本「イスラム教再考」① ネットが時代を変えた
今日は令和6年2月23日。
同時にいろいろな本を読み終わり、
このブログに記事を書きたいと思っていますが、
うまくいきません。
今晩から明日にかけて、この本を料理?したいです。
「イスラム教再考」(飯山陽著/扶桑社新書)
「飯山陽のいかりちゃんねる」という動画を、
昨年末にチャンネル登録をしました。
へ〜そうなんだと思うことを、教えてくれる動画です。
そうなると、この飯山陽さんの本が読みたくなります。
実行しました。
引用していきます。
イスラム教徒は私たちと「オンナジ」ではありません。「全然違う」
のです。
(3p)
「はじめに」に書かれたこの結論。
この本を読んで、この考え方になった方がいいと著者は書いています。
活動家は様々な肩書をまとって私たちの前に現れます。 彼らは政治
家だったり、大学教授、ジャーナリスト、 弁護士、起業家だったり
します。彼らは概ね「リベラル」を自称します。
日本のメディアには基本的に、現在の社会を批判し変革を求めるリ
ベラル知識人しか登場しません。 戦後の日本では、急速な近代化に
よって生じた社会的矛盾や問題をマルクス主義に基づいて批判する
反体制的左翼知識人こそが知識人だ、とされてきたからです。彼ら
はいつの間にか「リベラル」と呼ばれるようになり、現在に至りま
す。
名づけの効果というのは侮れません。「左翼」や「マルクス主義者」
と聞けば警戒する人も、「リベラル」と聞けば多くの場合よい印象
を持ちます。 「リベラル」という言葉からは、よりよい未来を作り
出してくれそうな雰囲気が醸し出されるからです。 このように現実
と背馳(はいち)する詭弁的名づけを恣意的に行うのも、メディア
の得意技です。
そもそもなぜ私たちは、リベラル知識人の意見に耳を傾けるのでし
ょうか。それはおそらく私たちが、社会を支配する様々な専門的知
識について自らの無知を自覚しているからです。あるいは自らの中
に、ものごとを判断する基準を持ち合わせていないからです。
ではもし彼らが、ウソをついていたらどうでしょう。専門的知識を
伝えるふりをして、特定のイデオロギーを刷り込むためのウソを吹
聴していたら、つまり彼らの実態が活動家だったなら、私たちは彼
らに騙され印象操作されていることになります。
少し前の時代であれば、私たちは印象操作されていると自覚するこ
とすら困難でした。 しかしインターネットの発達により、メディア
や知識人だけが情報や発信を独占する時代は終焉し、一般人であっ
ても彼らのウソや欺瞞を暴くことが可能な時代が到来しました。
今こそ私たちはリベラル知識人の意見を鵜呑みにするのをやめ、
「体制を批判し、国や社会を呪うことが果たして絶対的正義なのか
?」と問い直してみるべきです。自分を認めてくれない国、甘やか
してくれない社会に復讐心を燃やしたところで、何か一つでも良い
ことはあるのでしょうか。 私たちはそのような呪詛によって、幸
せになれるのでしょうか。
(7〜8p)
ここに書いてあることは、最近自分が感じていたことです。
毎日、NHKニュースやニュースステーションを見て、
日曜日にはサンデーモーニングを見て、
朝日新聞を読み、たまには池上彰さんの番組を見て、
世の中のことが何となくわかっているつもりでした。
でもね、政治系YouTuberなどの動画を見るようになって、
テレビや新聞が絶対ではないと思うようになってきました。
出来事に対して、どう解釈したらいいのかを、
テレビや新聞だけでなく、ネットから情報を入れるようになりました。
そうじゃないと、より正しい考え方、行動ができないように
思えるようになりました。
飯山さんが言うように、ネットが時代を変えました。
遅ればせながら、自分はこの新しい時代に乗ろうとしています。
第一にイスラム教における「平和」は、私たちが通常考える平和とは
全く異なります。一般的に平和というのは戦争のない状態を意味しま
すが、イスラム教は全世界がイスラム法によって統治された時に初め
て平和がもたらされると考えます。平和という言葉は客観的な意味を
持っており世界中どこでも共通だ、というのは幻想です。
イスラム教の啓典『コーラン』第8章33節には、「騒乱がなくなるま
で、そして宗教のすべてが神のものとなるまで戦え」と明示されてい
ます。イスラム教徒は、『コーラン』の一字一句を神の言葉そのもの
と信じます。これはイスラム教の根幹をなす教義であり、これを否定
する者はもはやイスラム教徒とはみなされません。
(29p)
イスラム教の「平和」と、普遍的だと思っている「平和」は
違うということ。
こんなことは、飯山さんが初めて教えてくれました。
この認識は、なかなか日本人は持てないと思います。
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