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2024年9月15日 (日)

本「日本海軍はなぜ過ったか」③ 対英米感情になっていった理由

   

今日は令和6年9月15日。

  

前記事に引き続き、

「日本海軍はなぜ過ったか」

(澤地久枝、半藤一利、戸髙一成/岩波書店)

から引用していきます。

   

澤地

そもそもなぜ、日本海軍は仮想敵国をアメリカとしたんでしょうか。

半藤

日露戦争が終わったあと、日本帝国は大躍進して強国の仲間入りを

しました。では、このあとどういう軍備を整えていくか、明治四二

年に決めたのです。 本当は資源もないし、国力もないし、人間の数

だって少ない、生産力も劣っている、強国でも一流国でもない。で

も、意識としては一等国。その一等国としての軍備をどう整えてい

くか問題になったときに、明治天皇の前で陸軍は、ロシアを仮想敵

国として軍備を整えると決めました。

それともう一つの要素を加えれば、第一次世界大戦に日本は、実際

には大した戦闘に参加しませんでしたが参戦し、同盟国のイギリス

の要請に基づいて、地中海まで艦隊を出しました。そのときの日本

海軍に対するイギリスの扱い方が、どうもよくなかったようですね。

日本を小僧っ子扱いした。自分たちの思いからすると、イギリスに

はうまく上手に使われちゃった、という感じだったようです。アン

グロサクソンに対して不信感が生まれた。

澤地

山口多聞も、地中海で駆逐艦に乗っていました。でもイギリスにし

てみれば、日本が参戦してくることはないのに、何か火事場泥棒み

たいな感じがしたのではないですか。

(42〜43p)

  

第一次世界大戦に、日本が参戦したのは知っています。

中国の青島(チンタオ)での戦闘を思い出します。

地中海まで出かけて行ったことについては、うろ覚えでした。

地中海で戦死者が出ているのかどうか。

澤地さんが聞いています。

  

澤地

それで戦死者は出していないんですか?

戸髙

かなり出ていますよ。いまでも地中海のマルタ島には、海軍が派遣し

た第二特務艦隊の戦死者の碑があります。駆逐艦「榊(さかき)」が

敵の潜水艦の魚雷で、艦首を切断するような瀕死の大被害を受けたん

です。ですからそういう意味で、日本側としてはかなり頑張ったのに

あまり評価がされなかった。そういうような意識はありました。

それと、アメリカが日英同盟を嫌うんですね。マハンなどは、代表作

の『海軍戦略』などで、日本とアメリカが衝突したらイギリスはどう

いう態度をとるのか、と、露骨に不信感を表しています。同盟関係と

はそういうものなんですね。それでアメリカは、日英同盟を破棄させ

ようという運動をしたわけです。そういったことが重なって、日英同

盟がなくなってしまう。 日英同盟を破棄したあとの日本は、最も重

要だった欧米との外交のパイプを失い、本当に世界から孤立してゆく

ことになりました。

半藤

大正11年のワシントン軍縮会議での条約調印と同時に、アメリカの

裏工作が効いて、日英同盟は破棄された。その途端にイギリスは日本

を、敵と言わないが、小馬鹿にしはじめる。それまで日本人のイギリ

スへの留学があったのを全部シャットアウトするとか、イギリスの態

度が、海軍からすれば許し難いほうに変わっていく。ですから昭和に

なって、海軍軍人のなかで反英感情がどんどんわいてきます。当初ア

メリカに対しては、仮想敵国と言っていましたが、それほど強い反米

感情はなかったと思いますね。しかし、イギリスとアメリカはのべつ

くっついていますから、いつの間にか、反英感情が反米感情になり、

戦争が始まる直前には、「反米英」と「米」が上に来てしまった、と

いうふうに変わるんです。

(44〜46p) 

  

まずは、地中海の戦闘に注目したいです。

乗り物ニュース 10th 乗り気じゃなかった? 日本艦隊ヨーロッパ派遣の残響 マルタ島の慰霊碑が物語る世界の評価

このサイトで勉強ができました。

駆逐艦「榊」の写真もありました。転載します。

Img_7529

文章を引用します。

  

当時、連合軍の護衛艦艇は商船が魚雷で攻撃されると、自分も攻撃を

受ける危険性が高いため生存者を救出しませんでした。しかし日本か

ら来た第二特艦隊は、逆に救出を積極的に行ったことから、連合国の

商船サイドから船団護衛を直々に要望されることもあったそうです。

  

連合国はイギリス、フランス、イタリアですが、フランス、イタリアは、

商船を守ることに消極的でした。

イギリスと日本の2国が守っていたそうです。

  

船団護衛を始めて間もない1917(大正6)年6月に、駆逐艦「榊」が

オーストリア=ハンガリーの潜水艦U-27から雷撃を受けます。「榊」

は艦首を失ったほか、艦長以下59名が戦死しました。かろうじて「榊」

は沈没を免れ、イギリス駆逐艦の手助けを得て近くのクレタ島まで曳

航され、たどり着きました。「榊」の戦死者はマルタ島に埋葬された

ことから、彼の地には現在も慰霊碑が残っています。

第二特務艦隊の作戦は、第1次世界大戦の終結まで続きました。彼ら

は連合国の間で高く評価され、このことは終戦後に設立された国際連

盟で、日本が常任理事国になるきっかけの1つにもなったのです。

  

遠く離れた異国の地で、59名が亡くなっているのですね。

作戦は第一次世界大戦終結まで続いたので、

さらに戦死者は出たのではないでしょうか。

命を落として、歴史からも忘れられたら、

浮かばれません。やっと私は知りましたよ。

Wikipedia 第一次世界大戦の犠牲者

このサイトによると、日本人の戦死者は

450人でした。

他のサイトでは、300人というのが多かったです。

  

  

「乗り物ニュース」のサイトでは、イギリスは日本海軍が来てくれて

ありがたかったような記述でしたが、

本当はどうなんでしょうか。

  

そして日英同盟を破棄された後の、イギリス、アメリカの態度。

どうだったのか。

これからはこの視点でも見ていきたい。

  

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