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2022年4月

2022年4月 7日 (木)

「新ドキュメント 太平洋戦争1941第1回開戦~前編~」③

       

今日は令和4年4月7日。

   

前記事に引き続き、

昨年12月8日放映の「NHKスペシャル  新ドキュメント 

太平洋戦争 1941 第1回 開戦 ~前編~」の聞き書きをします。

   

  

ナレーター:1941年、太平洋戦争開戦の年が開ける。日本はアメ

  リカの経済制裁の影響であえぎ始める。

1月のニュース映像「全国から集められた銅や鉄類の献納品は1千ト

  ンに達しました。」

ナレーター:国は不足した鉄などの資源を補うため、市民から供出さ

  せた。街中から金属が消え、経済全体が冷え込み始めていく。

  作家永井荷風は、散歩の途中で見た光景を、日記に綴っている。

日記「道すがら、虎ノ門より櫻田へかけて立ちつらなる官庁の門を見

  ると、今まで鉄製だったのをことごとく木製に取り換えていた。

  これは米国より鉄の輸出を断られたためである。」

ナレーター:市民の日記から、「品切れ」「枯渇」など物資不足に関

  する単語を抽出。1941年1月以降、増加傾向が顕著になって

  いく。同じ時期、戦争への関心も高まっていた。戦争に関する単

  語数も、増加に転じていた。

  生活の不満の高まりを背景に、アメリカに対する過激な論調が目

  立つようになっていた。当時のオピニオンリーダー、徳富蘇峰、

  1月、ラジオでこう呼びかけた。

発言「米国は日本が積極的に進んでいけばむろん衝突する。しかしぼ

  んやりしていても米国とは衝突する。早く覚悟を決めて、断然た

  る処置をとるがよい。」

ナレーター:さらに当時のベストセラー作家が刊行した本、「日米戦

  はば」

記述「米国なお反省せず。我が国の存立と理想を脅かさんとすること

  あらば、断然これと戦うべし。日本は難攻不落だ。」

ナレーター:今で言うインフルエンサー的存在。戦争を煽るような言

  葉が、人々をとらえ始めていた。この頃、雑誌が日米戦は避けら

  れるかというアンケートを行った。4割もの人々が「避けられな

  い」と回答した。

日記「米英の妨害を断然排除して進まねばなるまい。」

ナレーター:静岡、伊東市で書店を営む竹下浦吉さん。不穏な未来を

  予測していた。

日記「日本がドイツと同盟して東亜に新秩序を確立せんとする以上、

  どうしても米英との衝突は免れぬと思う。」

ナレーター:子育て中の主婦金原さんも、危機感をいだくようになっ

  ていた。

日記「日米間の情勢について、だいぶ悲観的な話を聞くようになり、

  ママたちも本気で心配するようになっている。本当に日米戦が起

  こったら、東京空襲も免れないし、住代ちゃんのような弱い子を

  お医者もいない田舎に連れて行って、もしものことがあったらと

  思うと暗然とする。しかし、何という時代に生まれ合わせたもの

  か!強い母にならねばならない。」

ナレーター:開戦の8カ月前、国の指導者たちは、アメリカとの決定

  的対立を避けるための外交交渉に乗り出そうとしていた。背景に

  は、陸軍が極秘で行ったアメリカとの戦力比較のシュミレーショ

  ンがあった。その報告に立ち会った将校のエゴドキュメントが残

  されていた。そこには、指導者たちの本音が、吐露されている。

日記「3月18日。物的国力判断を聞く。」

ナレーター:陸軍の中枢で、政策決定に関わった石井秋穂中佐。この

  日、参謀本部で明かされたシュミレーションの結果は、陸軍の首

  脳に衝撃を与えた。

日記「誰もが、対米英戦は予想以上に危険で真にやむをえざる場合の

  ほかやるべきでないという判断に達したことを断言できる。」

ナレーター:資源豊富なアメリカとの戦争が、2年以上に及んだ場合、

  日本側の燃料や鉄鋼資源が不足することが判明。これを受け、陸

  軍大臣東条らは、日米戦争は回避すべきと判断した。    

  軍や政府の決定を知る由もなかった金原さん。育児日記に大きな

  変化が現れる。

日記「今こそ、日本の歴史の大転換期であり、住代の育児日記も母の

  目に映った世の有様を書き記していこうと思う。」

ナレーター:6月。金原さんを震撼させる出来事が起きる。

日記「世界の情勢は、また大変なことになってきた。独ソ開戦。寝耳

  に水のこのニュースに世界中大混乱である。日本の立場こそ、デ

  リケートなものになってきた。」

ナレーター:ドイツが突如ソビエトを侵攻し、独ソ戦が勃発。金原さ

  んは敏感に感じ取っていたように、日本の運命を大きく左右する

  ことになる。

  独ソ戦勃発から10日後。それまでアメリカとの戦争を避けよう

  としてきた指導者たちが、ここで決定的な判断ミスを犯す。

  日本軍が南部仏印、今のベトナム南部に進駐したのだ。

日記(石井秋穂)「自存自衛上、立ち上がらねばならない場合に備え

  て、あらためて南部仏印に軍事基地をつくるという要求が生まれ

  つつあった。

ナレーター:独ソ戦により日本にとって背後のソビエトの脅威がなく

  なった。その隙に、アメリカの禁輸政策のため欠乏する資源を手

  に入れようと、東南アジアの資源地帯を、抑えようとしたのだ。

  アメリカは、日米のパワーバランスを崩しかねない日本軍の行動

  に強く反応した。そして、日本への石油の輸出を止めた。石油の

  9割をアメリカからの輸入に頼っていた日本にとって、計り知れ

  ない打撃だった。軍の指導者たちは、アメリカがそこまで強硬に

  反応するとは、想定していなかった。南部仏印進駐に関わった石

  井は、こう振り返っている。

日記「大変お恥ずかしい次第だが、南部仏印に出ただけでは、多少の

  反応は生じようが、祖国の命取りになるような事態は招くまいと

  の甘い希望的観測を抱えておった。」

ナレーター:希望的観測が招いた石油の禁輸。アメリカとの戦争に慎

  重だった海軍も、態度を大きく変える。

発言「じり貧になるから この際決心せよ」

ナレーター:海軍のリーダー、永野修身。この捨て鉢とも受け取れる

  言葉の裏には、永野なりの算段があった。

発言「今後は、ますます兵力の差が広がってしまうので、今戦うのが

  有利である。」

ナレーター:石油が底をつけば、戦争はできない。その強迫観念が、

  指導者を戦争へと駆り立てようとしている。

  事態を冷静に見ていたリーダーもいた。海軍次官。澤本頼雄。開

  戦に強く反対する。

メモ「資源が少なく国力が疲弊している状況では戦争に持ちこたえる

  ことができるか疑わしい。」

ナレーター:澤本は戦争に勝ち目はなく、日米の外交交渉で解決をは

  かるべきだと主張した。

メモ「この方向に向かうことこそ、国家を救う道である」

ナレーター:開戦まで半年を切っていた7月。市民の生活はいっそう

  過酷な状況になっていた。物資不足に関するグラフは、さらに高

  まりを見せる。

日記「帰りに八百屋に寄り、何でもいいから買おうと思ったが何もな

  し。あわれ菜っぱ一束、胡瓜一本も買うこともできない。」

日記「食べ物の悲惨 うまいもの食ったのはいつのことなりしか 肉

  なしデー ついに冗談ではなく実現す」

ナレーター:国民の食糧不足を補うため、政府がたんぱく源として推

  奨したのが、昆虫食。蚕から絞り出した油を食用油に、搾りかす

  でうどんを。さまざまなレシピを発表していた。生活に困窮する

  市民。人びとは、日々積み重なる不満をどこに向けていたのか。

  井上重太郎さん。大阪で精米店を営み、かつては政府の米の管理

  に、強い不満を記していた。国が米を統制するようになり、価格

  は下落。個人経営では、立ち行かなくなっていった。

日記「組合の人々は集会して、米の共同販売のことを相談している。

  やむをえない 時勢に従うほかはないようになってきた。」

ナレーター:国策によって追い詰められ、自分の店をたたまざるを得

  なくなった井上さん。しかし、逆に国に協力する言葉や活動が増

  えていく。その一つが、隣組だ。食糧の配給など、生活を国が統

  制するための地域組織。国防のための奉仕を求められた。

日記「近衛首相の放送があったが、愛国心を説き、国民の総力をもっ

  て、困難の克服を強調された。全国一斉に隣組の常会を開くとい

  う。今夜は自分のうちで開いてくれと頼まれている。全国民がは

  りきっている。」

ナレーター:戦時体制の元、言論を取りしまり、愛国教育を強化して

  きた日本。多くの国民は、協力して、国の危機を乗り切るべきと

  考えるようになっていた。

  娘が1歳を迎えた金原さん。育児日記に、戦争への覚悟の言葉が

  現れるようになる。

日記「住代ちゃんにあげるおやつを探し回って、午前中をつぶしてし

  まった。パン屋さん全部休み。世界戦争も実現するかもわかりま

  せん。住代ちゃんも食べるものも不満足ですが、でもしっかりや

  っていきましょう。大東亜建設のため、次の日本を背負って立つ

  のは住代ちゃん あなたがたなのです。丈夫に育って、立派にお

  国のために尽くしなさい。パパもまた一命を国に捧げねばならな

  くなるかもわかりません。」

ナレーター:「お国のため」生活の不安とアメリカとの戦争の予感が

  結びつき出てきた言葉だった。

日記「アメリカの参戦も時期を早めるだろうとの予測もある。肉がな

 いお菓子がないどころの騒ぎではなくなってきたのだ。しかしこれ

 もお国のためと思えば我慢する。」

専門家「自分たちを苦しめているのは政府ではなく、背後でイギリス

  やアメリカが経済的に圧迫していくので、われわれの生活はどん

  どん追い込まれていくと。自分たちの生活を苦しめている敵、英

  米を叩いたら、生活も元に戻る。そういう意味で、お国のためと

  いうことが、素直に受け入れられていた。」

  

  

ここまでにしよう。

つづきは明日の朝にしよう。疲れた。

49分番組のうち、38分まで聞き書きをしました。

明日の朝で終わりになる予定です。  

2022年4月 6日 (水)

「新ドキュメント 太平洋戦争1941第1回開戦~前編~」②

    

今日は令和4年4月6日。

   

前記事に引き続き、

昨年12月8日放映の「NHKスペシャル  新ドキュメント 

太平洋戦争 1941 第1回 開戦 ~前編~」の聞き書きをします。

   

ナレーター:子育てにいそしむ金原まさ子さん。日記には、子ども

  のご飯が質素になってきたことが、綴られている。

日記「8月11日。外米になってから、子どもの腹こわしが増えた。

  今月からは麦が入る。7割外米の麦入りときては大変なり。大

  人は我慢するが、子どもはかわいそうだ。」

ナレーター:実は住代ちゃんの兄は、幼くして食中毒で亡くなった。

  そのため、金原さんは、娘の体調をひときわ心配していた。

  大阪で精米店をきりもりしていた井上さん。ピアノを楽しむ余

  裕も消え失せ、政府に不満をいだくようになっていた。

日記「政府はいたずらに統制、統制と言って、配給が遅れている。

  米の入荷がないので、配達することもできぬ。」

ナレーター:生活の変化の背後にあったのは、3年に及んでいた日

  中戦争だった。戦時体制が強化され、政府は食料を統制。農村

  部では、軍への米の供出を強いられた。食糧難の影響は、都市

  部にも広がり、市民の贅沢が禁止された。暮らしに影が立ち始

  めた開戦の前年、市民はアメリカを戦争の相手国として意識し

  はじめたのは、いつだったのか。

  埼玉県浦和に住む女学生、笠原徳さん。当時17歳。この年、

  1月の日記に綴られていたのは、アメリカへの夢や憧れだった。

日記「午後、シネマを観に行った。昨年度のアカデミー賞を得た「

  スタア誕生」といふの。ロスアンジェルス ロマンティックで

  美しくあざやかだった。」

ナレーター:笠原さんは、アメリカの友人と文通し、見知らぬ国へ

  の憧れを募らせていた。

  これは当時の映像。人びとはハワイアンやジャズに夢中だった。

  アメリカ文化が流行し、反米感情よりむしろ親近感をいだく市

  民が多かった。

  しかし、しだいに笠原さんの日記では、別の国の存在が増して

  いく。ドイツだ。

日記「6月2日。訓練されしドイツ軍。中でも英仏より数世紀も進

  んだ機械化部隊の活躍めざまし。今度の戦い、ドイツに凱歌あ

  がらん。」

ナレーター:当時、ヨーロッパでは、第2次世界大戦が勃発。ドイ

  ツ軍は破竹の進撃を続けていた。笠原さんのドイツへの関心は、

  日を追って高まっていった。

日記「9月27日。日独伊、積極的な同盟生まれる。軍事、政治、

  経済、あらゆる方面から完全に一体となり、世界の民族のリー

  ダーとなれる。三国の力強さ、ますます心ひきしまる。」

ナレーター:17歳の心をとらえた三国同盟。日米開戦の1年3カ

  月前。日本は、ドイツ、イタリアと同盟を結んだ。日本の狙い

  のひとつは、日中戦争の解決。中国を支援するアメリカやイギ

  リスを、ドイツと組んで牽制することであった。日本はナチス

  ドイツの人気に湧いた。

  デパートにはためく鍵十字の旗。両国の絆を祝うダンスショー

  を、人々は喝采した。

  アメリカを強く刺激し、太平洋戦争開戦の大きな要因となった

  とされる三国同盟。危機感をいだく人物がいた。後に真珠湾攻

  撃を指揮する山本五十六は、こう訴えた。

発言「三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなりし上は、日米

  戦争を回避する様、極力ご努力願いたい。」

ナレーター:ドイツとの同盟が戦争をもたらすリスク。市民はどこ

  まで認識していたのか。今回集めた市民の日記から、戦争に関

  係する単語を抽出。その数は延べ2万に達した。それを時系列

  に沿って並べ、戦争への危機感や関心が、どのように変化して

  いったのかを探っていく。

  1940年から翌年にかけて、最も高い値は、日米が開戦した

  1941年12月だった。一方、グラフの値が最も落ち込む時

  期があった。三国同盟が結ばれた1940年の9月から11月

  にかけてだ。アメリカとの戦争の危機を感じるどころか、戦争

  への関心が薄らいでいたと考えられる。

専門家「本来なら国際的危機が反米論があがっておかしくないんで

  意外だったです。この日独伊三国同盟の意味、真意が国民に伝

  わらなかったという問題を考えないと」

ナレーター:市民の戦争への意識が高まらなかった要因として、専

  門家が指摘したのが、言論統制。政府は、三国同盟への批判的

  な意見を禁止。同時に反米感情の高まりも警戒していた。アメ

  リカへの敵性感情をあおる記事を禁止する。

  当時の陸軍大臣東条英機が言論統制のエゴドキュメントが残さ

  れていた。

発言「英米に対して三国同盟が衝撃を与えるのは必然である。いた

  ずらに排米運動を行うことを禁止する。」

ナレーター:東条ら軍の指導者たちは、この時点では、アメリカと

  の徹底的な対立を避けようとしていた。すでに陸軍は、100

  万を超す大兵力を、日中戦争に投じていた。その上、アメリカ

  と対立する余裕はなかったのだ。

  これはこの年に撮影された政府のプロパガンダ写真。日本とア

  メリカの青年たちによる卓球大会。日米親善がことさらに強調

  されていた。アメリカとの戦争を招きかねない三国同盟を結ん

  だ日本。その一方で、親米を演出するという矛盾に満ちた政策

  を推し進めていた。しかし、そうした日本のご都合主義は、ア

  メリカには通用しなかった。ドイツと結んだ日本に、アメリカ

  の世論は反発。厳しい経済制裁を求める声は8割に昇った。飛

  行機の燃料や屑鉄などの重要資源の輸出禁止が、矢継ぎ早に決

  まった。

   

今晩はここまで。49分番組の20分まで聞き書きをしました。

聞き書きは勉強になるし、後で読み返すことで、

短時間に内容を思い出すことができます。

しかし、時間がかかります。

  

2022年4月 5日 (火)

「新ドキュメント 太平洋戦争1941第1回開戦~前編~」①

     

今日は令和4年4月5日。

    

昨年12月8日放映の「NHKスペシャル  新ドキュメント 

太平洋戦争 1941 第1回 開戦 ~前編~」を見ました。

久々聞き書きをしてみたいと思いました。

実行します。

ナレーター:人々の本音がSNS上で飛びかう現代。もし80年前、

  太平洋戦争の時代にも、SNSがあったのなら、人々は何をつ

  ぶやいたのであろうか。今、研究者たちが注目するのが、戦時

  中に個人が記した言葉の数々、エゴドキュメントだ。

  膨大な言葉を、AIで解析、激動の時代を生きた日本人の意識

  の変化をとらえようとしている。

研究者:意外だったのは、反米論が高い時期があるな

ナレーター:1941年12月8日に始まった太平洋戦争。長きに

  わたった戦争で国は焦土と化し、日本人だけで310万の命が

  失われた。なぜリーダーたちは、判断を誤ったのか。そして、

  なぜ多くの市民が大国との戦争に熱狂したのか。それを解き明

  かす鍵が、近年発掘が進むエゴドキュメント。個人が綴った日

  記や手記だ。表現の自由が制約された時代、誰にも言えなかっ

  た本音が、記されている。

  会社員や学生などの市民、最前線の兵士、国の舵取りを担う指

  導者たち、一人ひとりの視点から新たな戦争の姿が、浮かび上

  がる。

研究者:100人いれば100人の戦争が合わさって、この戦争に

  なってしまった。つまり、一人ひとりの違う戦争を知ることで、

  我々の今のリアリティーに近づけることができる。

ナレーター:個人の視点から、歴史のうねりを追体験していく、シ

  リーズ「新ドキュメント 太平洋戦争」第1回は「開戦」

  国家を破滅に導く戦争の入り口で、日本人の多くは歓喜した。

日記「万歳と大きく叫びながら、駆けだしたいような衝動を受けた。」

日記「愛国的な民族的な大きな気持ちに支配されてしまった」

日記「血わき、肉躍る思いに胸がいっぱいになる。爆弾など当たら

  ないという気で一杯だ。」

ナレーター:しかし、時計を巻き戻すと、開戦の前年、社会には戦

  争と程遠い空気が漂っていた。都市部ではアメリカブームに湧

  き、ハリウッド映画やジャズが流行した。

  国の指導者たちも、国力で圧倒的にまさるアメリカとの戦争を

  避けようとしていた。なぜわずかな期間で、急激な意識の変化

  が生まれたのか。

  開戦の前年から、太平洋戦争に至る道のりを、市民と国の指導

  者のエゴドキュメントからさぐっていく。

  

日記「住代ちゃん、昭和15年2月6日、あなたは高らかに産声を

  あげました」 「すやすやと眠っているあなたを見ると、ママ

  は涙ぐましい程の感激にふるえて、胸はゴムまりのように弾ん

  でなりません」

ナレーター:東京、四ツ谷に住む金原まさ子さん。開戦前年の2月、

  一人娘の住代ちゃんが生まれたことで育児日記を書き始めた。

日記「4月18日。おっぱいを出そうとして、この暖かいのに、昨

  日も今日もすきやき。」「住代ちゃん、あくびをする時の、甘

  い甘い息の匂い、ママは大好きなり。」

ナレーター:一人一人の言葉、エゴドキュメントから、当時を生き

  ていた人々の息づかいが聞こえてくる。開戦前夜、都市部では、

  戦争とは程遠い、豊かな暮らしがあった。

日記「野球見物。イーグルスがタイガースに勝った」

日記「今日は宴会だ。2次会で街の飲食店にて、騒ぐのが目的である」

ナレーター:大阪で精米展を営む井上重太郎さん。子どものために、

  大きな買い物をしたことが記されていた。

日記「ピアノの如きは、贅沢品ではあるが、一家の慰安として、身

  分に過ぎるかもしれぬが、買うことにしたのである」

ナレーター:当時、ピアノの金額は公務員の初任給、8カ月分。日

  夜仕事に励み稼いだお金で、やっと手にした宝物でした。

  現在と変わらないように見える穏やかな人々の営み。それがな

  ぜ、アメリカとの戦争に歓喜するまでにいたったのか。

  日本人の心境の変化に迫ろうと、全国600か所の資料館や個

  人宅を回り、日記を探した。会社員、学生などの市民、国の指

  導者など、男女合わせて250人以上。人びとの心の内が記さ

  れたエゴドキュメントだ。

  今回それをAIに読み込ませ、SNS上のつぶやきに見立てて

  解析。投稿数に換算すると12万件のデータから、心の変化を

  読み解いていく。

研究者:どこの時点で何を考えて、どこで変わったのかということ

  を、追っていける。かなり意味のある大きなデータかな。

ナレーター:SNSのトレンド分析をモデルに、日記のテキストを

  分解。単語の数は630万語に達した。それをジャンルごとに

  分け、頻繁に登場するものほど、大きくビジュアル化する。

  1940年代の前半、市民の関心の最も大きく占めているのが、

  「生活」だ。その中の「食」をのぞいてみよう。「オムレツ」

  「ポタージュ」「アイスクリーム」「マカロニ」そして「ビフ

  テキ」多彩なメニューを楽しんでいたことが、うかがわれる。

  しかし、この年の後半、食生活に変化が起こる。「代用品」

  「配給」「外米」一転して不自由さを示す単語が現れ始めた。

  

   

今朝はここまでにしよう。時間はかかるけど、聞き書きすることで、

番組をじっくりと味わう気持ちになります。ここまで番組6分間の

聞き書きでした。   

 

  

2022年4月 4日 (月)

「鎌倉殿の13人 13 幼なじみの絆」/注目は大江広元

        

今日は令和4年4月4日。

   

4が並ぶ日です。

   

昨晩は大河ドラマ「鎌倉殿の13人 13 幼なじみの絆」

見ました。

木曽義仲が本格的に登場。

幼なじみの巴御前が、木曽義仲に尽くす姿に感化され、

北条義時も八重に尽くそうとあらためて思います。

その思いがついに最後には届いて、

八重は義時を受け入れます。

うまいストーリーだなと思います。

   

注目は大江広元です。

前回から登場している人物です。

頼朝が京都から呼んだブレーンです。

今回も、木曽義仲に対してどう対応したらいいか、

大江広元が意見をしていました。

「ワイド版マンガ日本の古典14 吾妻鏡」(中央公論新社)では、

再三頼朝にアドバイスを出していたのが大江広元でした。

Wikipedia 大江広元

ここを読むと、頼朝のブレーンのみならず、

頼朝死後も鎌倉幕府では欠かせない人物だったようです。

覚えておきたい人物です。

演じているのは栗原英雄さん。

2022年4月 3日 (日)

もう一冊、ピーター・シス文・絵「マドレンカ サッカーだいすき!」

    

今日は令和4年4月3日。

   

新聞を読むようになって知ったピーター・シスの絵本を

また読みました。

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「マドレンカ サッカーだいすき!」

(ピーター・シス作/松田素子訳/BL出版)

   

こんな絵本を、子どもたちの前で読み聞かせをする日が

あるのでしょうかね。

2012年の本です。

なでしこJAPAN旋風があったのが2011年。

日本ではタイムリーな本だったのでしょう。

  

マドレンカが出てくる絵本は3冊目とのこと。

また他の2冊と出合うこともあるでしょう。

  

家からボールを蹴って出てきたマドレンカ。

立ちはだかる郵便ポストや料金メーターを振り切って、

猫たちイレブンにも決着をつけて、

家々の谷間にある中庭に行きます。

そこには大勢の女の子。

   

読み聞かせしたくなる絵本です。

ピーター・シスの新刊は、

図書館にリクエスト予約しています。

図書館が購入したら、一番に私に教えてくれるのです。

  

小学校勤務の時には、こんな絵本を読みあさっていましたが、

最近はずっとご無沙汰でした。

児童書もいいです。

忘れていたことを思い出していく感じです。

次も児童書です。

やっぱり新聞を読んで知った本です。

「彼の名はウォルター」(エミリー・ロッダ作)です。

本「星の使者 ガリレオ・ガリレイ」(ピーター・シス文・絵)

      

今日は令和4年4月3日。

   

この本を読みました。

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「星の使者 ガリレオ・ガリレイ」(ピーター・シス文・絵

/原田勝訳/ 徳間書店)

  

ガリレオ・ガリレイの生涯が絵本になったものでした。

ラストシーン。

  

1633年6月 ガリレオ有罪となる

1642年1月8日 ガリレオ死去

  

  

  

  

  

  

1989年10月18日

   木星探査機「ガリレオ」打ち上げ

1992年10月31日

   ガリレオの罪、ゆるされる

 

なんと、三百年以上もたって、罰をくだした

カトリック教会をひきいるひとたちは、

ようやくガリレオをゆるし、じぶんたちの

あやまちをみとめました。

ガリレオ・ガリレイの考えは、はじめから、

ゆるぎない真実だったのです。

  

地球の周りを宇宙が回っているのではなく、

太陽の周りを地球も回っているというガリレオの説。

有罪となった後も、自分の意見を通したガリレオの勇気。

そんなガリレオのことが伝わってくる絵本でした。

1997年の本です。

アマゾンのコメントにあった次の文章。

  

裏表紙の夜の絵は、壁にかけておきたいほどの美しさ。

   

この文を読んで、あらためて見てみました。

なるほどです。

夜の街、ビル群。

でも明かりがついているのは、1室のみ。

そこでは夜空の星を観察する者がいます。

   

「おれは一万石 贋作の謀」/政権の傍らに居続けた狩野派

    

今日は令和4年4月3日。

   

この本を読みました。

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「おれは一万石 贋作の謀」(千野隆司著/双葉文庫)  

    

今回は江戸時代の絵師について勉強ができました。

   

水戸徳川家傍流の三千石の旗本、坪内右近から正国に祝儀祝いの軸物

が届いた。木挽(こびき)町狩野家の加藤文麗の達磨の絵だった。

(中略)とはいえ加藤文麗は、今は故人になっているが、木挽町狩野

家では名を知られた絵師といってよかった。直参の旗本でありながら、

絵筆を握った人物である。後に名をなす谷文晁の師匠としても知られ

た。

(24p)

「谷文晁(たにぶんちょう)」の名に覚えがありました。

加藤文麗も実存した人物。※参考Wikipedia 加藤文麗

谷文晁も調べてみました。※Wikipedia 谷文晁

なぜ、この人の名を覚えていたのだろうか、

Wikipediaの文章を読んで考えてみました。

引用します。

  

文晁は自他共に認める旅好きで、30歳になるまで日本全国をさかん

に旅し、行ったことのない国は4、5か国に過ぎなかったという。

旅の途次に各地の山を写生し、名著『日本名山図会』として刊行し

た。文化9年(1812年)に著した『日本名山図会』は、日本の代表

的山岳89座の風景を90葉の画で表したものであり、当時広く親しま

れ、後世の山の見方に影響を与えたという。山岳の中では最も富士

山を好み、富士峰図・芙蓉図などの名品を多数遺している。

    

山関係で知ったのだろうか。次の逸話も面白いです。

  

文晁は鷹揚な性格であり、弟子などに求められると自分の作品でな

くとも落款を認めた。また画塾・写山楼では講義中、本物の文晁印

を誰もが利用できる状況にあり、自作を文晁の作品だと偽って売り、

糊口をしのぐ弟子が相当数いた。購入した者から苦情を受けても「

自分の落款があるのだから本物でしょう」と、意に介さなかったと

いう。これらのことから、おびただしい数の偽物が当時から市中に

出回っていたと推察できる。したがって、鑑定に当たっては落款・

印章の真偽だけでは充分ではなく、テレビ番組の『開運!なんでも

鑑定団』では本物が出にくい鑑定品のひとつとして知られている。

  

テレビ番組で知ったのかな。

「おれは一万石」シリーズで登場する松平定信には

気に入られた模様。

またシリーズに登場するかもしれません。

 

狩野派についての記述は「贋作の謀」ではさらに続きます。

  

狩野派は、始祖正信が、足利将軍家の御用絵師になって以来、桃山、

江戸期を通して常に時の政権につき、幕府の御用絵師の地位を守っ

てきた。政権が徳川家のものになったときには、京狩野の一派と袂

(たもと)を分かって、貞信、探幽、尚信といった絵師たちが江戸

に出てきて、江戸狩野派を樹立した。

貞信の養子安信が中橋狩野家を立て、これが宗家となる。探幽が鍜

治橋狩野家、尚信が木挽町狩野家、そして尚信の孫岑信(みねのぶ)

が分家して浜町(はまちょう)狩野家を起こした。この四家だけが

将軍に御目見えができる奥絵師四家となった。将軍家から与えられ

た屋敷の場所が、家名の上に冠されている。

江戸城だけでなく別邸、増上寺や寛永寺などゆかりのある寺などの

襖(ふすま)絵や掛軸、屏風絵などを手掛けた。そして配下に表絵

師の十五家を擁し、各藩に御用絵師を派遣した。将軍家の庇護を得

て、江戸画壇の中心勢力となった。

(24~25p)

   

足利将軍から江戸時代まで政権の傍らに居続けた狩野派。

すごいことですよ。

「おれは一万石」シリーズは、こうやって江戸時代の勉強ができます。

テレビの時代劇を見るように気楽に読むことができ、

勉強になるシリーズです。

いつの間にか第9弾。10冊目となります。  

 

2022年4月 2日 (土)

山仲間に連絡/新年度総会の準備で頑張った

    

今日は令和4年4月2日。

   

昨晩は、山に一緒に登っていた人に電話をしました。

ほぼ2年ぶりです。

退職したので、また山に登りたいので、

計画があったら誘ってほしいとお願いしました。

山登りに関して実行に移しました。

   

今日は町内会長として頑張った日でした。

朝から月例美化活動(第一土曜日)に参加。

年輩の方達と草取りをしました。

その後は、来週にひかえた新年度総会の準備を、

集会所で、自分を含めて4人の役員で行いました。

昼食は自宅に戻って、再び集合。

午後5時に準備完了。

ちょっと前までお互いに知らなかった人たちと

一緒にできることを分担して仕事をするのは、

面白いことでした。

こうやってだんだん仕事に慣れてきたら、

もっとスムーズにできるのだろうなと思いました。

  

町内会長としての記事は、この1年増えると思います。

中学校で教えている公民の実践版みたいな感じを受けました。

やっぱり社会科とつなげて考えてしまう自分がいます。   

2022年4月 1日 (金)

絶対に思い出の1年になると約束された年がスタート

     

今日は令和4年4月1日。

   

この記事の続きを書きます。

ここでも道草 最後の社会科の授業「タイムスクープハンター 会津 女たちの決死行」(2022年3月23日投稿)

この記事の最後にこう書きました。

  

私は退職後は、再雇用で小学校勤務を要望しました。

ハーフタイム勤務です。

したがって、今回のような社会科の授業は、

一生で最後かなと思っていました。

  

ところが・・・・予想外のことが

今日、起こりました。

これ以上は書けません。秘密です。

  

   

4月になって、今なら書くことができます。

内示では小学校勤務を命じられました。

ところが、ミスってあるのですね。

突然、そのミスが発覚して、私の進路は変りました。

中学校で社会科を教えることになったのです。

慣れた小学校勤務を希望しましたが、

中学校で社会科だけを教えていればいいというのは

いい話だぞと思ってしまいました。

この4年、中学校で頑張ってきたから思えたのでしょう。

こうして私は今日、同じ市内の別の中学校の職員となりました。

週2日半の勤務です。

つまり週に4日半は自由時間なのです。

これが退職した者の特権でしょう。

「タイムスクープハンター」を使った授業は一生で最後と思ったけど、

まだ終わりではありません。

別の中学校に行ったということは、今までのネタは全て使えるのです。

「タイムスクープハンター」を全く知らない生徒たちが

待っているのです。

ちょっとワクワクします。

社会科の集中できる1年になりそうです。

  

  

今年度、退職した年なので、ただでさえ変化の大きい年ですが、

もう一つ、一大事なことがあります。

何と、町内会長を引き受けてしまったのです。

町内会長ですよ、町内会長。

引き受けたからには、ベストを尽くそうと思います。

  

それでも封印していた山登りを始めようと思っています。

その他、「退職したら」と思って止めていたことを

次々にやろうと思います。

一方、心療内科に通うのは、縮小していこうと思っています。

  

こう考えると、この1年は、絶対に思い出に残る年になると

約束されたようなものです。

しっかりブログと日記帳に記録していこうと思います。 

この記事がその1ページ目。 

  

  

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