2021年8月22日 (日)

「天空の星たちへ」⑤ 川上慶子さん 黒澤丈夫さん

    

今日は令和3年8月22日。

   

前記事に引き続き、

「天空の星たちへ」(青山透子著/マガジンランド)

より引用していきます。

  

  

奇跡的に助かった川上慶子さん(当時12歳)の新証言を書いた記事。

  

そのタイトルは、「死の直前の妹を励ます」というものだった。

「墜落後に気がつくと、真っ暗で油のにおいがした。子供の泣き声な

どざわざわしていた。自分の体中さわってみて、みんな付いていて生

きているって思った。みんなはどうしたのかと思って呼ぶと、お父さ

んと妹が答えて、お母さんは答えなかった。

手足を動かしてみい、とお父さんに言われて動かした。お父さんに助

けてというと、お父さんも挟まれて動けない、助けてやりたいけどど

うしようもない。と言われた。

そのうち父は動かなくなってしまった。妹の咲子に聞くと、お母さん

は冷たい、死んでる、という。咲子は、苦しい、苦しいと言った。

そして、みんな、助けに来てくれるかなあ、というので、大丈夫、大

丈夫、お父ちゃんもお母ちゃんも死んだけれど、島根に帰ったらおば

あちゃんとお兄ちゃんと4人で頑張って暮らそうなあ、と答えた。そ

のうち、妹は、ゲボゲボと吐くような音がして、しゃべらなくなった。

一人になってしまったと思った・・・日頃父から、慶子は中学に入っ

てから根気がなくなったといわれていたのを思い出して、頑張った」

(1985年8月24日付上毛新聞)

(304p)

   

辛い記事です。

事故直後に生存者が多くいたことがわかる記事です。

どうにかならなかったのでしょうか。

  

  

墜落現場の群馬県上野村の当時の村長黒澤丈夫さんが、

事故の翌年の慰霊祭で式辞を読みました。その内容です。

  

今後この上野村は、世界に向かって航空機事故を起こさないように

訴えることが仕事であり、使命だと思っている。それは、原爆の広

島や長崎と同じ立場で、突然の飛行機の墜落事故で燃えた上野村が

やらなければならないと、そういう気持ちです、と話された。

(385p)

  

  

川上慶子さんの証言も、黒澤丈夫さんの話も、

語り継いでいかないといけないことだと思います。

このブログに書き留めました。

このブログを読んだ人にバトンパスです。

  

   

以上で「天空の星たちへ」からの引用を終えます。

「天空の星たちへ」④ 時効後に出てきた写真・証言

    

今日は令和3年8月22日。

   

前記事に引き続き、

「天空の星たちへ」(青山透子著/マガジンランド)

より引用していきます。

  

 

しかし、1989年11月22日午後、前橋地検は群馬県警から業

務上過失致死傷容疑で書類送検された日航12名、運輸省4名、ボ

ーイング社4名の計20名と、さらに遺族側から告訴、告発された

3者の首脳ら12名(うち1人重複)の合計31名を全員不起訴と

した。

不起訴かーーー。全員が罪を問われなくなったのだ。

それから、幾度も再調査を望む数々の声はかき消され、誰ひとりも

起訴されることなく、罪を問われることもなかった。

520名の命(衝撃で胎児が母体から外に出たことで521名とい

う場合もある)が失われた大事故は1990年に時効となり、誰も

刑事責任を問われず、事故そのものが封印され、重い蓋がされたの

である。

(224p)

  

大事故なのに、たった5年で時効になってしまうのですね。

解明するのにはもっと時間が必要だと考えます。 

  

写真が出たのは、1990年ーーー。不起訴が決まり、公訴時効と

なった年である。

私も知らなかった事故直後の機内写真を、学生Bが大きく引き伸ば

して発表した。

それは1990年10月13日に遺族から各新聞社に公開された一

枚の写真で、なんと墜落直前の機内を撮ったものであった。

墜落直前の日航ジャンボ機の中で酸素マスクが落下している中、半

そで姿の乗客一人ひとりが落ち着いているように見える。全員が座

りながら、酸素マスクを口に当てている様子を確実にしっかりと写

している。

(246p)

Epson030

(4p)

 

この写真は見た覚えがあります。

圧力隔壁が破壊されて、爆風が乗客席に突き抜けたら、

このような状態にはならないと、今回は見ることができます。

誰でもそう思います。

  

それにしても残念なのは、事故原因の最終報告書が提出される前や、

時効成立の前にこの写真が一枚、一般に公開されていたならば、結論

は違う方向に向かっていったかもしれないことだ。

(253p)  

   

でも新たな事実として、結論が変わってもいいのではないかと思います。

 

さらに新しい事実が加わりました。

  

1995年の8月29日の新聞は、学生たちにもうひとつの衝撃と疑

問を与える記事だった。(中略)

米軍の準機関紙であるパシフィック・スターズ・アンド・ストライプ

ス(星条旗新聞)の8月27日付号が報道した内容は次の通りである。

証言をしたのは、当時、米空軍第345戦術空輸団に所属していた元

中尉のマイケル・アントヌッチ氏だ。

「1985年8月12日に発生した日航ジャンボ機墜落事故直後の当

日夜、6時40分ごろ、C130輸送機で沖縄の嘉手納基地から横田

基地に戻る途中の大島上空にて、日航機の機長が緊急事態発生を告げ

る無線を傍受した。墜落の20分後には群馬県の上野村にある御巣鷹

の尾根の墜落地点に到着して、煙が上がるのを目撃した」

この報告を受けて、同日午後9時5分に米海兵隊救難チームのヘリが

厚木基地から現場に到着して、隊員がロープで現場に降りようとした

のだが、在日米軍司令部がある横田基地に連絡すると担当将校が「日

本側が現在現場に向かっているので帰還せよ」という帰還命令を出し

たという。

事故の生存者のひとりで日航アシスタントパーサーだった落合由美さ

んの証言では、「救助ヘリコプターが上空で回っているのがわかった。

手を振ったが気付いてくれなかった。自分の周りでは数人の子どもた

ちの声が聞こえたがそのうち聞こえなくなった」と言っている。これ

についてアントヌッチ氏は、落合さんが見たのは海兵隊のヘリだった、

と証言しているのである。

このことを伝える日本の各新聞記事をまとめると、在日米軍ヘリコプ

ターが自衛隊より約12時間も早く墜落現場上空に到着しつつも、上

官の指示で現場に降りなかったということである。

最後にこの元軍人は、「在日米軍は事故直後にすでに現場を発見して

おり、もっと多くの命を救えたはずだ」と述べている。

(268~269p) 

   

これはどういうことなんだと思います。

何があったのか説明が欲しいところです。

  

つづく

  

  

「天空の星たちへ」③ 最終事故調査報告書に対する疑問

    

今日は令和3年8月22日。

   

前記事に引き続き、

「天空の星たちへ」(青山透子著/マガジンランド)

より引用していきます。

  

  

アッパーデッキ(二階席)の担当者は、何もなく無事なフライトの

時はコックピットケアをする役割もある。乗客へのサービスが一段

落したら、コックピットの人たちへ飲み物を持っていき、リクエス

トに応じてクルーミールを持って行く担当だ。ちなみに食事は機長、

副操縦士はそれぞれ違うもので、時間をずらして食べるのがルール

である。万が一、食中毒になった場合などを想定してのことだが、

飛行機の運航にはそういった細部にわたってすべてに気を使ってい

る。着陸後、一段落したところで熱いおしぼりを持って行くのも役

目である。

(184~185p)

  

食事に対してそこまで気を使うのかと思って驚きました。

  

  

不思議だ。このフライトレコーダーが出るまで、隔壁破壊による突

風で急減圧が発生したと全紙が報道していた。だが、この客観的な

フライトレコーダーの記録によると急減圧が起きたとすると、機内

の酸素が薄くなるため、それを回避するために不可欠な緊急降下が

まったく行われていない。時系列に見てみるとすぐ分かる。高度計

は下がらず、むしろ緊急発生時は上昇している。

(203p)

  

あらたにわかったことから、青山さんはまた疑問に思っています。

  

1987年6月19日最終事故調査報告書ーー。

橋本竜太郎運輸大臣に提出した内容は、やはり、事故機が1978

年6月2日に大阪空港で胴体後尾部を滑走路にこすった際にボーイ

ング社が修理し、その修理ミスを起因とした後部圧力隔壁が、疲労

亀裂となって破壊されて急減圧が生じ、垂直尾翼を突風が吹き飛ば

したというものであった。

日航側もその修理ミスを見逃したということで責任を指摘された。

報告書のほとんどは修理の際にミスをした断面図や隔壁の状況説明

である。

乗客、乗員の死傷についての解析では、機体前方部は即死状態、後

方胴体のさらに後方にいた生存者は奇跡であるとした。

また、運航乗務員は急減圧による低酸素状態で操縦したことにより、

知的作業能力、行動能力がある程度低下してものと考えられるとし

た。

さらに捜索活動については、登山道がなく落石危険の多い山岳地帯

であり、夜間ということで機体の発見及び墜落地点確認まで時間を

要したことはやむを得なかったとしている。

 

即死ばかりではないはずだ。墜落後生き残った人たちの声がしたと

いうことが生存者の落合さんや川上さんの証言であった。でもあれ

はすべて奇跡として想定外ということなのだろうか。

高浜機長、佐々木副操縦士、福田航空機関士は、意識がもうろうと

しながらあの神業的なエンジン出力操作を30分も行ったというこ

とか。減圧があったとしても、不思議なのは高度が下がらず、むし

ろ上昇していたではないか。

そして自衛隊が墜落地点確認までに時間を要したのは、夜間のせい

と山のせいということなのか。

(214~215p)  

  

最終事故調査報告書に対しても、青山さんは疑問を持ちます。

この本をここまで読んだ私も同様の疑問を持ちます。

  

  

父親が整備士である、夫が整備士であるという人は私の周りにもた

くさんいる。

もし妻が客室乗務員で、あの事故で死んだとしたら・・・。

もし息子が、自ら整備した自社機に乗っていて事故に遭ったとした

ら・・・。

本気で仕事をしていたはずのプロたちは一体どう思ったのであろう

か。

本当に整備のミスだったのか・・・。

自分の心にもう一度、問いかけてほしい。それほどいい加減に整備

をしていたのか。

本当に見抜けなかったのか・・・。

(223p)

  

整備ミスと言われて、整備不良を見逃していたと言われて、

整備士はどう思ったのだろうか。

  

  

つづく

2021年8月21日 (土)

「天空の星たちへ」② 復刻版に「疑惑のはじまり」が加わる

    

今日は令和3年8月21日。

   

前記事に引き続き、

「天空の星たちへ」(青山透子著/マガジンランド)

より引用していきます。

  

 

なんと、垂直尾翼が欠けたまま操縦していたとは?

一体どうしてだろう。あの部分にはスパーと呼ばれる三本の桁が入

って補強され、機体の中では最も頑丈な部分である。内部から与圧

をかけていないため、金属疲労が生じる確率も低い。

(140~141p)

   

青山透子さんは、事故直後の新聞を読んで、

次々に疑問を持ちます。

  

運輸大臣や総理大臣が「原因究明」を言わなかったこととか、

ボーイング社の動きが早いとか。

そして垂直尾翼についてもです。

相模湾で、垂直尾翼を発見して引き揚げた船についても

次のように書いている。

  

新聞各紙によると、海上自衛隊の護衛艦『まつゆき』が試運転中に

引き上げた垂直尾翼の一部には、両端にもぎ取られたような跡と、

何かがぶつかったような大きな穴があいていると記されている。

一体どうしてこんなことが起きたのか。この護衛艦『まつゆき』が

この相模湾で試運転中に、たまたまタイミングよくこの落下物を拾

ったのだろうか。

(142p)

  

垂直尾翼の損傷具合に疑問に思い、

それを発見した護衛艦にも疑問に思っています。

他にもいろいろな点を青山さんは疑問に思います。

  

2018年に、この本が文庫本になって復刻したことを知りました。

本のタイトルは「日航123便墜落 疑惑のはじまり:天空の星たちへ」

でした。「疑惑のはじまり」というのはピッタリだなと思いました。

隔壁破壊説についても次のように書いています。

  

さらに隔壁破壊が墜落の原因だとすると、客室内を爆風が吹きぬける

ことが前提条件となる。

そうなると爆風によって生存者たちの体にはどんな症状が出ていたの

だろうか。

爆風が吹くほどの急激な減圧となると、耳は聞こえなくなり、航空性

中耳炎となる。さらに肺から一気に吸い出されることにより、肺出血

もありうる。そのような症状が(生き残った)4名にあったのだろう

か。医師のコメントでは4名に見られる症状として、骨折しか見当た

らないが、落合さんやほかの生存者もインタビューに答えていること

から、鼓膜は破れていない。助かった4名は皆最後部の席であり、ち

ょうどトイレの向こうにある隔壁に一番近い席である。このトイレの

前の席で、さらに最強の垂直尾翼をぶっ飛ばすほどの爆風を体験した

4名が生き残っているという事実・・・。

この説は本当なのだろうか。どうも客観的事実と食い違っている。

(155p)

   

36年間、疑問に思わなかったことを、

私も疑問に思うようになりました。

なんで今まで疑問に思わなかったのだろう。

  

  

ここでも道草 1985年8月12日、たくさんの流れ星が流れた(2010年8月12日投稿)

☝ この記事で書いた対馬祐三子さんの手帳に書かれた全文も

掲載されていました。

  

次が全文である。

「おちついて下さい ベルトをはずし 身のまわりを用意してください

 荷物は持たない

 指示に従って下さい (中略)

 ハイヒール 荷物は持たないで

 前の人2列 ジャンプして Jump and sit

   機体から離れてください Go to a safe area

   ハイヒールを脱いでください

 荷物・物は持たないで下さい 

 年寄りや体の不自由な人に手を貸して・・・

 Release Your seat belt Remove high(heel)

   Don't take baggage follow our instruction

   火災 姿勢を低くしてタオルで口と鼻を覆って下さい

 前の人に続いてあっちへ移動して下さい・・・

 Low position with a wet towel covering nose and mouth」

エマージェンシー訓練そのものである。陸上で不時着した場合、火

災を想定しての緊急脱出である。(中略)

スライドという膨らました緊急脱出用滑り台は、とがったものやハ

イヒールなどで傷がつくと使い物にならなくなる。そこでハイヒー

ルや荷物を持たないで、一気に滑り降りてもらうためのインフォメ

ーションだ。全員が脱出する時間は90秒以内が原則、指示がもた

ついては意味がない。前山さんは不時着したらすぐに乗客を誘導で

きるように、と考えて揺れる機内で必死にメモを書いたのだ!それ

を日本語だけでなく、英語も・・・。

信じられないほどの責任感・・・。驚くほどの冷静さ・・・。

ふんわりした雰囲気を醸し出す彼女から、想像もつかないほどの強

さを感じる。

(171~173p) 

   

この本では仮名を使っています。

対馬さんが不時着を信じて、これだけのメモを書いて、

準備をしていたんだなと思いました。

  

  

つづく  今晩はここまで

 

「天空の星たちへ」① 青山透子さんが追及している理由

    

今日は令和3年8月21日。

    

ワクチン接種による副反応の発熱・眩暈は、

今朝になったら治っていました。

今日も父親を病院に連れて行く予定だったので、

今度は無事ミッションを終えることができました。

  

発熱・眩暈でも読んでいたこの本を読み終えました。

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amazon

「天空の星たちへ」(青山透子著/マガジンランド)

   

上記amazonの本紹介を引用します。

  

1985年8月12日に起きた日航ジャンボ機墜落事故。乗員乗客524名、

死者520名、生存者4名。単独航空機事故としては世界最大規模の

事故となった。

元日本航空スチュワーデスが描く、日航ジャンボ機墜落事故の記憶。

事故機には同じグループでフライトをしていた先輩方が乗務していた

・・・・・・。

操縦不能になった機内。「墜落」という逃れられない現実、

突然目の前に「死」という恐怖が迫る。飛行機に異常が発生して、

酸素マスクが落下し、大きく揺れ動く機内。恐怖にさらされた中で、

最後の最後まで冷静に働いたスチュワーデスたち。

乗客に不安を与えず、冷静にエマージェンシー対応を行った。

「死」を覚悟して遺書を残した乗客がいたことも知られているが、

最後まで望みを捨てず、

「不時着」に備えてメモを残したスチュワーデスがいた。

飛行機を立て直すコックピットの懸命な努力。

極限状態の中で懸命にプロの仕事をまっとうした乗務員の姿がそこにあった。

なぜ墜落事故が起きたのか、なぜ墜落現場の特定が遅れたのか・・・・・・

25年経っても消えない疑問。当時の新聞から見えてくる新たな疑問。

矛盾する事故原因。

上野村元村長、地元消防団員、歯科医師ら、当時を知る関係者への

取材を含めた長編ノンフィクション!

  

 

この本からの引用です。

   

あの事故から25年が経ち、今こそ歪みのない心で正面から見つめ

直すべき時期にきているのではないか。

航空機事故調査報告書に記された事故原因の欄には、たった8行の

中に『推定される』という言葉が三度も出てくる。つまり、いまだ

に真なる事故原因は不明のままなのだ。

元日本航空の社員として思う加害者側の気持ちと、乗客と運命を共

にした客室乗務員たちの被害者側の気持ちが入り混じる。

自分の果たすべき役割は何だろうかと心の奥で問いかける。

今出来ることは、空港の現場で走り回る教え子たちや世界の空を飛

び回る彼女たちに、あの時の客室乗務員たちを知る人間として、当

時の状況を、そして真実を伝えることではないか。

(18p)

   

この本が出版されたのは2010年のことです。

青山さんは、「今出来ること」をこの本でも、

そしてそれ以後出版された本でも実行しているのだと思います。

   

  

前山さんから教えられた一番の機内サービスとは、

「日本航空のお茶が美味しくなければ話にならないでしょ。味が良

く出るように、心を込めてしっかり入れてね」である。

その意味は、茶道で求められるような一期一会の心遣いだったかも

しれない。

(72p)

  

青山さんが先輩から教えてもらったことです。

なるほどと思いました。

  

  

すべてが運命だ、というだけでは片付けられない。

520人もの命を奪ってしまったその事実は、私たちに何を投げか

けているのか。

ただひとつ言えることは、乗客や乗員を知る残された者たち、そし

て事故に関わった者たちもあの瞬間、大きな宿命を背負った、とい

うことである。

そして私の果たすべき宿命とは何かーーー。

突然起きた事故の原因も分からずに、必死に仕事をしながら亡くな

っていった先輩たちを想う時、もしそれが私であったなら、一番知

りたいことは何か。

あの時、一体何が起きたのか、なぜ死ななければならなかったのか

ということだ。

今、私に出来ることはこのことを調べて先輩たちへ伝えることでは

ないか。

そして、この事故とかかわった者たちにとって、それが残された人

生への重い課題かもしれない。

(126~127p)

   

青山さんが思いをあらたにした文章です。

なぜ事故原因について追及をしているのかが、

この本を読んでわかりました。

  

ここも読んでみました。

青山透子公式サイト日航123便墜落の真相

 

    

つづく

2021年8月20日 (金)

副反応で発熱。でも読書三昧でした。

     

今日は令和3年8月20日。

    

今日は発熱しました。

昨日の昼にワクチン注射(モデルナ社)をしました。

朝から出勤。

同僚の先生が次々に発熱したと聞いて、

自分も発熱するかなと検温を繰り返していました。

  

午後からは年休で自宅。

異変は午後3時過ぎ。眩暈を感じました。

検温したら、なんと38度。

来た~。

副反応。

    

父親を病院に連れて行く予定だったけど、キャンセル。

薬を飲んで早く寝ようと思ったけど、読書三昧をしてしまいました。

現在読んでいる青山透子さんの「天空の星たちへ」は

一気に読みたいと思った本でした。

449pの本ですが、322pまで読んでしまいました。

1985年8月12日の日航機墜落の真実について

知りたいと思うようになりました。

明日には読むことができます、きっと。

    

2021年8月19日 (木)

今日は予想外のことが3つありました/通算7777本目の記事です

    

今日は令和3年8月19日。

     

今朝は予想外のことが2つ起こりました。

部活動の主顧問の若手の先生が、

ワクチン接種のため高熱が出てしまい休むという連絡がありました。

これが1つ。

それじゃあ、今日は部活動頑張らねば(いつも以上に?)と思って

出勤しようと思いました。

  

その時に気づきました。

自分の車であるフォレスターのタイヤがパンクしている!?

助手席の後ろのタイヤがペッチャンコになっていました。

これが予想外の2つ目。

その時はどうしようもなく、もう1台の車で出勤しました。

(おかげで、娘は徒歩出勤)

   

帰宅後、パンク修理のために動きました。

まずはJAFのロードサービスに連絡しました。

JAFは20分ぐらいでやってきてくれました。

JAFのお兄さんは、パンクしたタイヤを見て、

「JAFはパンクの応急処理しかできない。

完全に直すにはタイヤ専門店に行った方がいい」と

アドバイスをしてくれました。

そりゃあ、完全に直してもらった方が安全・安心なので、

アドバイス通りにすることにしました。

JAFのお兄さんは、パンクしたタイヤとスペアタイヤを

交換してくれました。

パンクしたタイヤには、見事にネジが食い込んでいました。

「前輪がはじいたネジが後輪に刺さったと思いますよ」と

教えてくれました。

作業終了。

JAFのカードを見せたら、

「長くJAFに加盟していただきありがとうございます」と

お礼を言われました。

カードの色で加盟している期間が分かるそうで、

私は20年~30年だそうです。

助けてもらったのは、これが3度目かな。

どれも思い出深い救出劇でした。

  

 

パンクはイエローハットでしっかり直してもらいました。

かかった費用はパンク修理代の2200円のみ。

これで明日はフォレスターで出勤できます。

   

  

2回あることは3回あるというじゃありませんか。

予想外の3回目のことを心配していました。

何も起こらないのかなと思ったら、

先ほど3つ目がありました。

  

学校に筆箱を忘れてきてしまったことに気がつきました。

これは予想外。

たくさんの様々なペンが入っている筆箱です。

日記が書けない。

私には痛手です。

  

   

 

この記事が通算7777本目の記事です。

今日は過去記事を2時間ほど読みふけりました。

自画自賛ですが、おもしろかったです。

  

2021年8月18日 (水)

番画〈370〉〈373〉:まるで「逃走中」 「A LONG VACATION」 ウルトラQ 戦争がきっかけで生まれた物

     

今日は令和3年8月18日。

   

番画です。

   

〈370〉フィッシャーズ

【第2回】1時間ドローン鬼ごっこを本気でやったら鬼に勝てるのか!?
YouTube: 【第2回】1時間ドローン鬼ごっこを本気でやったら鬼に勝てるのか!?

 

〇すごいなあ、フィッシャーズ。

 大きな公園を貸切って、まるで番組「逃走中」のような番画を

 作ってしまう。

 スタッフもお金も必要です。

 やれちゃうんだ。

  

  

〈371〉新美の巨人たち 永井博「A LONG VACATION」

  (2021年6月19日放映)

  

〇忘れられないアルバムのジャケットの絵を描いた人でした。

〇絵が先にあって、その絵に合わせた曲ができたのですね。

 作詞が松本隆。作曲・歌は大瀧詠一。


YouTube: 大滝詠一 カナリア諸島にて

〇デザイナーも作詞家も作曲家もだれもカナリア諸島に

 行っていないのにできた曲。

 

   

〈372〉ウルトラQ 21 宇宙指令M774

  (2021年8月16日放映)

  

〇あっけなく終わってしまった。

 怪獣の卵は息する卵みたいでよかったが、

 誕生した怪物がちょっとしょぼかった。

  

   

〈373〉池上彰のニュースそうだったのか!?

  実は知らない戦争2時間SP(2021年8月14日放映)

  

〇戦争がきっかけで生まれた物。

〇サランラップ 銃や弾丸を湿気から守るため

 戦後その使い道に困っていたら、食品を包む使い道が判明。

 サランラップの名前の由来。製造者2人の妻サラとアンから。

〇このエピソードはかつて記事にしたことがある。

 ※ここでも道草 日めくりより サランラップの由来にビックリ!(2019年3月9日投稿)

 ☝ けっこう詳しく調べています。

〇戦争がきっかけで生まれた物。

〇インスタントコーヒー 

 戦争中にフリーズドライ製法が開発された。

 大量の血液を病院に運ぶために、血液の成分を凍らせて、

 真空状態で乾燥させた。輸血に使われた。

 フリーズドライ製法で作られたインスタントコーヒーが兵士に配られた。

〇ナポレオンが要望して戦場でも食べられるものとしてできたのが

 瓶詰。それが後に缶詰になる。

〇レトルト食品も戦争のためにできた。

  

〇戦争がきっかけで生まれた物。

〇カーディガン

 ケガをした兵士が脱ぎやすくするため。

 19世紀にカーディガン伯爵によって作られた。

〇セーラー服 水兵の服装だった。

 襟が大きい理由 髪の毛を洗う機会が少なく長髪が多いので、

         服を汚さないため。

         襟を立てて音を聴きやすくするため。

〇Tシャツ 下着としてアメリカ軍が開発した。

〇トレンチコート 防寒着としてイギリス軍が開発した。

  肩に特徴的な部分がある。階級章をつけた名残りとも言われる。

〇ダッフルコート 大きな留め具は手袋のまま着脱しやすいため。

  漁師の防寒具をイギリス軍が導入。

 

〇戦争がきっかけで生まれた物

〇ランドセル オランダ軍のカバンをヒントにつくった。

  

〇戦争がきっかけで生まれた物

〇自動車 戦場で大砲を運ぶために作られた。

     フランス軍の命令で作られた。

     1769年 蒸気で走る三輪車。

   

番組はまだまだ続くけど、

今晩書き留めるのはここまでにしよう。

「マゼランが来た」② フエゴ島のセルクナム人

   

今日は令和3年8月18日。

  

前記事に引き続き、

「マゼランが来た」(本多勝一著/谷川明生写真/朝日新聞社)

より引用します。

  

第四章の「『火の島』の住人たち/マゼラン海峡・フエゴ島」から

引用していきたいです。

  

サンフリアンで越冬したマゼラン艦隊四隻は、1520年8月24

日に出航してさらに南下し、ついにこの(マゼラン)海峡に到達す

る。しかしそこには、すでに最初の海峡発見者、真の発見者たるこ

れら先住民がいた。マゼラン隊の生き残りからスペイン宮廷秘書M

=トランシルバーノが聞き書きした記録には次のように伝えられて

いる。

「ある夜、海峡の左側の陸地に、おびただしい数の火が見えた。こ

のことから船隊の一行は、自分たちがこの地方の住民に見つけられ

て住民たちが互いに合図の烽火(のろし)をあげているのだろうと

推測した」

この「おびただしい数の火」から〈フエゴ(火)の国〉と呼ばれる

ようになるのだが、これは烽火などではなく、寒い地方に生きる住

民の火であった。

(95~97p)

  

マゼラン海峡の名前がそうであるように、

南米の地名が先住民がつけたものが残らず、

ヨーロッパ人がつけたものが残ってしまう。

この「フエゴ島」もその例。

本多さんも、マゼラン海峡と記述せずに、

「この海峡」と書いています。

  

  

世界史に大きく名をとどろかせることになるこの海峡も、これら先

住民族にとってはそれほど大きな意味をもつものではなかった。実

はマゼラン自身もまた、この海峡の意味を過大評価していた。当時

つくられた地図が説明しているように、この海峡より南にはさらに

南極へと大陸がつづいていると考えられ、したがってここだけが太

平洋(東洋)への抜け道と思いこまれていたのだ。ところがフエゴ

島などの島々をはさんですぐ南に大きなドレーク海峡があること、

アメリカ大陸はマゼラン海峡などなくてもどうせ終わりになること

は、この58年後(1578年)のドレークによる探検まで西欧世

界は知らなかった。しかし先住民族にとっては、ドレーク海峡をの

ぞむヲラストン諸島のホーン岬まで完全な生活圏内であった。

(97~110p)

   

先住民はとっくに知っていることを、

ヨーロッパ人は探検によって大騒ぎして知ったということです。

  

  

フエゴ島に住んでいた先住民は自称セルクナム人でした。

そのセルクナム人たちがどうなったのか。

マゼラン海峡北岸にあってパタゴニア最大の町、ブンタアレナス市

(チリ)にある博物館で知ることになります。

  

博物館の展示場の中に「先住民狩り」の最中の写真が

かざられていました。

4人のヨーロッパ人が銃をかまえて前方をねらう足もとに、すでに

射殺されたセルクナムのたくましい男性が弓を片手に裸でころがる

写真。説明には反省に類するものが一切ない。1886年にとられ

たこの古い写真は、その後ウスアイアの焼き肉店やサンチアゴの博

物館 でも見たし、いくつかの文献にも出てくる。

死体のそばに立つ男は、J=ポッペルという有名な山師であった。

1880年代はフエゴ島に金が発見されて、一旗組が(ひとはたぐ

み)がヨーロッパや南米のあちこちから集まった時代である。ルー

マニア人のポッペルもその一人として現れ、アルゼンチン政府から

砂金採取権をとると、逃亡者や犯罪者を含む50人に軍事教練をほ

どこして武装させた上、セルクナムの国に侵入した。やがて洗金工

場が建てられ、軍隊は200人以上にもなって虐殺をつづけ、独自

の金貨さえ鋳造するほどの勢力になった。

このほか金にむらがってフエゴにきた有象無象の一旗組もセルクナ

ム虐殺に関与し、その女性たちを強姦の目的で”生けどり”にした。

先住民の祖国フエゴは、殺人も凌辱も勝手放題の完全な無法地帯と

化した。

(116p)

   

その写真は「マゼランが来た」には掲載されていて、

ショッキングな写真です。
  

まだフエゴ島でのセルクナム人の辛い状況は続きますが、

引用はここまでにします。

  

章の最後の方で、本多さんはこう書いています。

  

南米で先住民の側に立って銃をとった白人も九牛(きゅうぎゅう)の

一毛(いちもう)ぐらいはいるのだが・・・・。

(126p)

  

「九牛の一毛」とは?

調べると、多くの牛のうちの1本の毛のことであって、

取るに足らない数の意味らしい。

「マゼランが来た」① ルポルタージュ やってみたかったこと

   

今日は令和3年8月18日。

   

この本を読みました。

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「マゼランが来た」(本多勝一著/谷川明生写真/朝日新聞社)

  

この本が出版されたのは1989年です。

32年間、ずっと家にあった本です。

買った時に読んだようで、文章の横に赤線が時々引いてありました。

でもあまり内容を覚えていません。

ちょうど、最近マゼランについて、マイブームになっていたので、

あらためて読むことにしました。

   

マゼランやコロンブスによって、ヨーロッパ人が

北米大陸や南米大陸、あるいは太平洋上の島々に出向くようになりました。

そこには、どこであっても先住民が住んでいました。

後から来たヨーロッパ人が、先住民に対してどんなことをしたかを

追求したし、ルポルタージュしたのがこの本です。

   

現地に実際に行って、現地の人たちの話を聞いて、

それをもとに報告する。これがルポルタージュです。

本多勝一(かついち)さんのそのやり方がいいなと思って、

若い頃は本多さんの本を何冊も読みました。

「北海道探検記」を読んで、本多さんが行った場所や人に会おうと、

就職前に北海道徒歩旅行もしました。

  

今回、すごく久しぶりに本多さんの本を読んで、

ルポルタージュは自分がやってみたかったことだなと

思い出したような気分です。

  

 

ヨーロッパ人が先住民に何をしたか。

本多さんは、最後の章で次のように書いています。

  

マゼランが寄港したすべての現地を調査し、以上六章にわたって報

告した。取材に出る前に、その地の先住民についての暗い運命は、

あるていど予測していたことではある。だが、事実は予想をはるか

に超えていた。「新大陸」全土に生きついでいた何千万ともしれぬ

先住民や、マリアナ諸島の何万もの先住民の目で見るとき、ヨーロ

ッパ人という「大野蛮人}(先住民パスカルさん言)は、民族滅亡

を招く「悪魔」(その祖母言)以外の何ものでもなかった。虐殺さ

れた何千万ともしれぬ魂にとっては、白人たちの「偉大な」芸術も

科学も宗教も国家も、一切が事実として無意味(ナンセンス)だっ

たし、今も無意味であろう。それはコロンブス以来500年途切れ

ることなく続き、今なおアマゾン川やパラグアイ川の奥地で進行中

なのだから。

(287p)

    

先住民には迫害が行われてきて、

現在(1989年)も続いているというのです。

   

  

その一例をこのブログに書き残しておきたいです。

  

つづく  

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