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2023年12月22日 (金)

本「うっちゃりはなぜ消えたのか」① 国技館の歴史

   

今日は令和5年12月22日。

  

2日間、道草はお休みでした。

ついつい他のことを優先しました。

今日は書くぞう。

できたら大台に乗りたいです。

  

本を読みました。

Img_3463

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「うっちゃりはなぜ消えたのか」(真石博之著/日本経済新聞社)

  

この本を読むきっかけは、大相撲中継で

久々に「うっちゃり」を見たことでした。

ここでも道草 久々に決まり手「うっちゃり」を見た(2023年11月20日投稿)

図書館で借りて読みました。

この本の発刊は2000年です。

読んでいて、2000年は一昔前なんだなと思います。

戦後の4大横綱として、大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花を

挙げています。

今ならもう一人、加えるべきでしょう。

白鵬です。

  

白鵬について調べました。

2001年に初土俵。

この本の発刊直後でした。

2007年7月場所から横綱。

2021年9月場所での引退。

東日本大震災(2011年)の時に横綱であり、

それからでも10年横綱を続けたのは凄いことだと思います。

   

私は大鵬もテレビで見ており、

柏戸、初代若ノ花は見ていないけど、

相撲のいい場面はずっと見てきた幸せ者だと、

この本を読んで思いました。

  

それではこの本からの引用です。

相撲一口メモ「国技館小史」

文化・文政年間(1804〜29年)の江戸の相撲は年2回の興行で、

そのうちの一回が両国回向院(えこういん)、他の一回は江戸のあち

こちの寺社の境内で開かれた。両国に近い所では深川八幡、蔵前八幡、

浅草観音、少し離れて神田明神、湯島天神、遠くは芝や麹町の寺社で

も開催された。これが天保年間(一八三〇年〜四四年)になると、二回

とも回向院で開催されることになった。回向院は浄土宗の国豊山無縁

寺で、現在の両国国技館から南に徒歩数分のところにある。

明治四十二年(一九〇九年)、回向院境内に「国技館」が完成し、それ

まで小屋掛けの「晴天興行」に限られていたものが、初めて「晴雨に

かかわらず興行」 できるようになった。近代建築の巨匠・辰野金吾氏

の設計による日本初のドーム型建築であった。時は流れ、日本が太平

洋戦争に敗れた昭和二十年(一九四五年)、国技館は日本を占領してい

たアメリカ軍によって接収され、メモリアルホールと名を改められ米

軍の娯楽施設になってしまう。このため、その後の数年間、本場所は

靖国神社、明治神宮外苑、浜町仮設国技館などでの小屋掛け興行とな

った。

隅田川をはさんだ両国の対岸・蔵前国技館が復活したのは、昭和二十

五年(一九五〇年)である。以前の国技館と区別して「蔵前国技館」と

呼ばれた。

そして、国技館が両国の地に戻ったのは昭和六十年(一九八五年)、四

十年ぶりのことであった。初代の国技館は両国駅の南側・墨田区両国

にあったが、現在の国技館は駅の北側・墨田区横網(よこあみ)にあ

る。

(19〜20p)

  

ワクワクすることが書いてあります。

相撲が行われていた回向院が気になります。

回向院HPに力塚の写真。

これは見たことがあるなあ。

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回向院HP

今年の前半、30年前の朝ドラ「ひらり」の再放送がありました。

その時に、この力塚を見たと思います。

新弟子力士が、力を授けてくださいと願っていたと思います。

その時の新弟子役は、小林稔侍さんの息子である

小林健さんでした。

この時がデビューだったそうです。

  

回向院で行われた相撲の様子を伝える絵と写真を発見。

Img_3465

JPpress. 常設館がなかった江戸勧進相撲  

Img_3466

JPpress. 2ページ目

この頃が、晴天興行だったのでしょう。

  

回向院の境内にできた国技館が気になります。

上記のサイトに写真がありました。

Img_3467

完成したのが明治42年(1909年)

その頃の写真だそうです。

辰野金吾さんの設計。

東京駅の設計者として、このブログにも何度も登場している

辰野金吾さん。ここにも登場!

この国技館で大相撲を観戦した方の文章がいい。

上記サイトから引用します。

当時の新聞には「国技館という名がついた東京の相撲常設館は、何しろ

1万3千人という多人数を入れる大建物。(中略)両国の手前まで来て見

渡すと、雲にそびえる円形の屋根。富士と筑波の中間に一つまた高根の

山ができたと思われる。(中略)4階から見下ろすと、土俵は目の下の

谷底にあって、かすみがかかっているようだ」(明治42年6月5日付の

大阪朝日新聞)と、スケールの大きさを強調したいためだったのか、か

なりオーバーに報道されている。

   

「目の下の谷底」「かすみがかかっているようだ」が楽しい。

でもそう思えたんだろうな。こんな建物はなかったのだから。

両国国技館はその後どうなったか。

戦後は米軍の娯楽施設になったが、返還後は日大講堂などとして利用さ

ていました。昭和58年(1983)に解体されました。

私が21歳の時か。

解体はニュースで報じられたことでしょう。

日大講堂になっていたので、この建物に無関心だったんだろうな。

  

そして昭和25年にできた蔵前国技館。

Img_3468

Img_3469

JPpress

蔵前国技館の名前は聞いたことがあります。

蔵前国技館での大相撲を、テレビで見ているはずです。

プロレスをテレビでよく見ていた頃は、

この蔵前国技館での戦いが多かったように思います。

  

そして3代目の国技館ができたのが、昭和60年(1985年)。

両国国技館としては2代目です。

   

  

「国技館」という名前についても、

この本に記述がありました。

それも興味深い内容でした。

次の記事で書きます。

  

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