およそ100年前のオリンピックの水泳に日本人として初めて出場し、
クロールを日本に広めた男性がいます。
その後、戦死した男性の人生を、
後輩にあたる大学生と一緒にたどりました。
今年、創部から100年を迎える北海道大学水泳部。
この部をつくったのは、当時、北大生だった内田正練(まさよし)です。
1920年、内田は22歳のときベルギーで開催された
アントワープオリンピックの水泳で、日本人として初めて出場しました。
内田のことを知りたいと話すのは、北大の水泳部主将の高野裕生さん。
「(内田は)水泳部の大先輩というイメージはもちろんあるけど、
歴史上の偉人みたいな印象」(北大水泳部 高野裕生 主将〔3年〕)
内田は「横泳ぎ」と呼ばれている「日本泳法」でオリンピックに臨みました。
「彼は日本泳法の第一人者だった。日本でいちばん速いと思っていた」
(元北大水泳部顧問 三浦裕行さん)
しかしあえなく予選で敗退します。
「相当悔しかったんでしょうね。歯が立たなかったので・・・」
(元北大水泳部顧問 三浦裕行さん)
「日本が世界と勝負するためにはクロールが必要だ」。内田は帰国後、
こう訴え自ら先頭にたち、各地で講習会を開いてクロールを広めました。
長女・立野恵美子さん(96)。
「社交的でした。小さな日本にいるんじゃなくて、
世界に飛び立とうという気持ちがあった」(長女 恵美子さん)
1944年、内田は46歳の時、海軍の司政官として戦地に向かいました。
ニューギニアでは日本と連合軍が激しい戦闘を繰り広げていました。
現地ではマラリアがまん延・・・。さらに食料の補給が絶たれるなか、
内田は、自分より若い人たちに食料を優先していたといわれています。
「自分が死んでも若い人が残れば、国はまだ残っていくという
気持ちがあったと思う」(長女 恵美子さん)
水泳で鍛えた身体はやせ細り、最後は山の中で力尽き、餓死しました。
「悔しかった。今でもやっぱり料理をみると、
父が食べたかったかなと思う」(長女 恵美子さん)
初めて高野さんは、内田が戦争で亡くなったことを知りました。
「もし、長生きしていたら、もっとすごいことを
していたんじゃないかと思う。今、こうやって戦争のない時代に
生きられることに甘えずに、感謝して、
何かしらできることはしなきゃいけないと思う」
(北大水泳部 高野裕生 主将〔3年〕) (12日11:18)
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