、と。たとえば千早正隆さん

は、じつはあの通りなんだ、海軍はアメリカを舐めきって、作戦を

立てていたんだと私に言ってくれたこともあります。

そういうふうに、海軍の人たちには、海軍を守りたいという気持ち

と、やはり事実を残したいという気持ちのなかで一つの葛藤があっ

たんですね。それで、晩年になってやはりどこかで残しておきたい

という気持ちが、反省会という形でまとまったんだと思っています。
 

半藤

戦後もここまで時間が経ってくると、皆さんがかなり素直になって

きたんですよね。私たちが会ってる時代はものすごく頑なな人がい

ましたが、それが今度は、反省会のテープを聞きますと、アレアレ、

この人ずいぶん素直に発言しているなぁという人もいますね。

(18~19p)

  

海軍反省会の出席者の、心の迷いを書いてあるところ。

自分のためには、やってきたことを正当づけたいです。

でも、後の人たちのためには、本当のところを残したい。

そう思うんですね。そうですよね。

  

戸髙

この世代は、実施部隊の人が少ないのは当然で、みんな死んでいるん

ですよ。中小艦艇の艦長クラス、中佐の古手くらいの世代は、戦死率

が非常に高いので、本来反省会にいてしゃべったらいいような人はず

いぶん亡くなっていますね。船が沈むときは、艦長は一緒に沈むのが

当たり前という時代の人たちだから。

澤地

そうです。ですから、反省会は生き残りエリートの会議だなという感

じがしますね。

(24p)

  

そうなんです。

士官や参謀の生き残りの人たちなので、戦場で戦った人ではなく、

命令を下した人たちが、海軍反省会の出席者でした。

でも、こういう人たちだから告白できることもあります。

なぜ戦争を始めたか、なぜ特攻を始めたかなど。

  

半藤

(前略)しかも伏見宮様という人は、千早正隆さんに聞いた話ですが、

格好のいい海軍軍人が好きでねぇ。スタイルのいい、背のすらっとし

て、いかにも見栄えのする海軍軍人が好きで、能力があるとか無能と

かは関係ない。格好いいやつを自分のまわりに置きたがるんだ、と言

ってましたけどね。そこに出てくるのが及川古志郎や嶋田繁太郎さん

とかであるわけで、兵学校同期生の山本五十六に言わせれば「お目出

度い嶋はん」というくらいにお目出度い人が、大臣になる。そういう

意味で、伏見宮様の影響については、この反省会のなかでも言ってい

ますよね。

(37p)

  

この伏見宮様は、この本で初めて知った人です。

好戦的な方のようです。

調べてみます。

Wikipedia 伏見宮博恭王

伏見宮家というのがあって、皇室の宮家の一つ。

この本に出てくる伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)は、

25代目当主。

日露戦争の黄海海戦に参加。

後に艦長や艦隊司令長官を務めるなど、

実戦経験が豊富な皇室軍人でした。

  

ここからは動画で勉強。


YouTube: 【伏見宮博恭王の生涯】海軍の影のボス。海軍部内で神格化されていた皇族軍令部総長。条約派、艦隊派。

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海軍が始めた特攻という作戦を誰が考案したのかは、

正確には特定できていないようです。

その責任は、個人になく、海軍という組織だったようです。

やはり誰も、無謀な特攻という戦法の責任者になりたくなかったのでしょう。

そんな海軍の中で、特攻を進めた一人が、

伏見宮博恭王でした。

Img_7514

Img_7515  

戦前の皇族は、陸海軍の軍人へ進むのが一般的だった。

そうなんですね。

今では全く想像がつかないです。

博恭王のお父さんは陸軍に入り、西南戦争、日清戦争、日露戦争に

従軍したそうです。

お父さんが陸軍だったので、博恭王は海軍を選びました。

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日露戦争に従軍して、名誉の怪我もしたことで、

博恭王は、海軍の中で重要なポストに位置するようになります。

Img_7519

ロンドン海軍軍縮会議の結果によって、

海軍上層部は分裂します。

結果に賛成の条約派、不服とする艦隊派です。

博恭王は艦隊派の考えに賛成でした。

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海軍を統率するのは、政府の海軍省なのですが、

海軍の中の軍令部が強くなり、海軍省の言うことを聞かなくなります。

その軍令部総長になります。海軍省トップの海軍大臣と、

肩を並べるような地位になっていました。

博恭王は、条約派を排除して、艦隊派のメンバーで、

上層部を構築していきます。

ドイツ、イタリアとの三国同盟も主導して、

事態は、対米英となりました。

海軍を太平洋戦争に導いた中心人物とも言えます。
 

1943年に博恭王は、軍令部総長を辞します。

この動画では、陸海軍のトップに皇族がいることを

昭和天皇が良しとしなかったと説明しています。

戦争責任を皇族に負わせたくなったと考えられます。

しかし、軍令部総長を辞した後も、

博恭王は海軍に対して発言し続けました。

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博恭王の考え方は、対英米の戦争は、早期開戦、早期講和でした。

海軍大臣に、博恭王を信頼する嶋田繁太郎が就任。

嶋田大臣は、戦争反対の考えでしたが、博恭王に説得されて、

戦争遂行に決断します。

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この本を読んで知った人物ですが、重要な人物でした。

戦後、博恭王は戦犯にはなりませんでした。

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まさにこの本に出てくる「海軍反省会」で俎上に登ったのです。

  

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終戦翌年に、薨去されました。

享年70歳。

  

勉強になりました。


  

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