「ミャンマー現代史」③ 軍は民意を愚民観と陰謀論で見る
今日は令和4年12月6日。
前記事に引き続き、
「ミャンマー現代史」(中西嘉宏著/岩波新書)
より引用します。
適当に開いたページから引用します。
どこからでも勉強が始まる本です。
スーチー政権の評価はさまざまあるが、そもそもスーチーに対す
る周囲の期待が高すぎた。スーチー自身、自らへの期待も高すぎた
のだろう。民主化のユーフォリア(多幸感)である。国際援助の世
界では、どの国でも政治経済体制が自由民主主義と市場経済に近づ
く(べき)という前提を「移行パラダイム」と呼ぶことがあるが、
ミャンマーの改革に対する世界の反応は、そうした冷戦後のパラダ
イムがいまも健在であることを感じさせた。
冷静に考えれば、約50年間軍事政権が続いた国が、そう簡単に
変わるはずはない。変化は多くの場合は緩やかで、進歩と後退を繰
り返す。
(148p)
そうなんだ。そう思ってしまいます。
どの国も、自由民主主義と市場経済の国になるのがいいんだと。
中国でも、先日、「民主主義!」と叫んだデモがありました。
民主主義が理想の国家だと思い、そこに移行するのを期待します。
でもそこに行きたくても、簡単に行けない国があるのです。
ミャンマーがそうでした。
最近は、そもそも民主主義が本当に理想なのかと疑う記事もあります。
揺らぎます。
前任のタンシュエは寡黙だった。20年以上最高権力者の地位にあ
りながら、話すのは軍人に向けた訓示ばかりで、国民に向けた言葉は
ほとんど発することなく、自身の神格化にも興味を示さなかった。世
界で最も目立たない独裁者のひとりだったかもしれない。
一方で、ミンアウンフラインはよくしゃべる。2017年8月にロ
ヒンギャ危機が発生するまでは、外国メディアのインタビューにも答
えていたし、訪問する外国要人とも頻繁に会い、外遊にも積極的だっ
た。
(153~154p)
タンシュエは、1988年から2011年までの
軍事政権のトップだった人です。
肩書は軍最高司令官。
そしてその後を継いで、軍最高司令官になったのが
ミンアウンフラインです。
2011年からの軍事政権のトップに君臨する人です。
最高司令官に就任して以来、軍改革を進めて自信を深めていたミン
アウンフラインに、スーチーは挑戦を続けた。といっても、スーチー
を支える国民の支持は、それだけでは軍の実力行使を抑え込むには十
分ではない。軍は民意をだいたい二通りの見方で理解する。感情的な
振る舞いか、欧米の介入かだ。愚民観と陰謀論と言い換えてもよいが、
こうした見方が続く限り、いかに選挙で勝っても軍が政治に関与しな
くなることは期待できない。
そんな軍と、非暴力闘争を信念とする勢力との権力争いなのだから、
軍が実力を行使すればいつでも勝つことができる。もちろんそんなこ
とは民主化勢力が一番知っている。スーチーは合計で15年にわたっ
て軟禁され、議員の多くには投獄歴がある。つまり、軍による実力行
使の被害者にほかならないのだ。この非対称的な力関係のなかで、軍
の最終手段の行使を抑止しながら軍中心の体制を変えるという難しい
課題にスーチーは挑んでいた。
(155~156p)
軍の民意の見方は衝撃ですね。
民意を信頼していません。
現在も、軍は、民意をそうやって見ているのでしょう。
軍はスーチー政権に不信を強めていった。その最も大きな理由のひ
とつは、軍と少数民族武装勢力との衝突の増加である。
まず、ロヒンギャ危機があった。2017年8月25日、ラカイン
州北部で紛争が勃発する。
(158p)
当時、ニュースで報じられていたと思います。
長く迫害されてきた民族ロヒンギャが、
武装勢力をつくって、軍や警察を攻撃したのです。
軍は即座に掃討作戦を行い、
民間人にも多数の犠牲者が出て、
60万人~70万人の難民が、隣国バングラデシュに流出しました。
その他にも、ラカイン州と呼ばれる場所は不安定でした。
武力衝突が急増していました。
急増の原因はアラカン軍(AA)との戦闘の増加だ。ちなみに「
アラカン」とは現在のラカイン州の西岸の英語呼称で、ポルトガル語
の「アラカオ」から変化したものだと言われている。このラカイン州
の北部にある町ムラウーを中心に、かつて王朝が海上交通で栄えた。
その王朝がビルマ人の王朝であったコンバウン朝に滅ぼされたのが
18世紀後半のことである。ムラウー朝の滅亡と征服の歴史、そして、
ビルマ人中心の国家の周辺で最貧地域のひとつとなった屈辱があって、
ラカイン人はビルマ人への強い対抗意識を持つことで知られる。
(166p)
ミャンマーは、多民族国家であることが、
国として不安定な大きな原因になっています。
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