本「うっちゃりはなぜ消えたのか」② なぜ国技に 最重量力士
今日は令和5年12月22日。
前記事に引き続き、
「うっちゃりはなぜ消えたのか」(真石博之著/日本経済新聞社)
より引用します。
相撲一口メモ 「いつから国技か」
相撲は「国技」と呼ばれる。そして、一般にも国技として通用してい
るようだ。もちろん、法律で定められているわけではない。
奈良時代から宮中の行事として「相撲節会」が行われていたなどの理
由で、ずっと古くから「国技」とされていたのかというと、そうでは
ない。
国をあげて欧米を見習おうとした明治維新の時代には、国技どころで
はなく存亡の危機に立たされた。髷姿と裸に近い格好で人前で格闘す
る相撲は、西洋的な考えからは野蛮なものとされ、当時の官僚や知識
人から「即刻、廃止すべし」の声が強くあがった。そのとき、相撲を
擁護したのが梅ケ谷を後援していた伊藤博文や友綱を後援していた板
垣退助らの相撲好きの元勲たちだった。
相撲が国技といわれだしたのは意外に新しく、明治四十二年(一九〇
九年) からのことである。雨でも相撲の興行ができる初めての常設会
場が両国に完成したのが明治四十二年六月。その名称として、板垣退
助が推した「尚武館」も有力候補だったが、作家の江見水陰が書いた
『初興行の御披露文」の中に「(略)そもそも角力は日本の国技、歴代
の朝廷之を奨励され(略)」とあるのを見た協会幹部が強く推して 「国
技館」と命名された。この「国技館」という命名が契機となって、相
撲が国技といわれるようになったのである。
国技館の開館より二七年前にあたる明治十五年に「講道館」が開館し
ている。もし、嘉納治五郎が講道館ではなく国技館と命名していれば、
柔道が日本の国技と呼ばれるようになっていたかもしれない。
ところで、国技と呼ばれるものがほかの国にあるのだろうか。国技と
はいったい何なのか、と考えてみると不思議である。
なるほど。こういう経緯があったのですね。
文章の中に「国技」が登場し、それを推したんだ。
勉強になりました。
平均体重を押し上げるハワイ出身力士
高見山にはじまって今日までの三〇年あまり、「幕内最重量力士の座」
はハワイ出身のわずか三人の力士によって独占され続けている。 高見
山 (昭和四十三~五十九年)、小錦(昭和五十九年~平成九年)、曙(平成
十年~)である。 高見山は最高時には二〇五キロになり、昭和初期の出
羽ヶ様の五四貫(二〇三キロ)の記録をほぼ半世紀ぶりに破った。 小錦
の最高時の二八四キロは空前にして恐らく絶後だろう。
平成五年、秋場所を途中休場した大関・小錦の九州場所はカド番であっ
た。五勝七敗で迎えた一三日目の相手はハワイからの後輩・曙。 一人
横綱の曙にとっても三連覇がかかった大事な一番である。 勝負はあっ
けなく曙の寄り切りの勝ちとなった。 それより五年半前、日本のこと
は何も知らず、まして相撲界の習慣やしきたりなど知ろうはずもない新
弟子の曙に、何かと助言を与えて面倒をみたのが小錦だった。その小錦
を大関から引きずりおろす引導を渡す役割が曙に回ってこようとは、勝
負の世界の非情さであった。そのとき、小錦は二六四キロ、曙は二二四
キロ、合わせて四八八キロであった。
次の記事でうっちゃりについて書きますが、
うっちゃりが減ったのは、力士の大型化が影響しています。
重たい力士が増えたのは、ハワイ出身の力士が元を作ったでしょう。
高見山、小錦、曙は確かにデカかったです。
20年前の本によると、小錦の284kgが「空前にして
おそらく絶後と言っています。
絶後とあるけど、本当か?
調べました。
上には上がいます。
大露羅(おおろら)関です。
ロシア出身の力士で、引退されています。
現在40歳。
Wikipediaによると、現在は100キログラムほど
減量しているそうです。
YouTube: 史上最重量292kg!重すぎて土俵に上がれない大露羅 / 大露羅-斗城丸/2018.9.10/Orora-Tokimaru/day2
土俵に手をついて上がる大露羅。
太りすぎですよ。
YouTube: 会場騒然!292kgの巨体力士が小兵力士を押し潰す! 伊勢ノ花-大露羅
大露羅が空前絶後になるのでは。
コメント