通算5100本目の投稿 「真田丸」シリーズ27 天王寺・岡山の戦い
今日は12月23日。
昨日が2学期終業式。
終業式が終わると、時間休をもらって
本宮山登山に行くのが恒例でした。
今年も準備をしていましたが、残念ながら雨天。断念。
冬休みのどこかで登りたいとは思っています。
明日は、仲間と登山が予定されています。
再び飯田方面の山に行きます。雪はないかなあ、あるといいなあ。
12月15日放映の「片岡愛之助の解明!歴史捜査
真田丸 総決算!第三弾~大坂の陣2時間スペシャル~
新説!もうひとつの真田丸 信繁の勝算と誤算」を見ました。
その中で印象に残ったこと。
大坂夏の陣での「天王寺・岡山の戦い」(1615年5月7日)です。
↑古地図には、真田幸村が陣をはった茶臼山と、
大野治房が陣をはった岡山口の間には
谷があることが記述されています。
実際にここには谷があり、南からの徳川軍をくいとめる
豊臣側の防衛ラインだったそうで、激戦がありました。
番組ではその谷を歩くシーンが出ました。
(こういうのは楽しい、やってみたい)
歴史捜査員と積山さんという方が歩いていました。
↑谷を歩いていて、南側を見た時の写真です。
2人が立っている場所が、谷底です。
青いのぼりが気になりました。
アップ写真を撮りました↓
「大坂夏の陣 天王寺口の戦い 激戦の谷筋」とあります。
ちゃんと地元では宣伝しているんだ、
それも「激戦の谷筋」という少し変わったネーミングで。
次の場所でもこののぼりはありました。
積山さんによると、この谷筋は、
8世紀の終わり、桓武天皇の時代に造られた水路だと
考えられるとのこと。
当時、洪水が頻発したため、排水のために造られた水路のようです。
夏の陣の頃にも、この谷筋は明確に残っていて、
豊臣側は防衛ラインに利用したようです。
大坂城があった場所は上町台地の北部であり、
この谷筋は、台地の南部にあり、
台地で唯一東西につながる谷です↓
城郭考古学者の千田嘉博さんが、
豊臣側の作戦を説明してくれました。
↑豊臣側は、茶臼山と岡山を結ぶ谷筋で、徳川軍を待ち受けます。
先備え・中備えの軍をそのラインにとどめることが目的です。
そうなると、本陣前に隙が生じます↓
そうなることを真田信繁は待っていたのです。
茶臼山から軍を率いて家康本陣をねらい、
岡山からも秀忠本陣をねらう軍を出す作戦でした。
では実際はどうなったか。
↑毛利勝永の軍が、防衛ラインを越えて攻めてしまったために、
戦線が混乱してしまい、本陣前に隙ができなくて、
本陣への突入はできなかったそうです。
ドラマ「真田丸」でも思いましたが、
豊臣側(信繁が中心?)は劣勢ながら次から次に作戦を考えて
実行に移していると思いました。
理不尽に籠城戦となっても、堀を埋められても、
秀頼が出陣しなくても、どうにかしようとしている姿を感じます。
夏の陣の最後の戦いでも上のようにそうでした。
負ければ命がない状況でも、状況だからからかな。
人間、もっともっと考えて実行したら、
いろいろなことは成し遂げられそうだと
大坂冬の陣、夏の陣の豊臣方の戦いっぷりを見て
勉強になりました。
番組のラストで、真田信繁最期の場所、
安居(やすい)神社が出ました。
↑ここものぼりがたくさんあります。
「真田丸」が放映されたために多いのかな。
聞き書きします。
ナレーター:記録によると、この地で徳川方の武士と対決した信繁は、
名を名のらないまま勝負を受け、打ち取られたという。
そして、徳川方の陣での首実検の際、
真田家の旧臣によって、信繁の首と確認された。
主役の堺雅人さんのインタビューを思い出しました。
う~ん、今晩はもう遅い。明日は出発は早い。引用は明日にします。
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