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2026年3月

2026年3月23日 (月)

千万町のミツマタ群生地に何が起こった?①

    

今日は令和8年3月23日。

  

岡崎市千万町にあるミツマタ群生地。

この場所のことを聞いたのは昨年かな。

奥さんの実家に帰る時に、千万町を通るようになり、

看板とかを見かけるようになり、知りました。

ただ昨年知った時には、すでに花が終わった時なので、

今年の春は行きたいと思っていて、

3月20日に実行しました。

奥さんとドライブ。

  

イメージは、私たちと同じか、それ以上の年輩の方が

たくさん来ていて賑やかだと思っていました。

駐車場は群生地から2キロメートル離れた千万町小学校跡地の

千万町楽校。

早くもここで違和感。

楽校のグラウンドが駐車場だと思いましたが、

全く案内がありませんでした。

なぜ?

とりあえず邪魔にならないところに自動車をとめて、

ミツマタ群生地に向けて農道を歩き始めました。

県道を歩くと交通量が多く、観光客が多いと危険だという配慮から、

少し大回りですが、農道を歩くのだと思います。

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楽校のグラウンドには開花したミツマタが何本かあり、

きっと群生地は咲いているとは容易に予想ができました。

なのに、歩く農道にも全く案内がない。

すぐに2人の方とすれ違いましたが、

それ以後は誰ともすれ違わず。

なんか変だぞ。

  

その農道で見た景色です。

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乙川にかかる橋です。

この橋を渡るのはスリルあるなあと思いましたが、

後からもっと怖い橋がありました。

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農道から、千万町の家々も見ながら歩きました。

個性的な家もありました。

上の写真の右端の建物は印象的でした。

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歩いていました。

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この橋が見えてきた時から、

奥さんとの間でザワザワしてました。

「あれってもしかして、隙間だらけじゃないか」

「ええ、まさか。でもそんなふうに見える」

「ありゃあ危険だよ。下の石の上を歩いた方が安全jかないか」

などなど。

そして予想は当たりました。

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怖い橋でした。

  

農道を歩いて、県道に合流。

目印は郵便ポスト。

郵便ポストがある場所の手前を山に向かっていくと

ミツマタの群生地があるはずです。

心のふるさと千万町楽校 千万町ミツマタ群生地黄金郷

このサイトによると、次のような写真です。

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写真も右手に郵便ポストがあるでしょ。

そして黒い建物もありました。

でも、。この写真ような看板がありませんでした。

昨年見た看板はこれかな。

ちょっと自信なし。でも内容は同じだったと思います。

しかしその看板もなし。

とにかく「ミツマタ」と書いたものがなかったのです。

この道でいいのか、迷いました。

  

参考にしたのは、上記サイトのこのマップ。

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赤丸のところに看板がなく、それでも林道を北西に進みました。

の分岐は右に入るように、ここにも看板がマップにはあります。

でもないんですよ、この看板が。

とにかく千万町楽校を出てから「ミツマタ」のついた看板、

案内板が1枚もありません。これは異常です。

  

それでも進むしかありません。

すれ違う人は、最初の2人だけ。

3連休の初日、天気も上々。

でも観光客がほぼいない。

  

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私の住んでいる豊川市の住宅街にあったら、注目されるだろうな。

この千万町にあると、そうは目立たず。

でも気になったので撮影しました。

  

文字の入ったものを発見。

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「ミツマタ募金箱」と書かれたものです。

半信半疑でしたが、ミツマタ群生地はここだったのではと

この募金箱で確信しました。

しかし、椎茸のホダ木はありましたが、ミツマタがわからず。

どういうことだろう?

しばらく探しました。

そして、まばらに育っているミツマタを発見。

これか?

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いったいミツマタ群生地に何が起こったんだ?

そう思いました。

私が間違ったところを見ていたらすみません。

また教えてください。

「心のふるさと千万町楽校」サイトにはこんな写真も

ありました。

Img_7704

これが見たかったけど、存在しませんでした。

  

わずかにあったミツマタを撮影。

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他の木の黄色の花が目立ちました。

私にとってはお馴染みの花でした。

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クロモジです。山に入るとよく見ます。

独特の形をしているので、目に入りやすいです。

この花と「クロモジ」は連想できません。

クロモジとなぜ言うのでしょう。

PSJ日本薬学会 クロモジ

このサイトが参考になりました。

名前の言われは、幹が関連しました。

上のサイトから幹の写真を転載。

Img_7705

同じくサイトから文章を引用します。

和名は樹皮の斑紋を文字になぞらえてクロモジと

名付けられました。

    

なるほど、文字に見えないこともなし。

クロモジは爪楊枝の原料であることも有名。

たまにこうやって復習ができる、知識も追加できていい。







  

  

  

2026年3月21日 (土)

ダンプカーの語源/三転ダンプカーの見分け方

   

今日は令和8年3月21日。

  

仲間と山登りに行く往復で、高速道路を走っていたら、

「最近はコンテナを載せたような大きなトラックばかりだなあ」

とHさんがつぶやきました。

そう言われてみたら、確かにそうだと思いました。

34177136_m

写真のようなトラックが多いです。

高速道路だからかもしれません。

  

そういえば、「ダンプカー」という言葉を

最近、あまり聞かないなあと思いました。

ダンプカーの語源を知りたくなりました。

WEダンプ ダンプとは?由来・種類・現場での役割をわかりやすく解説

ここには次のように書いてありました。

  

「ダンプ」は英語の dump が語源です。dump には 「ドサッと落

とす/一気に下ろす」という意味があり、 dump truck(ダンプ

トラック)=積荷を一気に落とせるトラック、という呼び名になりま

した。 日本では dump truck の “dump” が省略され、「ダンプ」

として定着しています。

  

「ダンプ」もあるけど私は「ダンプカー」ですね。

「ダンプ」というのは、こういう意味だったのですね。

    

ダンプカーについて調べていて、三転ダンプを知りました。

後ろのみならず、左右にも荷台が傾斜する三転ダンプ。

これは便利だなと思いました。


YouTube: トラック紹介シリーズ「日野レンジャー三転ダンプ(平成25年式)」編

  

何枚かスクリーンショットを載せます。

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このようなレバーがあるのですね。

  

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ダンプアップのレバーはここにあるんだ。

  

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先入観で、後ろへのダンプアップが浮かびますが、

左右にダンプアップできたらいいですよね。

  

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これもなるほどと思ったこと。

三転ダンプであるかどうかは、このプロテクターのサイドが

カットされているかどうかでわかるなと思います。

ダンプカーを見る楽しみの1つになりそうです。  


  

2026年3月20日 (金)

雪印メグミルク豊橋工場のための鉄塔を辿る

    

今日は令和8年3月20日。

  

前記事の続きです。

  

私は教えてもらいました。

同じ町内会に住むAさんに教えてもらいました。

1月中旬にペンキを塗り替えた鉄塔は、

公的なものではなく、

雪印メグミルク豊橋工場に、

高電圧の電力を送るための鉄塔だと言うのです。

豊橋の大村にある中部電力パワーグリットの

豊橋変電所から雪印メグミルク豊橋工場まで

高電圧線を鉄塔で繋いでいるというのです。

  

本当か?

  

確かめました。

電力を受け取る側の雪印メグミルク豊橋工場の写真です。

Img_3641

他の用事で撮影したものです。

3本の高電圧線で電力がやってきます。

3本のツノがある印は、ガス絶縁開閉装置だそうです。

スイッチのようなものだそうです。

Img_6899参考にしたこの図は、中部電力パワーグリットのHPから転載しました。

  

ここから高電圧線がどのように鉄塔で導かれているのか、

辿ってみました。

地図で表してみます。

地図のベースはGoogleアースです。

Img_7666

辿ってみたら、19本の鉄塔によって、豊橋変電所から

雪印メグミルク豊橋工場まで高電圧の電力を送っていました。

雪印メグミルクはそれだけの電力を必要とする工場のようです。

冷却装置は24時間必要であるし、きっと大型なのだと思います。

この工場の生産を成り立たせるための、それだけの理由で立った

鉄塔だったのです。

鉄塔の近くに住んで30年を越えています。

今頃気がついたことです。

  

いくつか鉄塔の写真を載せます。

雪印メグミルク豊橋工場から辿った順番で行きます。

  

1番の鉄塔です。

私の住む町内会の集会所前に立っています。

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こうやって辿ることをしたことで、この鉄塔の存在を意識しました。

今までさんざんこの鉄塔の前を通っているのに・・・

そんな体験を、今回はいくつも体験しました。

ここに鉄塔があったのか、そういえばここに鉄塔があったな、

そうかこの鉄塔も雪印メグミルク豊橋工場に電力を送る鉄塔だったのか、

そんなことを思いながら変電所まで行きました。

    

 

6番。

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地元の小坂井中学校の体育館が左にあります。

  

10番。

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この鉄塔から高電圧線は左に行きます。

高架の小坂井バイパスの上を超えます。

  

12番。

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この鉄塔の右下から来た高電圧線が、豊川放水路を超えてきたもの。

3本が1組のようですので、この鉄塔で3組の高電圧線が

合流しています。

  

 

15番。

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手前が15番の鉄塔。向こうに16番、17番と鉄塔が続きます。

  

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左奥が18番の鉄塔。右が19番です。
   

  

そして高電圧線は豊橋変電所に辿り着きます。

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左上から来ている高電圧線は、右の腕の多い鉄塔に辿り着きました。

この鉄塔のあるのは、豊橋変電所の敷地です。


      

ペンキ塗り直し工事があったおかげで、気がつき、

調べて、わかったことです。面白かった。

面白いことは身近にあります。

高圧線の鉄塔のペンキ塗り直し作業

    

今日は令和8年3月20日。

  

私の近所にある高圧線の鉄塔。

1月中旬にペンキの塗り直す工事があると聞いていました。

うまくいったら、その作業を撮影したいと思っていました。

午後2時には戻ってくるので、撮れることもあれうかなと

楽観視していました。

しかし、2日間作業日があったのですが、

午前中作業で、終わってしまったそうです。

寒い風の吹く中、高所での1日作業はきついので、

午前中で終わってしまうのかなと予想します。

撮影ができなくて残念と思っていたら、

なんと、撮影した方がいました。

写真を譲っていただきました。

掲載します。

  

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大変な仕事だなと写真を見て思います。

こういう仕事をしている人たちのおかげで、

世の中は滞りなく営まれていくんだよなと感じました。

生でみてみたかったなあ。

  

こういった高圧線の鉄塔というのは、

電信柱のように、電気を届けるためのものであって、

公的なものだと思っていましたが、

今回こだわったら、違うということがわかりました。

回覧板で、ペンキ塗り直し作業のお知らせが、

周りました。

そこには高圧線の鉄塔の名前が書いてあり、

名前に「雪印」が入っていたことにこだわりました。

  

次の記事に続く。

2026年3月19日 (木)

商店名が交差点の名前になった「権七」/いつ閉店したのか?

    

今日は令和8年3月19日。

  

クラウドに写真がたくさんたまっています。

いつかはブログの記事にしたいと思っている写真です。

その中の1枚。

  

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昨年(2025年)3月13日の写真です。

浜松市にある交差点の写真。

赤信号で止まっている時に撮影。

この交差点の名前が面白い。

「権七(Gonhichi)」です。

なぜこの名前?

  

「七」を「ひち」と読むのも異色です。

ここでも道草 20250309納古山/空ふさがり⑨ 花や蝶、草に地名(2026年2月7日投稿)

ここで岐阜県七宗(ひちそう)町のことを書いています。

「し」を「ひ」と言ってしまうことは経験ありです。

これは方言の可能性が高いです。

岐阜県〜愛知県〜静岡県遠州地方の方言ではと思っています。

  

場所を地図で示します。

Googleマップを利用します。

Img_7630

浜松市の姫街道と呼ばれる道の交差点です。

この時には、地図の村櫛三方原線を南西から自動車で走ってきて

姫街道と合流する状態でした。

その交差点のすぐ南に「権七店跡」があります。

この「権七店」の店の名前が、交差点の名前になったようです。

ねこじゃらし・Kの懐かし処 百年以上商っている商店が地名に・・・権七(姫街道沿い)

このサイトに説明がありました。

  

スクリーンショットの写真を載せます。

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この記事は2013年に書かれたものです。
  

真ん中の看板の文字をここに記します。

  

葵町

権七店(ごんひち店)

三方原追分(おいわけ)で左に折れると、うっそうとした松並木が続

いている。ここから権七店までは家がほとんどなく、寂しいところで

あった。約一〇〇年以上も続いた権七店は、近隣の人々の寄り合い所

となり、井戸端会議に花が咲いた社交の場所でもあった。店先には山

桃の木があって、そこに馬方(うまかた)は牛馬をつないで休憩した。

店では、駄菓子だんご・お酒等を売っていた。

  

13年前にはあった看板は今はどうなっているのか。

地図には「権七店跡」となっているので、

13年前には商いをしていた権七店は閉店してしまった可能性高し。

今はどうなっているのか。

その辺りを調べてみました。

  

まずGoogleアースを利用。

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「権七店跡」にストリートビューで降りてみました。

Img_7637

最初に見た画像。

「権七」と書いたバス停があり、左手に先ほどの看板がありました。

この画像の撮影は2025年7月です。

看板はきっと今も存在するでしょう。

そしてお店はどうなっているのか。

左の方向に進むとお店はありました。

Img_7638

う〜ん、営業していないようです。

窓には白いものが貼られて、中が見られないようになっています。

やはり「権七店跡」になっています。

  

ストリートビューで過去の写真を見ることができました。

最も古い写真。

2012年5月撮影

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営業しています。

  

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明らかに営業をしています。自販機が1台無くなりました。

  

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「ゆうパック」の幟があるので、営業しているのかな。

店さきに置いてあるのはタマネギ?

  

この後の写真が、最初の2025年7月なので、

Googleアースのストリートビューの画像から判断して

閉店は2023年9月以降、2025年7月前と予想します。

どうなんでしょう。

  

ここでGeminiに聞いてみました。いつ閉店したのか。

回答の一部です。

   

権七商店(現代の店舗)が正確にいつ閉店したのかについて、公的な

記録や明確な年月は残念ながら残っていません。個人の商店であった

ため、市の歴史書などにも閉業の記録までは記載されていないようで

す。

  

その後、年月を経てお店を閉じられ、現在では店舗の建物自体もなく

なってしまいました。今は写真に収めていただいたあの看板と、「権

七」という交差点やバス停の名前だけが、かつての賑わいを伝えてい

ます。

  

Geminiでも閉店した時はわかりませんでした。

新事実。昨年7月にあった建物は現在無くなってしまったそうです。

それはびっくり。

こうなると現場に行きたいですね。

現場に行けばわかることもあり。

近所の人に聞けば、閉店がいつ頃だったかもわかるはず。

  

そもそも「ごんひち」という店名のいわれも知りたいです。

きっと最初の店主が権七さんだったのでしょう。

  

1枚の写真を記事にできてよかったです。

読んでいただきありがとうございます。

  






  


  

2026年3月18日 (水)

20250126金勝アルプス⑦ 逆さ観音/オランダ堰堤

    

今日は令和8年3月18日。

  

前記事に引き続き、昨年1月26日に歩いた金勝アルプスの

記録を書いていきます。

この橋を渡ると「逆さ観音」があるとのこと。

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「逆さ観音」の案内板。

  

この文章の中から一部引用。

  

一番不思議なことは、なぜ逆さになっているのだろうか

次に、なぜ三尊石仏なのに「観音」さんなのかしら

更に、大岩の一端が割り取られているのではないか

の疑問が湧いてくるでしょう。

元は、その上部の山上にあり逆さになっていなかったのです。

正しくは「阿弥陀三尊石仏」で、中央が「阿弥陀如来」、左右の

侍仏が「観音・勢至菩薩」なのです。

大岩の一端は、下流の「オランダ堰堤」築造時(明治二十二年完成)

に石材の不足が生じてそれに使われたのです。そのため、後にバラ

ンスを失い山上からずり落ちて逆さになったのです。

以来、身を削られ逆さになっても、地元の人々を大洪水から守って

いてくださると敬われています。

  

逆さ観音となったのは、明治22年(1889年)の「オランダ

堰堤」がきっかけだったのですね。

もっと古くから逆さ観音だと思っていました。

でも逆さになった理由がはっきりしているのはいいのかな。

「伝説で、・・・・・が理由で逆さ観音になったと言われている」

よりは、スッキリするかな。

  

これが逆さ観音です。

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削れたところがよくわかります。

  

逆さ観音を見て、先を進みます。

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何か面白そうな人工物が見えてきました。

あの橋らしきものはなんだろう?

地図の⑨の場所です。

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ここがオランダ堰堤がある場所でした。

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これがオランダ堰堤です。

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ここにも、「逆さ観音」の案内板と同時期に作られた

案内板がありました。

こんな文章がありました。

  

昔、この一帯の森林はヒノキの美林であったが奈良時代から平安時

代にかけて、寺院・仏閣の造営に大量の材木が奈良・京都に伐り出

された。

このため、山は荒れて禿げ山になり、明治に至るまで大洪水がたび

たび起こり、下流の人々に大きな被害を及ぼし続けた。

そこで政府は、明治六年「淀川水源砂防法」を制定、淀川水系の

治山治水工事に着手しオランダから砂防工事の技術者ヨハネス・

デレーケ氏を招いた。

ここに現存するえん堤は、明治二十二年同氏の指導の下に作られた

割石積えん堤で、わが国最古のものと言われている。

なぜ、百年以上も経った現在もなおその機能を発揮し続けているの

だろうか。

その理由としては、水裏(下流側)の放水路面がアーチ型になって

おり、中央に水を集めることで、両袖部が削られにくい構造である

ことや、えん堤下流面を階段積み(鎧積み)にすることで、流水が

階段面に当たって衝撃を和らげ、水叩部の洗掘を防止する構造であ

ることなどが考えられる。

現在もなおその効力を発揮している巧みな構造技術であり、生きた

遺跡ともいわれ「日本の産業遺産三百選」に選定されている。

  

ここが不明「水裏(下流側)の放水路面がアーチ型」が難解。

ここはGeminiにまた聞きました。

  

1. もしも放水路が「平ら」だった場合(一般的な形)

Img_7620

 問題点: 水が横幅いっぱいに広がって流れ落ちるため、堰堤と川岸が

接している部分(両袖部)にも水が激しくぶつかります。ここが削ら

れると、堰堤全体が崩れる原因になってしまいます。

 

2. オランダ堰堤の「アーチ型」の場合

Img_7621

構造: 水が流れ落ちる部分(放水路面)の形を、まっすぐではなく中央

が低くなるようなアーチ型(ゆるやかなU字型)にしています。

効果: 水は自然と低いところ(中央)に向かって集まってから流れ落ち

ます。その結果、一番守りたい両端の岸(両袖部)に水が当たらなくな

り、削られにくくなるのです。

  

「放水路面」がわかっていなかったです。

堰堤の上部の水が流れる場所が「放水路面」であって、

上部に向かってアーチ型になっているんですね。

なるほどです。

でも、実際のオランダ堰堤を見ても、そのアーチが顕著ではないです。

まだ解決ではない状態で保留としたいです。

いつか確認したいです。

  

昭和に作られた砂防ダムなどは、この放水路面のアーチ方式を

採用していますね。

Img_7626_2 となりのカインズさん

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デ・レーケの胸像。

Img_9951

やっぱり大水の時には沈んでしまう沈下橋のようです。

夏にはこの橋や、オランダ堰堤付近は、

水遊びをするために、子ども連れの人たちで賑わうようです。

しがそび オランダ堰堤 ってなんだ?! 大津市水遊びスポット

ここのサイトから写真転載。

Img_7624

この写真を見ると、少しはアーチ型がわかります。

真ん中に水流も集まっています。

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Img_7622

いよいよ駐車場に戻ってきました。

Img_7625

13時23分でした。歩き出したのが午前7時54分。

5時間29分間山の中にいました。

  

以上で昨年の1月26日の山行の記録を終えます。

20250126金勝アルプス⑥ 歴史の生き証人「警笛鳴らせ」 

   

今日は令和8年3月18日。

  

前記事の続きです。

前記事に「南谷林道」の歴史について、

Geminiに尋ね、回答を前記事に載せました。

その最後の文章を転載します。

特に印象に残った『人工物の痕跡』や風景などはありましたか?

  

昨年1月26日に歩いた南谷林道にあった「人工物の痕跡」として、

「警笛鳴らせ」の古い標識の写真をGeminiに送りました。

その写真を再掲載します。

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Img_9938_4

この時のGeminiの回答も良かったです。

ここに載せます。

  

あの錆びて古びた標識は、まさに南谷林道の「歴史の生き証人」の

一つです。

  

「警笛鳴らせ」標識(331)が語るもの

この標識は、日本の道路標識「警笛鳴らせ」(331)です。元は青

地に白の太い「X」印のような模様が描かれていました。

1. かつての「活気」の証明

これほど劣化し、自然に還りつつある標識がそこにあること自体が、

前回の説明を裏付けています。

• 車両の往来: この標識は、かつて南谷林道が、大型車両(ダンプ

カー、トラック、重機)が頻繁に行き交う、活気に満ちた「工事・

林業の大動脈」であった時代の遺物です。

• 安全確保の必要性: 山奥の見通しの悪いカーブや、道幅が極端に

狭くなる場所で、対向車と衝突しないよう、お互いにクラクション

を鳴らして存在を知らせる必要がありました。当時の運転手たちが、

この標識を見て緊張感を持ってハンドルを握っていた姿が目に浮か

びます。

2. 花崗岩の地質との関わり

金勝アルプスの地質である花崗岩は、前回の通り非常に脆い(マサ

土)ため、崩れやすい斜面を避けて林道を建設する必要がありました。

• 急カーブの多さ: そのため、南谷林道は沢沿いを縫うように、見通

しの悪い急カーブが連続するコースにならざるを得ませんでした。特

にこの標識が設置されている場所は、そうした注意が必要な要所だっ

たのでしょう。

• すれ違いの困難: 車道としての幅はあっても、脆い地質では路肩が

弱く、大型車両同士のすれ違いは命がけの作業でした。クラクション

による意志疎通は不可欠でした。

  

時の流れと、自然の力

現在は車両が通行しなくなり、標識は役目を終えました。錆びつき、

色あせ、周囲の苔むした巨岩や草木と一体化しつつあります。この

劣化の様子こそが、この道が「人々の闘いの場」から「自然に還る

道」へと変化したことを、何よりも強く物語っています。

あんな山奥に、ぽつんと残る「人工物の死に様」のような光景は、

廃道ファンや写真愛好家にとっては非常に魅力的な被写体ですよね。

周囲の花崗岩の荒々しい質感と、錆びた標識の対比が素晴らしいと

思います。

  

予想以上の量と質の高い回答でした。

こんなに往時が偲ばれるとは思いませんでした。

私たちが歩いた道は登山道でもあり、

林道の「廃道」でもあったわけです。

また歩く時には、そんなことを思い出しながら歩きたいですね。

きっと、この知識があると、よりたくさんの

「歴史の生き証人」が見つかると思います。

  

今回はここまで。

次の記事に続きます。

  

  

20250126金勝アルプス⑤ 第二名神の標識/南谷林道の歴史

    

今日は令和8年3月18日。

  

3月15日の記事の続きで、

昨年の1月26日の金勝アルプスの記録を書きます。

   

狛坂磨崖仏を見て、道を進めました。

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この分岐は地図の⑦です。

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ここからの道は、かつては林道だったのではと想像します。

道幅が広く、自動車も入れたように見えました。

  

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この隧道の上は新名神高速道路です。

すぐ東に新名神金勝山トンネルの入り口があります。

金勝山という名前は存在していなくて、

金勝アルプスの山々を総称しています。

このトンネルは、地図で見ると、

狛坂磨崖仏の下付近を通過しています。

  

Img_9936

これは隧道を通過した直後に見たと思います。

1年以上前なので自信はないです。

とても年季の入った標識です。

いつ頃のものか気になり、Geminiに聞いてみました。

回答です。

  

この標識は、2005年(平成17年)10月より前(おそらく1990年代

〜2000年代前半の測量・初期工事の時期)に作られ、設置されたも

のと考えられます。

その理由は以下の2点です。

• 組織の民営化: 標識にある日本道路公団(JH)は、2005年10月1日

に民営化され、現在のNEXCO(このエリアはNEXCO西日本)へと

移行しました。

• 名称の変更: 「第二名神」という路線名も、一部区間の開通が近づい

た2007年(平成19年)に「新名神高速道路」へと正式に変更されまし

た。

すでに存在しない組織のロゴと旧路線名が記された、貴重な時代の遺

物と言えます。

  

「貴重な時代の遺物」

この言葉が魅力的です。

「第二名神」という言葉はまだ私の記憶にあり、

つい「第二名神」と言ってしまうことさえあります。

もう19年前に消滅した言葉なのに、

頭の中はアップデートできていません。

「NEXCO」も私には馴染みのない名前です。

  

邪魔じゃなかったら、このまま残してほしい標識です。

  

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川沿いの道を進みます。

  

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これこそ、かつては自動車が走っていた林道である証拠でしょう。

「警笛鳴らせ」の標識。

これも古い。

こうなると林道を知りたくなりました。

名前を調べました。

「南谷(みなみだに)林道」or「奥谷南谷林道」

歴史を調べます。いろいろネットで探りましたが、

結局Geminiに聞いてみました。

とてもいい文章です。回答を載せます。

  

「かつては車も走れたような痕跡」という着眼点、素晴らしいですね!

まさにその通りで、南谷林道(奥谷南谷林道)はかつて、重機やトラ

ックなどの車両が通行できる立派な林道として機能していました。

現在のように車が走れなくなってしまったのには、金勝(こんぜ)ア

ルプス一帯の歴史と、この地域特有の地質が深く関わっています。

1. なぜ車が走れる林道が作られたのか?

(治山・砂防のメインストリート)

金勝アルプス一帯を歩いていると、天狗岩のような露出した花崗岩の

奇岩や、独特の植物相によく出会うと思います。実はこのエリアは、

奈良〜平安時代から都や寺院の建設のために過度な森林伐採が続き、

江戸時代には草木も生えない見渡す限りの「はげ山」となっていまし

た。

そのため、大雨のたびに下流の草津川に大量の土砂が流れ込み、深刻

な水害を引き起こしていました。これを食い止めるため、明治時代に

オランダ人技師デ・レーケの指導で入り口に「オランダ堰堤」が作ら

れましたが、治水工事はそこで終わりではありませんでした。

昭和にかけて、さらに山奥の南谷上流部へとコンクリート製の近代的

な砂防ダムを連続して建設し、はげ山に大量の苗木を植える(治山事

業)必要がありました。資材、重機、作業員を山の深部へ運び込むた

めの「工事用・林業用の大動脈」として切り拓かれ、拡張されたのが

南谷林道です。そのため、車道としての十分な幅が確保され、要所に

頑丈な石垣や橋が作られました。

2. なぜ今は走れなくなってしまったのか?

(役目を終え、自然に還る道)

かつてはトラックが行き交った林道が、現在のような荒れた状態(廃

道化)になってしまったのには、2つの大きな理由があります。

• 大規模工事の完了と役割の終焉:

100年以上にわたる人々の植林と砂防ダム建設の努力が実を結び、見

事に山に緑が戻りました。土砂流出が劇的に減り、大規模なダムを新

設する必要がなくなったことで、大型車両が頻繁に奥地へ入る必要が

なくなり、道路としての維持管理の優先度が下がりました。

• 花崗岩(マサ土)の脆さと自然の猛威:

金勝アルプスの地質である花崗岩が風化した「マサ土」は、非常に崩

れやすい性質を持っています。車両が入らなくなり、定期的な補修が

行われなくなると、台風や大雨のたびに斜面が崩落したり、路肩が沢

の水に削り取られたりします。地質的に極めて崩発しやすい環境であ

るため、あっという間に車が通れない状態になり、自然の力によって

現在の歩幅サイズへと浸食されていきました。

南谷林道を歩くと、足元に不自然に真っ平らな区間があったり、山奥

なのに立派な護岸や古いガードレールが残っていたりします。これら

は、「はげ山と戦った治山プロジェクトの巨大な遺跡」と言えます。

自然の猛威と闘ってきた歴史の痕跡を感じながらファインダーを覗い

てみると、風景の切り取り方もまた少し変わってくるかもしれません

ね。林道を歩かれた際、特に印象に残った「人工物の痕跡」や風景な

どはありましたか?

  

ね、すごい文章でしょ。 

山に入って、気がついたこと。

「この道はかつて自動車が走った道。でも今はとても走れない。」

それを調べていくと、こんな歴史に出合えました。

気づいたことにこだわると、こんなご褒美があるのかと

今回のことで思いました。

  

Geminiの文章の最後「特に印象に残った『人工物の痕跡』や風景な

どはありましたか?」の問いかけ。

私はこの問いに、先ほどの「警笛鳴らせ」の標識の写真を送りました。

どんな回答が来たか。

次の記事に書きます。 

  

  

  






  

2026年3月17日 (火)

丸山散歩/サンシュユ、モモ?、ツクシ

   

今日は令和8年3月17日。

  

前記事に引き続き、丸山への散歩のこと。

  

丸山までの道中で見かけた草木。3月16日の撮影。

Img_5424

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一見、ミツマタの花かと思うのですが、違いました。

これは、一緒に山に行く仲間のSさんに教えてもらいました。

サンシュユです。

漢字は難しいです。「山茱萸」です。

ブログ初登場かと思いきや、2回目の登場でした。

初登場はこの記事。

ここでも道草 H25 3月の花々40 サンシュユ(2013年4月6日投稿)

この記事に書いたことで、この草木の別名がいい。

「春黄金花(はるこがねばな)」

思い出しておこう。

  

Img_5428

これも3月16日撮影。

これはモモ?ハナモモ?

この花の咲くもっと大きな木がありましたが、

そちらはまだ撮影していないなあ。

  

ツクシ(土筆)を見ました。

今朝、丸山の麓で発見。

Img_5432

その時に一緒に歩いた1年生の女の子が、

指で触ったら、煙が発生。胞子が飛びました。

その子は楽しくなって、他のツクシの頭も、

指で触れて、出てくる煙を楽しんでいました。

  

最後に、3月16日の丸山全景写真。

Img_5431

今日は2往復ですが、明日はまた4往復。

思い出深い山になってきました。
  

  

 

最後の授業は丸山まで散歩/現在の丸山のサクラ情報

     

今日は令和8年3月17日。

  

3学期も大詰め。

通級指導学級の授業も、今年度最終の子どももいます。

最後の授業は、3学期になって調べている丸山までの散歩です。

片道700m。標高は60m。

45分の授業の中で、どうにか行って、登って、眺めて、

帰ってくることができます。

  

3月13日(金)が丸山登山の始まり。

この日は1〜4時間目まであり、私は4回往復しました。

その日の写真です。

Img_5298

丸山までの道の傍には、この紫色の花が目立つ

ホトケノザ。

この雑草は、春の早くに咲くので、

春が来たなと感じさせてくれます。

  

この花の道を吸う子もいました。

「おいしいよ」「たまにハズレがあるけど」と言うけど、

試しに吸っても、全てがハズレのように思えます。

  

この写真が頂上に植えられたサクラの木です。

Img_5302

この木の枝に、色のついた紐を結びました。

私お得意の、花芽の観察です。3月13日(金)の花芽です。

Img_5313  

比較のために、その後の花芽の写真も載せます。

3月16日(月)の花芽です。

Img_5416

  

3月17日の花芽です。

Img_5433

  

名古屋で今日にもサクラの開花宣言があるとニュースで

言われていますが、丸山頂上のサクラの木は、

まだ開花しそうにありません。

  

過去に丸山がサクラで彩られた写真はネットにあります。

Googleマップで見ることができます。

何枚か転載します。

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楽しみです。

身近にこんないい場所があるなんて。

私もおそらくこの3月中に、このような写真が撮れるかと思うと

ワクワクしてきます。

  

  

丸山のサクラは、20年ほど前に植えられたものであること。

丸山に残る螺旋状の道は、その植林作業のために造られた道であることを

以前地元の人に聞きました。

そのサクラは、ほぼソメイヨシノと思いますが、

その他の種類もありました。

河津桜もあり、今はすっかり葉っぱが出て、花は目立たなくなっていました。

もう1種類あるようです。

3月13日にはすでに咲いていたサクラが3本。

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ヒガンザクラでしょうか。

丸山にサクラを植えた人たちは、長く楽しんでもらおうと、

河津桜、ヒガンザクラも植え、早い時期に来た人にも花を楽しませ、

最後に大量のソメイヨシノが咲いて遠くからも近くからも

サクラを楽しめるように考えたと思います。

  

以上、丸山のこと、サクラ中心に書きました。

最近の写真

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