「脳科学者の母が、認知症になる」⑦ 幸せに暮らすために、脳は努力をする 最期まで
今日は令和2年1月28日。
前記事に引き続き、
「脳科学者の母が、認知症になる」
(恩蔵絢子著/河出書房新社)より引用していきます。
アルツハイマー病で起こる認知的問題で、本人や家族が恐れて
いることの一つは、「友人や家族の顔を見ても、それが人だと
わからない」という現象だろう。
アルツハイマー病が進行すると、名前が思い出せない。そして、
その段階も超えて、顔を見ても誰だかわからないし、親しみさ
え湧かない、という状態になることはある。
起こるとするならば、それはどのようにして起こるか?
それは、脳の萎縮が海馬に留まらず、大脳皮質にまで大きく及
んだときであると考えられる。繰り返し述べてきたように、大
脳皮質は、記憶の貯蔵庫と考えられている。
(138p)
そうなんだ。
覚悟をしておかなくてはいけないと思います。
本当にアルツハイマー病になったらどんな気持ちになるのかが
明らかにされていないからこそ、事前のイメージにより、「そ
んな状態になったら生きていても仕方がない」「それだったら
殺してくれ」と安楽死を希望してしまう人たちが出てきたので
ある。
そのような人の一人にマルゴという名前で知られている人がい
る。しかし、マルゴは実際に病気が進行していくと、自分がか
つてそのような意思表示をしたことを忘れて、毎日施設で提供
されるピーナッツバターサンドイッチを幸せそうに食べていた
という。彼女は、記憶力、理解力を失っても、幸せに暮らして
いた。
このように、他人が想像するアルツハイマー病、また、まだ病
気になる前に想像するアルツハイマー病と、今現在アルツハイ
マー病である人の実感は違う可能性がある。少なくとも、アル
ツハイマー病の人には、幸せを感じる能力が残っている。
(142p)
ここにも大きな問いがあります。
アルツハイマー病になってしまったら、
記憶がなくなり、自律性が失われ、周囲に迷惑をかけてしまう。
自分が自分でなくなってしまう。
それでは辛すぎないか?いっそ死んだ方がいいのではないか。
アルツハイマー病が進行したら幸せを感じられないのか。
著者は、幸せが感じられると言っています。
特に、海馬以外の脳部位が比較的正常に働いているアルツハイ
マー病「初期」の人々は、感情的な危機に立たされていると言
える。自分の症状にまだ慣れておらず、たくさん戸惑うことが
ある中で、人の反応は正確に読み取ってしまうからだ。記憶以
外は正常だからこそ、いたたまれない。耐えられない。この時
期に自殺願望を持つことが多く、オランダでは安楽死の意思を
示す人たちが多く出るのだという。
しかし、重要なのは、その時に想像する悲観的未来と、実際の
未来は違って、「人は適応する」ということだ。人間は、自分
の状態を必死で理解しようとし、間違いを受け流す方法、でき
ることをやろうとする方法など、なんとか対処方法を見出して
いく。同様に、家族も、その人の状態に慣れ、その人を守る方
法、自分が動揺しない方法など、対処方法がわかっていく。だ
から、事態は改善されていく。まだまだ、幸せは残っているの
である。
(148p)
萎縮が海馬だけに留まらず、大脳皮質のさまざまな領域に広が
ってなお、残っている脳部位を使って、人間は、自分の置かれ
ている状態に最後まで適応しようとする。家族のこと、友達の
ことを忘れてしまってもなおだ。死ぬまで残るこの適応の能力
を、また実際にどうやって最後まで生きたかというその全てを、
「自分」あるいは「その人らしさ」と言ってはいけないか?
他人から見れば、その状態は惨めかもしれない。
現在の自分も、未来のさまざまな認知能力を失った自分を想像
して、やはり惨めだと思うかもしれない。
しかし、どれほど脳が委縮しても、何がわからなくなっても、
幸せに暮らすために、脳は努力をするもので、その過程は十分、
尊重されるべき「その人」なのではないだろうか?
(149~150p)
「残っている脳部位を使って、人間は、自分の置かれ
ている状態に最後まで適応しようとする」
「幸せに暮らすために、脳は努力をする」
特に印象に残った言葉です。
このことを信じて、
私は父親を介護していきたいと思いました。
そして自分の脳も信頼しようと思いました。
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