「天空の星たちへ」④ 時効後に出てきた写真・証言
今日は令和3年8月22日。
前記事に引き続き、
「天空の星たちへ」(青山透子著/マガジンランド)
より引用していきます。
しかし、1989年11月22日午後、前橋地検は群馬県警から業
務上過失致死傷容疑で書類送検された日航12名、運輸省4名、ボ
ーイング社4名の計20名と、さらに遺族側から告訴、告発された
3者の首脳ら12名(うち1人重複)の合計31名を全員不起訴と
した。
不起訴かーーー。全員が罪を問われなくなったのだ。
それから、幾度も再調査を望む数々の声はかき消され、誰ひとりも
起訴されることなく、罪を問われることもなかった。
520名の命(衝撃で胎児が母体から外に出たことで521名とい
う場合もある)が失われた大事故は1990年に時効となり、誰も
刑事責任を問われず、事故そのものが封印され、重い蓋がされたの
である。
(224p)
大事故なのに、たった5年で時効になってしまうのですね。
解明するのにはもっと時間が必要だと考えます。
写真が出たのは、1990年ーーー。不起訴が決まり、公訴時効と
なった年である。
私も知らなかった事故直後の機内写真を、学生Bが大きく引き伸ば
して発表した。
それは1990年10月13日に遺族から各新聞社に公開された一
枚の写真で、なんと墜落直前の機内を撮ったものであった。
墜落直前の日航ジャンボ機の中で酸素マスクが落下している中、半
そで姿の乗客一人ひとりが落ち着いているように見える。全員が座
りながら、酸素マスクを口に当てている様子を確実にしっかりと写
している。
(246p)
(4p)
この写真は見た覚えがあります。
圧力隔壁が破壊されて、爆風が乗客席に突き抜けたら、
このような状態にはならないと、今回は見ることができます。
誰でもそう思います。
それにしても残念なのは、事故原因の最終報告書が提出される前や、
時効成立の前にこの写真が一枚、一般に公開されていたならば、結論
は違う方向に向かっていったかもしれないことだ。
(253p)
でも新たな事実として、結論が変わってもいいのではないかと思います。
さらに新しい事実が加わりました。
1995年の8月29日の新聞は、学生たちにもうひとつの衝撃と疑
問を与える記事だった。(中略)
米軍の準機関紙であるパシフィック・スターズ・アンド・ストライプ
ス(星条旗新聞)の8月27日付号が報道した内容は次の通りである。
証言をしたのは、当時、米空軍第345戦術空輸団に所属していた元
中尉のマイケル・アントヌッチ氏だ。
「1985年8月12日に発生した日航ジャンボ機墜落事故直後の当
日夜、6時40分ごろ、C130輸送機で沖縄の嘉手納基地から横田
基地に戻る途中の大島上空にて、日航機の機長が緊急事態発生を告げ
る無線を傍受した。墜落の20分後には群馬県の上野村にある御巣鷹
の尾根の墜落地点に到着して、煙が上がるのを目撃した」
この報告を受けて、同日午後9時5分に米海兵隊救難チームのヘリが
厚木基地から現場に到着して、隊員がロープで現場に降りようとした
のだが、在日米軍司令部がある横田基地に連絡すると担当将校が「日
本側が現在現場に向かっているので帰還せよ」という帰還命令を出し
たという。
事故の生存者のひとりで日航アシスタントパーサーだった落合由美さ
んの証言では、「救助ヘリコプターが上空で回っているのがわかった。
手を振ったが気付いてくれなかった。自分の周りでは数人の子どもた
ちの声が聞こえたがそのうち聞こえなくなった」と言っている。これ
についてアントヌッチ氏は、落合さんが見たのは海兵隊のヘリだった、
と証言しているのである。
このことを伝える日本の各新聞記事をまとめると、在日米軍ヘリコプ
ターが自衛隊より約12時間も早く墜落現場上空に到着しつつも、上
官の指示で現場に降りなかったということである。
最後にこの元軍人は、「在日米軍は事故直後にすでに現場を発見して
おり、もっと多くの命を救えたはずだ」と述べている。
(268~269p)
これはどういうことなんだと思います。
何があったのか説明が欲しいところです。
つづく
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