「大熊町学校再生への挑戦」② 会津地方が学校復活の候補地になる
今日は令和2年2月29日。
おまけの日。
前投稿に引き続き
「大熊町学校再生への挑戦」(竹内敏秀著/
福島県大熊町教育委員会編/かもがわ出版)より
引用します。
「大熊町」は、(中略)旧大野町と旧熊町村が合併し、195
4年に生まれました。
(28p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)
そのため、大野小学校と熊町小学校の2校が
あることがわかりました。
避難は大混雑が予想されましたが、消防団をはじめ関係者の適
切な活動もあり、、住民は整然とバスに乗り込んで次々と田村
市方面へ避難しました。自家用車ではなくバスでの避難であっ
たこと、町民が個人の荷物を持参することなく、着の身着のま
まで避難したことが、その主な理由です。「2,3日で帰れる」
と、すべての町民が思っていたからにほかなりません。私もそ
の1人でした。
ここに至っても「原発は安全」との神話は生きていたのです。
こうして、全町民が自分の町、自分の家を離れての避難生活に
否応なしに入っていったのです。
避難所としての中心となる田村市体育館で、夕食の配給が始ま
ると、食パン1枚とペットボトル1本の水を求めて、町民の列
が続きました。町民にとっては避難民としての現実を直視させ
られた場面でした。体育館にはこの日、約1700名が入りま
した。
(26p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)
全町避難後の2011年4月22日には、20キロ圏内が「警
戒区域」に法律で指定され、自分の町にも自分の家にも、帰る
自由が奪われてしまいました。今も大熊町は2011年3月11
で時間が止まったままで、人っ子ひとりいない状態が続いてい
ます。
(30p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)
(3月18日)最後には町長は次のように話しました。
「ともかく4月から学校を立ち上げよう。いっさい条件はつけ
ないから、学校を立ち上げてほしい。教育長も『大熊の子ども
は大熊で育てる』といつも言っているのだから、今こそそれを
実行するときだと思う」
そして、こうつけ加えたのです。
「大丈夫!学校を立ち上げれば町民もついてくる」
全町避難という町民の生活を根こそぎ奪ってしまう大混乱のな
かでも、町長の「教育重視」にブレはなかったのです。町長の
ことばは私に勇気を与えてくれましたし、学校立ち上げへひと
すじの光を見出した瞬間でもありました。
(34p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)
明けて3月18日、「いっさい条件をつけない」と町長に言わ
れて、動きやすかったのは事実ですが、学校立ち上げの条件を
考えました。
1つは、原発事故の先が見えない現状では田村市(原発から30
キロ)やその周辺では、再避難の必要に迫られる可能性があるた
め、80~100キロは原発から離れたところにしたい。
2つめは、学校を立ち上げれば、保護者、家族もいっしょに移動
することになるので、少なくとも3000人以上の町民を受け入
れてくれる「器」を有する自治体にしたい。
この2つのことをふまえて、私は廃校も多い会津地方が適地では
ないかと判断しました。
(35p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)
実際に2泊3日の旅行で、大熊町~会津若松市は自動車で走っています。
遠いと感じましたが、その遠いが大事だったわけです。
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