「その時歴史が動いた・人見絹枝」その2/人見絹枝デビュー
今日は令和元年7月20日。
前投稿に引き続き、2004年8月18日放映
「その時歴史が動いた 奇跡の銀メダル 人見絹枝
日本女子初メダル獲得の時」より。
近代オリンピックが始まったのは、
1896年(明治29年)です。
第1回は男子の種目しかありませんでした。
日本だけでなく、スポーツは男性がするものだという雰囲気が
世界にはあったのです。
第2回大会から女子の種目としてテニスが始まり、
第4回大会からアーチェリーなども女子種目に加わりました。
でもまだまだ限られた種目のみでした。
男子と同じ種目で競い合いたいという声は
だんだんと高まっていき、1926年(大正15年)8月に、
2年後に行われる第9回アムステルダムオリンピックから、
女子陸上競技が行われることが決定しました。
人見絹枝がデビューしたのは、大正12年でした。
☝ 初めて出た競技会で、人見絹枝はいきなり日本新記録を出します。
当時の平均を大きく上回る身長と、
抜群の運動神経で、人見絹枝はいろいろな種目で記録を更新します。
☝ 大正14年には、三段跳びの世界新記録を樹立。
19歳になった人見絹枝は新聞社に入社。
ナレーター:その新聞社は陸上選手育成に積極的で、
スポーツ記者に選手を採用していました。
人見にとっては、働きながら練習できる理想的な職場でした。
アムステルダムオリンピックの女子陸上種目は以下の通り。
人見絹枝が得意とする走り幅跳び、三段跳びはありませんでした。
人見絹枝は、短距離走に照準を合わせて練習をするようになりました。
海外のやり方にならって、コーチを専属でつけての練習でした。
当時の女子陸上は、競技の前だけ練習をするのが普通でしたが、
人見絹枝は1年中練習を行いました。
結果は出てきました。
☝ 昭和2年。100m、50mで世界タイ記録を出します。
そして200mでは世界新記録を出しました。☟
人見絹枝は、一躍オリンピック金メダル候補として
世界の注目を浴びるようになりました。
出ました、この笑顔。
「その時歴史が動いた」でも、この笑顔が登場です。
いよいよアムステルダムオリンピックとなるわけですが、
その前に、寺尾正・文姉妹に関する出来事がありました。
この姉妹に何が起こったのだろうと、
疑問に思っていました。
※ここでも道草 「いだてん紀行」(2019年7月20日投稿)
想像を上回ることが、この姉妹に起こっていました。
次の記事で書きます。
つづく
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