「饗庭塩」というブランド/塩の製法にまつわる吉良家と浅野家
今日は令和7年5月19日。
前記事の続きです。
「饗庭塩(あいばじお)」というのは、
ブランド名みたいなものなんですね。
このサイトを見ると、ちょっと話は複雑です。
俗説では、吉良上野介で有名な吉良義央(よしひさ)が、
吉良領である饗庭で塩田開発を始めたのが饗庭塩の始まりです。
しかし、この付近では、戦国時代から塩づくりは行われていて、
その場所は、現在の西尾市吉田本浜と白浜新田付近であって、
饗庭ではないのです。
現在の地図で、該当する箇所を示します。
Googleマップを使います。
饗庭は海沿いではないのです。
動画「吉良の塩田 吉良の塩づくりの歴史」
この動画で出てきた昭和初期の塩田。
(饗庭の文字は私が後づけ)
吉田本浜と白浜は存在します。
なぜ「饗庭」の名前がついたのか?
ここは疑問点です。
思うに、浜で作られた塩が、製品化されたのが饗庭だったのでしょうか。
2つの浜で取れた塩を集めて、パッケージをした場所かもしれません。
現時点では予想であって、確かめるところまでいっていません。
さて、有名な忠臣蔵のお話で、
吉良と赤穂の塩をめぐる出来事があったようです。
YouTube: 第10回赤穂事件松の廊下刃傷事件の真の原因は塩だった!
この22分の動画。
繰り返し動画の中で説明されているのですが、
5分22秒がいいかもしれません。
吉良家の「饗庭塩」は品質が高く有名でした。
赤穂に国替された浅野家は、吉良家に塩の製法を教えてほしいと懇願します。
吉良家は浅野家に製法を伝えます。
その結果、浅野家は塩田経営を成功させます。
赤穂藩の塩田の成功を見て、今度は吉良家が製法を学びたいと
申し出ました。
浅野内匠頭は、吉良上野介の申し入れを拒否します。
当時吉良藩と赤穂藩の塩の製造は、競争状態であり、
しのぎを削っていました。
その緊張状態の中での浅野内匠頭の判断だったのでしょうか。
本当にそこまでやったのかどうか?
同じ愛知県ですが、吉良の塩については
ほぼイメージが浮かびませんでした。
いいきっかけだと思って、勉強をしました。
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