「おれは一万石 贋作の謀」/政権の傍らに居続けた狩野派
今日は令和4年4月3日。
この本を読みました。
「おれは一万石 贋作の謀」(千野隆司著/双葉文庫)
今回は江戸時代の絵師について勉強ができました。
水戸徳川家傍流の三千石の旗本、坪内右近から正国に祝儀祝いの軸物
が届いた。木挽(こびき)町狩野家の加藤文麗の達磨の絵だった。
(中略)とはいえ加藤文麗は、今は故人になっているが、木挽町狩野
家では名を知られた絵師といってよかった。直参の旗本でありながら、
絵筆を握った人物である。後に名をなす谷文晁の師匠としても知られ
た。
(24p)
「谷文晁(たにぶんちょう)」の名に覚えがありました。
加藤文麗も実存した人物。※参考Wikipedia 加藤文麗
谷文晁も調べてみました。※Wikipedia 谷文晁
なぜ、この人の名を覚えていたのだろうか、
Wikipediaの文章を読んで考えてみました。
引用します。
文晁は自他共に認める旅好きで、30歳になるまで日本全国をさかん
に旅し、行ったことのない国は4、5か国に過ぎなかったという。
旅の途次に各地の山を写生し、名著『日本名山図会』として刊行し
た。文化9年(1812年)に著した『日本名山図会』は、日本の代表
的山岳89座の風景を90葉の画で表したものであり、当時広く親しま
れ、後世の山の見方に影響を与えたという。山岳の中では最も富士
山を好み、富士峰図・芙蓉図などの名品を多数遺している。
山関係で知ったのだろうか。次の逸話も面白いです。
文晁は鷹揚な性格であり、弟子などに求められると自分の作品でな
くとも落款を認めた。また画塾・写山楼では講義中、本物の文晁印
を誰もが利用できる状況にあり、自作を文晁の作品だと偽って売り、
糊口をしのぐ弟子が相当数いた。購入した者から苦情を受けても「
自分の落款があるのだから本物でしょう」と、意に介さなかったと
いう。これらのことから、おびただしい数の偽物が当時から市中に
出回っていたと推察できる。したがって、鑑定に当たっては落款・
印章の真偽だけでは充分ではなく、テレビ番組の『開運!なんでも
鑑定団』では本物が出にくい鑑定品のひとつとして知られている。
テレビ番組で知ったのかな。
「おれは一万石」シリーズで登場する松平定信には
気に入られた模様。
またシリーズに登場するかもしれません。
狩野派についての記述は「贋作の謀」ではさらに続きます。
狩野派は、始祖正信が、足利将軍家の御用絵師になって以来、桃山、
江戸期を通して常に時の政権につき、幕府の御用絵師の地位を守っ
てきた。政権が徳川家のものになったときには、京狩野の一派と袂
(たもと)を分かって、貞信、探幽、尚信といった絵師たちが江戸
に出てきて、江戸狩野派を樹立した。
貞信の養子安信が中橋狩野家を立て、これが宗家となる。探幽が鍜
治橋狩野家、尚信が木挽町狩野家、そして尚信の孫岑信(みねのぶ)
が分家して浜町(はまちょう)狩野家を起こした。この四家だけが
将軍に御目見えができる奥絵師四家となった。将軍家から与えられ
た屋敷の場所が、家名の上に冠されている。
江戸城だけでなく別邸、増上寺や寛永寺などゆかりのある寺などの
襖(ふすま)絵や掛軸、屏風絵などを手掛けた。そして配下に表絵
師の十五家を擁し、各藩に御用絵師を派遣した。将軍家の庇護を得
て、江戸画壇の中心勢力となった。
(24~25p)
足利将軍から江戸時代まで政権の傍らに居続けた狩野派。
すごいことですよ。
「おれは一万石」シリーズは、こうやって江戸時代の勉強ができます。
テレビの時代劇を見るように気楽に読むことができ、
勉強になるシリーズです。
いつの間にか第9弾。10冊目となります。
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