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2019年11月19日 (火)

「燃える海山」②/置戸の強制労働・土浦の空襲

  

今日は令和元年11月19日。

  

前投稿に引き続いて、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)より引用していきます。

  

置戸(おけど)に千人をこす中国人がはこばれてきたのは、

昭和19年の5月からだった。子どものような若者から、

髪の毛が半分白いやせた男たちまで、貨車をおりると

ぞろぞろと坂をのぼってきた。憲兵や巡査が前後をかためていた。

捕虜だという者も、いや〈兎狩り〉でつかまったのだと

うわさする者もあった。土地の顔役に金をつかませておいて、

14,15歳から50歳ぐらいまでの男を、むりやりかすめとって

くるというのである。事務所の中でも、真相はよくわからなかった。

憲兵がついているのは、脱走のおそれがあるからだろう。

坑道のちかくに、三つの華人寮がたてられ、1キロほどはなれた

ところに、300人ほどの朝鮮人も収容された。

(143p)

  

新十津川物語は、歴史上の出来事を巻き込んできます。

北海道の「置戸」では、戦時中に水銀採鉱が行われていました。

そこに大量の中国人、朝鮮人が連れてこられ、強制労働が

行われました。この置戸には、主人公のフキの長女あやが住み、

水銀採鉱にかかわります。

 

  

 

昭和20年6月10日の茨城県土浦。

ここには主人公フキの孫の中崎勲が予科練生として

土浦海軍航空隊にいました。

そこがアメリカ軍の空襲を受けました。

 

高射砲の弾幕がつぎつぎと空に打ちあがりました。

味方の機銃も火を吐いている。しかし、高度わずか500、600

メートルの低空を飛んでいる巨体はびくともしない。

頭上をよこぎるとき、日をさえぎって地上はほんのすこし

くらくなる。ちかくで見るB29はそれほど大きかった。

(中略)

30機ばかりのB29の編隊は、黒々と土浦の町はずれを

通過していった。やがて、霞ケ浦航空隊のあたりでも爆弾の音がした。

むこうでも乗員を養成していた。鳥人たちの巣を、まだひなのうちに

たたいておこうというのであろうか。

(172p)

  

この日、土浦だけで280人が、霞ケ浦では111人が死んだ。

土曜から日曜にかけて外出していた士官もおおかったから、

平日ならもっと犠牲者がでたことだろう。三波にわたった

B29の群れは、ほぼ30メートルおきに250キロ爆弾を

落としていったことになる。

(176p)

私が住んでいる近くで起こった豊橋空襲、

豊川海軍工廠空襲については勉強し、

このブログにも書いてきました。

しかし、昭和20年は、全国のいろいろなところで

空襲がおこり、悲劇があったんだよなとあらためて思いました。

※参考:ここでも道草 昭和20年6月19日~10月15日の出来事(2011年6月25日投稿)

2caf1ad36d33eec14bb30ba15b3b1d54 太平洋戦争とは何だったのか   B29

 

  

次の記事では、樺太であったことを書きます。

主人公フキの息子、孫たちが巻き込まれていきます。

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