「その時歴史が動いた 源義朝の戦い」
今日は8月3日。
昔録画した番組をせっせと見ています。
2009年2月4日放映の
「その時歴史が動いた 武者(ムサ)の世になりにける 保元・平治の乱 源義朝の戦い」を見る。
自分にとっては、源平の戦い前の2つの乱について知識不足でした。
この番組を見たことで、保元・平治の乱に明るくなってきたのがありがたい。
平清盛の陰に隠れ気味の源義朝のこともよくわかってきました。
重要なことを箇条書きで書き残します。
・「侍(さむらい)」の語源・・・「仕える」意味の「さぶらう」から生まれた。
貴族に仕えていたのが武士。
・貴族にとって武士は、自由に使える使用人のような存在であった。
・義朝は父為義からまだ未開の東国へ行き、源氏の勢力を伸ばすことを命じられる。
そうすることで、京都での源氏の地位も向上すると考えた。
・義朝はその目的を果たし、東国の武士を束ね、リーダーとなる。そして京都に戻る。
・後白河天皇と崇徳上皇との権力争いが起こる。
・為義と義朝の兄弟は、もともと仕えていた崇徳上皇側に。義朝は天皇側につく。
・この争いが保元の乱。天皇側の勝利。
・戦った武士への褒美は少なく、政治の権力を握ったのは天皇側の一部の貴族。
・さらに義朝は、父為義と自分の兄弟の処刑を命じられる。
・負けた貴族は誰も処刑されない。義朝は屈辱感を感じる。
・義朝は有力貴族を倒すことを実行する。平治の乱の始まり。
・義朝は、天皇から義朝征伐を命じられた平清盛と戦う。敗戦。
・義朝は東国に逃げる途中に、家臣に入浴中に襲われ殺される。
・丸腰・裸で襲われた義朝。
「我に木刀の一本なりとあらば、おめおめ討たれはすまいに・・・・」と絶句したとか。
・平清盛は、貴族にかわって政治の実権を握ることになる。
・義朝の息子頼朝は、東国に流される。
・頼朝は、義朝がつくった東国の源氏の勢力をもって平氏を打倒。その東国に鎌倉幕府をつくる。
・東国の江戸に幕府を開いた徳川家康は、水野一族に義朝の墓を守るように命じた。
・愛知県美浜町の大御堂寺にその墓所がある。
・墓所には願い事を書いた木の札が山積みされている。
木の札の先は、義朝の「我に木刀の一本なりとあらば・・」の故事にちなんで刃先にようになっている。
・家康は義朝の生き様に共感して、武士とはこうあるべきと次のような言葉を残す。
「武士は何臭くて良からんか
公家臭く、出家臭くても、職人臭くても、百姓臭くても、
何かは良かるべき
しからば、武士臭き方良しとぞ思う
武士たる者は一本鑓の小身者なりとも、
武士の心を気高く持て。 」 (徳川家康)
貴族に世の中から武士の世の中に移行する時の人びとの思考の変化がわかりました。
貴族に仕えて勢力を伸ばそうとしていた武士が、
武力を用いることで政権をとることができるんだと考え始めたのです。
OK。今度ここを教える時には、もっとしっかり子どもに伝えられるぞ。
行きたくなったのは美浜町の大御堂寺(野間大坊)。
コメント