「線量計と奥の細道」④ だれも手を抜いて生きているわけではない
今日は令和3年12月5日。
前々日の投稿の続きで、
「線量計と奥の細道」(ドリアン助川著/集英社文庫)より
引用していきます。
プラムさん曰く、「あぐりいとがわ」が挑む新しい農業には、ふた
つのキーワードがあるのだという。ひとつは限界集落。もうひとつ
は耕作放棄地だ。
糸魚川に限った話ではなく、今、過疎と高齢化は日本中の山里が直
面している問題だ。農地はあってもそこを耕す人はいなくなり、か
つての豊穣の里は茫々たる荒れ地になりつつある。プラムさんたち
はここにもう一度鍬を入れ、同時に人も集める。定年退職などで人
生の節目を迎えた人々と肩を組むのだ。ほんとうは価値がある土地。
ほんとうは労働欲も能力も有り余っているみなさん。このふたつが
結びつくことにより、終わってしまったかのように見えていた地域
と人が再び実りの季節を迎えるのだ。
(284~285p)
退職を4カ月に控えて、それからの生き方を考えるときです。
ハーフで働くことを希望していますが、
残り半分の時間をどう活かすかが重要になってきます。
体が動くのは65歳までと聞きます。
今の自分の関心事です。
どこかで自分の能力が活きる場所がないだろうか。
車は国道からすでに離れており、あるいは運河の橋を一つ渡る度に、
昭和の頃からさほど風景が変わっていないであろう集落が次々と現
れる。自転車に乗ったおじいさん。路地から現れる子供たち。なに
やら話し込んでいる奥様たち。一人黙々と歩く男子高校生。一瞬す
れ違うだけでおそらく二度と会うことはない人たちの生活がここに
ある。そこにある。どこにでもある。だれも手を抜いて生きている
わけではなく、それぞれがそれぞれの町で人生と向かい合っている
のだ。そんなことを思いながら富山の海沿いの暮らしというものを
眺めていたら、新湊の富山新港に出た。
(295p)
自分も知らない街に出かけた時には、太字で書いたようなことを
思います。
日々の生活に手を抜かずに真面目に取り組んでいる人たちがいるのです。
自分もこの場所で手を抜かず頑張っていきたい。
やがて垂井のいう町に入った。小京都と呼んでもいいような古い街
並が続く。訪れてみなければわからないものだなとつくづく思う。
新幹線の車窓からなら瞬時に過ぎてしまう風景のなかに、こんなに
も趣がある町があったのだ。私が歴史に疎いだけなのかもしれない
が、駅前の案内図を見て、ここに美濃の国府があったことを知る。
日本史の教科書をあらためて読み直し、このあたりをもう一度来て
みたい場所だ。
(353~354p)
こんな体験をする旅をしてみたいですね。
それには自転車の旅ですね。
昨日まで自転車通勤が4日連続。
その日まで、トレーニングは進んでいます。
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