2008年12月29日 (月)

遥拝所/鑓水遥拝所の鳥居の歴史

遥拝所にこだわり始めたのは、校区のすぐ近くの結婚式場の傍らに、

いきなり「本宮山遥拝所」なる石碑ができたことからです。

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この石碑のある場所とは、国道をはさんで反対側に、

かつて「鑓水(やりみず)遥拝所」があったそうです。

これが少なくとも2つあった遥拝所の2つ目です。

以前に書いたように、遥拝所ができたのは安政2(1855)年。

鳥居や石灯篭がありました。

そこにあった鳥居や石灯篭は、今は本宮山の頂上に移されています。

Pc220011

   

    

    

何年に移されたのか?

その時の写真はありませんか?

砥鹿神社さんに頼んだところ、ちゃんと資料を頂けました。

   

鑓水遥拝所にあった鳥居や石灯篭が本宮山頂上に移されたのは、

昭和48(1973)年のことでした。疑問が解決!

当時の写真も見させてもらい、接写させてもらいました。

次の投稿で載せます。(つづく)

遥拝所/市田遥拝所にあった鳥居の歴史

教育の鉄人講座に参加して、私のブログを読んでくれている先生たちと話しました。

ちょっと他の先生のブログとは違うとのこと。

自分でもそう思い始めています。

私のブログは資料置き場状態になってきているところが特徴かと思います。

疑問に思って調べて、わかったことをここに書いています。

いつかは授業で子どもたちに提供できる?と考えて、

ブログにストックしておくような感じです。

     

と、余分な前置きしておいて、遥拝所のことをストックしていこうと思います。

「市田遥拝所」にあった鳥居は、今は里にある砥鹿神社の正面にでんと立っています。

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この鳥居の歴史について書きます。

市田遥拝所は江戸時代の天保13(1842)年に地元の崇敬者の寄進により設置されました。

その時に石の鳥居、手水舎(ちょうずや/てみずや)、石灯籠が設置されました。

鳥居は太平洋戦争の豊川海軍工廠の爆撃の被害を受け、

破損していたものを修復して、砥鹿神社の今の位置に移しました。

(市田遥拝所は確かに海軍工廠に近かった)

鳥居が何年に移されたかは、砥鹿神社さんからいただいた資料には載っていませんでした。

でも今朝、現場に行ってみてわかりました。

Pc290007_4    

    

     

鳥居の右にある大きな石柱の後ろに刻みこまれていました。

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「この鳥居は 本宮山遥拝のため 

天保十三年秋 市田村一里山に建てられたのを 

昭和三十一年春 ここに移したものである」

昭和31(1956)年のことでした。

       

興味をもって調べている一つの海軍工廠爆撃と鳥居がつながってドキリとしました。

見慣れた砥鹿神社の鳥居の歴史を知りました。

(つづく) 

遥拝所/市田遥拝所にあった鳥居の行方

本宮山遥拝所について調べています。

校区にある本宮山の頂上には、砥鹿(とが)神社の奥宮があります。

※砥鹿神社にある看板の写真を参考Pc290011_3

    

    

    

その奥宮のある本宮山の頂上を拝む遥拝所が少なくとも2か所ありました。

この2つの遥拝所のことを調べています。

26日には、里にある砥鹿神社(里宮)に行って貴重な資料をいただいたり、見させてもらってきました。

今晩は、そのことをまとめておきたいと思います。

   

    

以前にも書いた「市田遥拝所」Pc210017

   

    

    

ここにも大きな鳥居があったことを初めて知りました。

そして、その鳥居は、何と!里にある砥鹿神社に移されていました。

それも砥鹿神社で最も大きくて、国道に面した所にある鳥居でした。

見慣れた鳥居です。あの鳥居がそうだったのかと驚きです。

今朝、写真を撮ってきました。

Pc290007_2    

    

    

この鳥居をくぐってまっすぐ進むと、社殿のあるところに行き着きます。

その道を歩きましたが、正月の参拝の準備で駐車場のラインを書いたり、

お店の準備ができていました。

Pc290013    

    

     

正月にはこの道は人でいっぱいになります。

(つづく)   

      

2008年12月28日 (日)

米原駅の融雪スプリンクラー

27日に神戸に向かいました。

新幹線が米原駅に停車したときに、外は雪ふり。

融雪スプリンクラーが動いているのに気がつきました。

以前にも見たことがあります。

窓から写真撮影。

Pc270007    

    

     

   

スプリンクラーの水はかなり強く、音を立てて新幹線の車体に当たっていました。

鉄道列車の写真を撮る人たちのサイトをのぞくと、

米原駅の融雪スプリンクラーの素晴らしい写真があります。

たとえば次のサイトの写真。

http://dcphoto.exblog.jp/7280172/

こういう写真を見ると、米原駅に途中下車して撮影してみたいと思います。

    

上記のサイトには、岐阜羽島~米原間で融雪スプリンクラーの水を浴びている新幹線の写真があります。

とにかく格好がいい。一見の価値あり。http://dcphoto.exblog.jp/7264091/

 

この岐阜羽島~米原間のスプリンクラーについて調べてみたところ、

歴史は古く、1967年11月25日に設置されています。

これは新幹線の歴史に詳しい次のサイトが参考になりました。

http://www.isok.jp/rail/history/tsr-todo.htm

「伊奈駅には1番ホームがない!」の結果は来年

なぜ名古屋鉄道(名鉄)名古屋本線伊奈駅に1番ホームがないのはなぜ?

名鉄に電話で問い合わせましたが、

矛盾が残りました。

電話ではうまくこちらの説明が伝わらなかったとも考えられるので、

25日の投稿に書いたようなことを書いて、名鉄にFAXで送りました。

折り返し電話がありました。

親切にも名鉄さんは、じっくり調べてくれるとのこと。

ただ年末年始はいろいろと難しいので、回答はその後とのこと。

迷惑かけちゃっています。

でもこの疑問は名鉄さんに尋ねるしかなく・・・・・・ご迷惑をおかけします。

2008年12月25日 (木)

「伊奈駅には1番ホームがない!」が前進

昨日の「伊奈駅には1番ホームがない!」ことで、

伊奈駅に行って、駅員さんに疑問を聞いてみました。

「なぜ、伊奈駅には1番ホームがないのですか?教えてください」

「すみません、僕にもわかりません」

残念。でも、ここに問い合わせてみて下さいと、電話番号を教えてもらいました。

   

電話してみました。

尋ねてみました。

その答え。(近所の人でないとわからないところがあると思います。ご勘弁)

かつて名古屋鉄道(名鉄)名古屋本線伊奈駅から、

JR飯田線小坂井駅まで小坂井支線という鉄道がありました。

1954年にその小坂井支線が廃線。

その際に、1番ホームも閉鎖されたとのこと。

それ以後、1番ホームはない状態とのこと。

   

しかし、納得できないところがあります。

小坂井支線が廃線になった時は、自分はまだ生まれていません。

でも、おそらく1番ホームではなかったと思います。

もし支線があったとしたら、当時の改札から最も離れた場所にホームがあった可能性が高いからです。(普通は改札に近い所から1番ホームだと思います)

   

さらにウィキペディアに次のようなことが書いてありました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%A5%88%E9%A7%85

従来は、番線表示も1~3番線表示であったが、橋上駅舎化(1996年)される際に、2~4に振り替えられた。

これは、橋上駅舎化する際に、従来存在しなかった下り副本線の用地を確保し、そこを1番線として使用できるようにしたためであると考えられるが、

今のところ、1番線を作らなくても対応できるため、欠番線となっている。

現在、1番線用地は駐車場として使用されている(豊橋方には、一部未整備の用地を見ることが出来る)。

今後、豊橋駅への乗り入れ条件が大幅に変われば1番線も復活するであろうと思われる。

   

この説はどうなのだろう?

名鉄の方が教えてくれたことと、この上との説は少々矛盾があります。

この矛盾解消のため、また動きたい。

お世話になった方には不謹慎ですが、面白くなってきました。

2008年12月24日 (水)

「伊奈駅」には1番ホームがない!

最寄りの駅、名古屋鉄道本線「伊奈駅」で電車待ちをしていました。

ここで電車に乗ったのはもう40年以上。

しかし、今さら気づきました。

この駅には1番ホームがない!

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2番、3番、4番ホームの3ホーム。

1番ホームはなぜないのだろう。

2番ホームの向こう側、本当は1番ホームがあるべき所には柵があり、

その向こうには線路はありません。

1番ホームがない理由。

伊奈駅の歴史を調べないといけないなと思います。

またここに疑問が生まれました。

遥拝所/本宮山登山/移転した鳥居をくぐる

かつて本宮山遥拝所にあった鳥居などが頂上に移転しました。

    

終業式のあった日の午後、時間給をいただいて、

同僚の先生たちと3人で本宮山に登りました。

学期の終わりに、校区にある本宮山を登るのはすっかり恒例になっています。

今回は、移転した鳥居をよく見てくるという課題がありました。

何度も登っている本宮山、何度もくぐっている鳥居ですが、

今回はじっくり見てくることにしました。

    

789メートル。約1時間10分で頂上へ。

心地よい汗をかきました。

これが遥拝所から移転した鳥居です。

前は他のサイトの写真を転載しましたが、今回は自分が撮影した写真です。

Pc220011    

    

    

この鳥居の足の裏側には字が彫り込んでありました。

Pc220005    

    

    

「安政二乙卯年六月」と書いてありました。

またまた調べました。

「乙卯」は「きのと う」と読み、干支(えと)の52番目のもの。

安政二乙卯年は1855年です。

つまりこの鳥居は153年たったとても古いものと言えます。

鳥居は安政時代にできたという以前の調べと一致します。

http://mitikusa.typepad.jp/blog/2008/12/post-cee6.html

    

鳥居のもう一方の足には、

おそらく遥拝所を作った中心人物の名前が彫り込まれていました。

Pc220007    

    

    

    

  

「大原治兵衛」

「天野英次郎」

「大原廣吉」

3人の名前が読み取れました。

   

本宮山遥拝所はいつ移転したのか?

なぜ移転せざるをえなかったのか?

疑問は残ります。

遥拝所/「建立」ではなく「建之」でした

   Pc210004

   

    

        

先日から新しく立った本宮山遥拝所にこだわっています。

この石柱の裏にはこう書いていありました。

「一宮中部土地区画整理事業に伴い旧亥子角一番地一より移転」

「平成二十年十月十日建之

   

もともとは大きな道をはさんだ反対側に遥拝所はあり、

鳥居などがありました。

その鳥居などは昭和50年過ぎに、本宮山頂上に移転。

その後、遥拝所を示すものは残っていませんでしたが、

今年の10月にいきなり上の写真のような遥拝所の石柱が立ちました。

(今、鳥居などが正確にいつ、どのようにして頂上に移転されたのか調査中)

   

ちょっと気になるのが「建之」です。

「建立」ではなく「建之」です。Pc210008_2

   

    

※左は遥拝所の石柱の裏面。「建之」の文字があり。    

    

これは意外に、いろいろな石柱、記念碑、お墓などに書かれています。

これは何と読むのか?

    

調べてみたところ、「これを建てる」「これを建つ」と読むようです。

漢文の読み方になっています。

いろいろな所に疑問は存在します。

一つ解決。

2008年12月21日 (日)

最も近くにある一里塚

昨日の投稿でエノキを見たいがために一里塚を調べると書きました。

我が家から最も近い一里塚に行ってきました。

江戸日本橋から75里の「伊奈一里塚」です。

でもここにはエノキはありませんでした。

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「一里塚跡」なので塚があるわけでもなく、

しょうがないですね。

それでもエノキと一里塚の研究のスタートです。

最近の写真

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楽餓鬼

今日はにゃんの日

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