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2019年10月24日

2019年10月24日 (木)

「死の淵を見た男」/教訓をいかせず大惨事となった

 

今日は令和元年10月24日。

  

前投稿に引き続き、「死の淵を見た男 吉田昌郎と

福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)より

引用していきます。

 

この本は、図書館に返します。

手元から離れます。

でも読み直したい文章はたくさんあるので、

ブログに書き留めています。

今回がラスト。

長く引用します。

 

  

大津波がもたらしたこの未曾有の原発事故は、

あらゆるものに深い傷跡を残したのである。

私は、取材をつづけながら、この原発事故が

さまざまな面で多くの教訓を後世 に与えたことを

あらためて痛感した。それは、単に原子力の世界だけの

教訓にとどまらず、さまざまな分野に共通する警句であると思う。

  

そして、現場で奮闘した多くの人々の闘いに敬意を表すると共に、

私は、やはりこれを防ぎ得なかった日本の政治家、官庁、

東京電力……等々の原子力ェネルギーを管理·推進する人々の

「慢心」に思いを致さざるを得なかった。

  

この事故を防ぐことのできる“最後のチャンス”は、

私は実は「二度」あったと思う。その最大のものは

9・11テロの「2001年9月11日」である。

  

あらためて言うまでもないが、安全を期して二重、三重に

「防御」を張りめぐらしている原発の敵は、

「自然災害」「テロ」である。

  

今回の福島第一原発の事故の最大の要因となった、

海面から10メートルという高さに対する過信は、

その中の「自然災害」に対するものだ。

「まさか10メートルを超える津波が押し寄せるわけがない」

その思い込みには、過去千年にわたって福島原発の立つ浜通りを

「そんな大津波が襲ったことがない」という自然に対する

「侮(あなど)り」、言い替えれば「甘え」が根底にある。

  

しかし、自然災害が過去の災害の「範囲内」に終わるという保証は、

まったくない。それは、人間の勝手な思い込みに過ぎない。

これは、自然に対する人間の驕(おご)りとも言えるだろう。

  

この驕りに対して、警鐘を鳴らしたのが、実は、

あのオサマ・ビン・ラディンによる9・11テロだったと思う。

ビン・ラディンは自然災害とは関係がない。彼がおこなったものは、

テロである。だが、およそ三千人もの犠牲者を出したこのテロは、

原子力発電に対しても、大きな警鐘を鳴らした。

予想を超えた規模のテロは、原発に対する最も大きな脅威で

あることを人々に知らしめたのである。

  

アメリカの原子カ関係者の動きは素早かった。

ただちに、テロ対策を強化し、その中で、

「すべての電源を失った場合、原子炉の制御をどうするか」

ということが、以前にも増して議論されることになった。

そして、5年後の2006年、

アメリカのNRC(原子力規制委員会) が対策のための

文書を決定し、それは、日本にも伝えられた。

   

その中には、全電源喪失下の手動による各種の装置の

操作手段についての準備や、持ち運び可能な

コンプレッサーやバッテリーの配備に至るまで

細かく規定されていた。

  

テロがもたらすものも、自然災害がもたらすものも、

原発にとっての急所は、「全電源喪失」であり、

「冷却不能」であるという事態に変わりはない。

しかし、わが国の原発では、「全電源喪失」「冷却不能」の

状態がもたらされる可能性を、それでも想定しようとはしなかった。

「日本では、そんなテロが起こるはずがないーー日本に照準を

定めるミサイル配備をおこなっている国を周辺に

抱えているにもかかわらす、根拠のないそんな思い込みが、

ここでも原子力エネルギーを推進、管理する指導者たちに

蔓延していた。だが、その「テロ」に匹敵する、いや、

ある意味ではそれ以上の「災害」が原発を襲ったのである。

  

非常に辛練で俗っぽい表現だが、私はあえて

"平和ボケ”という言葉を使わせてもらおうと思う。

日本だけは「テロの対象」になり得ない、 あるいは、

日本では原発がミサイル攻撃を受けるはずがない

という幼児的ともいえる楽観思考は、原子力行政にあたる

指導者として、あるいは実際の原子力事業にあたるトップとして

「失格」であると私は思う。

  

テロ、あるいは紛争が原発にもたらすだろう

「全電源喪失」「冷却不能」という事態を少しでも

考慮に入れていたなら・・・と私は残念でならない。

アメリカと同様、いくばくかの措置に踏み込んでいたら、

「全電源喪失」「冷却不能」に対処する方法が考えられ、

言いかえれば、自然災害においても、これほどの大惨事には

至らなかったということだ。

だが、その最大のチャンスは、失われた。

(368~370p)

  

 

教師は、さまざまな教訓を知っていて、

目の前の児童・生徒に伝えるのも仕事であると思います。

9・11テロを実際に見た者として、

福島第一原発の惨事を見た者として、

発信しなくてはいけないと思います。

そのためには、見ただけでなく、見えなかったことも

知る必要があると思います。

今回の本を読んでそう思いました。

  

福島にいくぞ!

最後に映画の宣伝。この本が原作です。


YouTube: 福島第一原発事故を映画化!『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)特報

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「死の淵を見た男」/すごい58歳

 

今日は令和元年10月24日。

  

前投稿に引き続き、「死の淵を見た男 吉田昌郎と

福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)より

引用していきます。

  

すでに、身体はぼろぼろになっていた。

免震重要棟のトイレは、真っ赤なっていた、と伊沢は言う。

「トイレは水も出ないから悲惨ですよ。

流すこともできませんからね。

みんなして仮設トイレを運んできて、それが一杯になったら、

また次の仮設トイレを組み立てながらやってましたけど、

とにかく真っ赤でしたよ。みんな、血尿なんです。

あとで、三月下旬になって、水が出るようになっても、

小便器自体は、ずっと真っ赤でした。

誰もが疲労の極にありましたからね」

(278p)

  

現場の過酷さを物語る出来事だと思いました。

  

  

吉田(一弘)の「やり残したこと」とは、何だったのか。

「かみさんに”ありがとう”という感謝の気持ちを

伝えていなかったことです。

もう自分は、生きてはいられないかもしれない、

と、思っていました。

緊対室は、テレビが映っていたので、自分たちのいる発電所が

どうなっているかは、家族にはわかっているだろうと思っていました。

そういうことを書いた上で、かみさんに”ありがとう”と伝えました。

これまで幸せだった、と」

(中略)

妻から吉田に返ってきたメールには、こう書かれていた。

〈何を言ってるの、必ず帰ってきて。今すぐ帰ってきて〉

それは、愛する家族の偽らざる気持ちが凝縮された言葉だった。

(314~315p)

  

  

 

それぞれの人間が、それぞれの「家族」を背負って闘っていた。

伊沢は、吉田所長が「各班は最少人数を残して退避!」という

指示を出した時、初めて26歳を筆頭とする3人の息子たちに

緊対室からこんなメールを送っている。

「お父さんは最後まで残らなくてはいけないので、

年老いた祖父さんと、口うるさい母ちゃんを、

最後まで頼んだぞ」

それは、ユーモアを交えながらも自分の覚悟を

息子たちに伝えたものだった。

息子たちからは、「おやじ、なに言ってるんだ。死んだら許さない」

というメールが返ってきた。

(317p)

 

結果的に生きて、再会できてよかったです。

  

  

福島第一原発の運転管理部に所属していた

寺島祥希(よしき/享年21)は地震発生後、

4号機の点検のために同僚1人と一緒に

地下に入って津波に巻き込まれ、3週間近くが

経過した3月30日に同僚と共に遺体となって発見された。

(320~321p)

  

ここにも犠牲者がいたことを忘れないでいたいです。

書き留めました。

  

  

吉田(昌郎/まさお)は、事故から八ヶ月後、突然、

食道癌の宣告を受けた。

凄まじいストレスの中で闘ってきた吉田の身体は、

いつの間にか癌細胞に蝕まれていたのである。

(351p)

福島第一原発所長として、最前線で指揮を執(と)った

吉田昌郎氏に私がやっと会うことができたのは、

事故から1年3ヶ月が経過した時だった。(中略)

癌に倒れ、手術を経た吉田氏は、げっそりと痩せ、

事故当時の姿とはすっかり面変わりしていた。

病いを押して都合二回、4時間半にわたって私のインタビューに

応えてくれた吉田氏は、2012年7月26日、

3回目の取材の前に、凄まじいストレスや闘病生活で

ぼろぼろになっていた血管から出血を起こし、

ふたたび入院と手術を余儀なくされた。

(8p)

 

吉田さんのその後。

Wikipediaには次のように書いてありました。

  

治療のかたわら、原発事故に関する回想録の執筆を行なっていたが、

2013年7月8日の深夜に容態が悪化、翌7月9日、

食道癌のため慶應義塾大学病院で死去。58歳没。

  

今の自分と同じ年です。

すごい58歳でした。

「死の淵を見た男」/最近のニュースとつながる

今日は令和元年10月24日。

  

前投稿に引き続き、「死の淵を見た男 吉田昌郎と

福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)より

引用していきます。

 

 

津波から12時間余が経過し、

ついに原子炉に水が注入されるのである。

吉田は、こう語る。

「海水注入なんて、誰でもすぐにできると思っているとかも

しれませんが、そんなことではないんですよ。

それを簡単にできるかのように思っているかもしれませんが、

そんなことはないんですよ。

それを簡単にできるかのようにおっしゃる方もいますが、

そういう話を聞くと、憤りを感じますね。

現場が、どんな気持ちで水を見つけ、

そして進路を確保してやっているのか、

そういうことをまったくわからないまま、想像もしないまま、

話していますからね。

頭で考えるよりも、時間はいくらでもかかるわけです。」

しかし、福島第一原発の消防車は、三台のうち二台が

津波で打撃を受け、まともに動けるのは「一台」しかなかった。

消防車の確保、それが喫緊の課題となっていた。

(101p)

  

この状況で駆けつけたのが自衛隊の消防車でした。

  

 

東電の副社長、武藤栄(60)は、この時、

池田と共にオフサイトセンターにいた。

武藤は、地震が発生して1時間も経たない午後3時半に

本店を出発、東電が契約している江東区新木場にある

ヘリポートから、福島に向かっている。

事故が起きた場合は、地元の自治体への対応など、

現地にはさまざまな仕事がある。

とにかく副社長である自分がオフサイトセンターに

行かなければならない。

武藤は、そう考えていた。

だが、武藤の福島入りは困難を極めた。

民間のヘリは、日没になれば飛ぶことが規制されるため、

その前に現地入りしなければならない。

しかし、3時半に本店を出た武藤は、

地震による都内の大渋滞に巻き込まれ、車が立ち往生したのだ。

そのため、武藤は途中で車を降り、「走って」いる。

この時、埋立地の江東区で液状化した道路で

武藤は砂の中に嵌(は)まってしまった。

身長186センチという長身の武藤が、

液状化による砂に膝の上まで嵌まって動けなくなったのだ。

人に助けてもらって砂の中を抜け出し、

下半身を泥だらけにしながら、

二度もヒッチハイクをして、やっとの思いで新木場の

ヘリポートに到着している。

武藤を乗せたヘリが離陸したのが午後5時12分、

福島県双葉郡富岡町の福島第二原発の敷地に着陸したのは

午後6時29分のことだった。

(133p)

 

9月19日に福島第1原発事故を巡り、

業務上過失致死傷罪で強制起訴された旧経営陣3人に

無罪判決が下りました。

その中の1人が武藤栄さんでした。

Photo sputniknews

武藤さんは、その時一生懸命でした。

  

  

彼ら原子力制御のプロたちは、放射線の怖さは頭に染みついている。

強い放射線に曝(さら)されれば、人間の細胞は破壊され、

無残な最期を遂げることになる。

1999年に起こった茨城県東海村のJCO臨界事故の

被曝作業員が、身体中の細胞がぼろぼろになって

凄惨な死を余儀なくされたことは、彼ら原子力に携わる人間たちには、

忘れようとしても忘れられないものだった。

(180~181p)

 

1999年の事故は今年で20年。

ニュースで流れていました。


YouTube: JCO臨界事故から20年 茨城・東海村職員らが黙とう(19/09/27)

Photo_2  

自分の中では、風化してしまった事故だったので、

本を読んで思い出せ、ここに書き留めることができてよかったです。

「死の淵を見た男」/原発が誘致された理由

今日は令和元年10月24日。

  

前投稿に引き続き、「死の淵を見た男 吉田昌郎と

福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)より

引用していきます。

  

冬場が来れば一家の主が大都会に出稼ぎに出ることが

あたりまえだった福島県双葉郡。

その地元を活性化させるために原発誘致を目指す自治体側と、

初の原子力発電所をこの地に誕生させたい東京電力との

意向が合致し、福島第一原発の一号機は、

1966年末に着工したのである。

東京電力で誘致に特に熱心だったのが、

福島県伊達郡の梁川町(現在の福島県伊達市)出身の

木川田一隆社長(当時)である。

なんとしても出身地・福島県に原発を誘致したかった

木川田の思いは、冬場は出稼ぎに頼らざるを得ない

福島県の浜通りの貧困さと無縁ではなかっただろう。

(16p)

 

なぜあの場所に原発があったかの歴史は知っておくべきです。

※関連:ここでも道草 「中間貯蔵施設に消えたふるさと」③/売却を説得した渡辺さん(2019年10月8日投稿)

その上で、どうしたらよかったのか。

これからどうするかです。

  

 

福島第一原発の1~4号機の非常用ディーゼル発電機と

配電盤は、海面10メートルの敷地にあるタービン建屋の

地下室に設置されていた。

福島第一原発の津波の想定は、建設時には約3メートル、

その後、2009年には、およそ6メートルの高さへの

対策となった。

しかし、それ以上の高さに対する備えは、

まったく施されていなかった。

非常用ディーゼル発電機やメタクラ(メタル・クラッド・

スイッチ・ギア metal clad switch gear)呼ばれる

高圧配電盤がタービン建屋より高い場所に移されることはなく、

今回の津波によって、ひとたまりもなく

水没してしまったのである。

そこにこそ、自然災害に対する東電の油断と驕(おご)り、

さらに言えば慢心が存在したのではないか、と思われる。

(54p)

    

この事故はやっぱり教訓にならないといけないのです。

台風15号、19号の被害もしかり。

自然災害の想定を上げなければいけないのですね。

個人レベルでも。

   

 

吉田(昌郎)は、そんなことを指示しながら、

「次」のことを考えていた。

消防車の手配である。原子炉を冷やすことができなければ、

直接、水で冷やすしかない。

水なら海にいくらでもある。

では、その水をどうやって運ぶか。

「とにかく水で冷やすほかはない。では、もし、

水を入れられなかったら、どうなるんだろうと。

それはもうずっと、その時から思っていましたね。

私は水をプラントに入れるには、消防車しかない、

と思いました。

海からの距離がありすぎて、消防車のホースが

届かなければ、消防車を”つなげばいいじゃないか”と。

そう考えました。」

多くの専門家が驚くのは、この早い段階で吉田が、

消防車の手配までおこなわせたことである。

(59p)

  

対応策が浮かぶかどうか。

それまでの体験・知識をフル稼働して

アイデアが浮かぶかどうか。

これはどの仕事でも、追い込まれた時には、

浮かぶ頭にしておきたいと思います。

  

  

(元大熊町長の)志賀は昭和6年(1931年)10月に

生まれた。福島県双葉郡熊町村(注=現在の大熊町)の

夫沢(おっとざわ)である。

彼ほど福島第一原発にあるこの地の変遷を知る人物は

おそらくいないだろう。

志賀はこの地がただの原野だった頃、

そして戦時中に造成されて陸軍の飛行場になった時期、

さらには戦後に同地が塩田になった時も、

そして福島第一原発がつくられ、近代的な施設が

立ち並ぶ地に変貌したすべてを目撃し、

そして、それらに直接かかわってきた人物なのである。

(84p)  

 

私が今行きたいと思っているのは福島県大熊町です。

関連:ここでも道草 「中間貯蔵施設に消えたふるさと」①/中間貯蔵施設とは?(2019年10月8日投稿)

知識を積み重ねておいて、

実際に現地で味わってきたいと思っています。

この本を読んだ理由でもあります。

  

 

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