「マゼランが来た」② フエゴ島のセルクナム人
今日は令和3年8月18日。
前記事に引き続き、
「マゼランが来た」(本多勝一著/谷川明生写真/朝日新聞社)
より引用します。
第四章の「『火の島』の住人たち/マゼラン海峡・フエゴ島」から
引用していきたいです。
サンフリアンで越冬したマゼラン艦隊四隻は、1520年8月24
日に出航してさらに南下し、ついにこの(マゼラン)海峡に到達す
る。しかしそこには、すでに最初の海峡発見者、真の発見者たるこ
れら先住民がいた。マゼラン隊の生き残りからスペイン宮廷秘書M
=トランシルバーノが聞き書きした記録には次のように伝えられて
いる。
「ある夜、海峡の左側の陸地に、おびただしい数の火が見えた。こ
のことから船隊の一行は、自分たちがこの地方の住民に見つけられ
て住民たちが互いに合図の烽火(のろし)をあげているのだろうと
推測した」
この「おびただしい数の火」から〈フエゴ(火)の国〉と呼ばれる
ようになるのだが、これは烽火などではなく、寒い地方に生きる住
民の火であった。
(95~97p)
マゼラン海峡の名前がそうであるように、
南米の地名が先住民がつけたものが残らず、
ヨーロッパ人がつけたものが残ってしまう。
この「フエゴ島」もその例。
本多さんも、マゼラン海峡と記述せずに、
「この海峡」と書いています。
世界史に大きく名をとどろかせることになるこの海峡も、これら先
住民族にとってはそれほど大きな意味をもつものではなかった。実
はマゼラン自身もまた、この海峡の意味を過大評価していた。当時
つくられた地図が説明しているように、この海峡より南にはさらに
南極へと大陸がつづいていると考えられ、したがってここだけが太
平洋(東洋)への抜け道と思いこまれていたのだ。ところがフエゴ
島などの島々をはさんですぐ南に大きなドレーク海峡があること、
アメリカ大陸はマゼラン海峡などなくてもどうせ終わりになること
は、この58年後(1578年)のドレークによる探検まで西欧世
界は知らなかった。しかし先住民族にとっては、ドレーク海峡をの
ぞむヲラストン諸島のホーン岬まで完全な生活圏内であった。
(97~110p)
先住民はとっくに知っていることを、
ヨーロッパ人は探検によって大騒ぎして知ったということです。
フエゴ島に住んでいた先住民は自称セルクナム人でした。
そのセルクナム人たちがどうなったのか。
マゼラン海峡北岸にあってパタゴニア最大の町、ブンタアレナス市
(チリ)にある博物館で知ることになります。
博物館の展示場の中に「先住民狩り」の最中の写真が
かざられていました。
4人のヨーロッパ人が銃をかまえて前方をねらう足もとに、すでに
射殺されたセルクナムのたくましい男性が弓を片手に裸でころがる
写真。説明には反省に類するものが一切ない。1886年にとられ
たこの古い写真は、その後ウスアイアの焼き肉店やサンチアゴの博
物館 でも見たし、いくつかの文献にも出てくる。
死体のそばに立つ男は、J=ポッペルという有名な山師であった。
1880年代はフエゴ島に金が発見されて、一旗組が(ひとはたぐ
み)がヨーロッパや南米のあちこちから集まった時代である。ルー
マニア人のポッペルもその一人として現れ、アルゼンチン政府から
砂金採取権をとると、逃亡者や犯罪者を含む50人に軍事教練をほ
どこして武装させた上、セルクナムの国に侵入した。やがて洗金工
場が建てられ、軍隊は200人以上にもなって虐殺をつづけ、独自
の金貨さえ鋳造するほどの勢力になった。
このほか金にむらがってフエゴにきた有象無象の一旗組もセルクナ
ム虐殺に関与し、その女性たちを強姦の目的で”生けどり”にした。
先住民の祖国フエゴは、殺人も凌辱も勝手放題の完全な無法地帯と
化した。
(116p)
その写真は「マゼランが来た」には掲載されていて、
ショッキングな写真です。
まだフエゴ島でのセルクナム人の辛い状況は続きますが、
引用はここまでにします。
章の最後の方で、本多さんはこう書いています。
南米で先住民の側に立って銃をとった白人も九牛(きゅうぎゅう)の
一毛(いちもう)ぐらいはいるのだが・・・・。
(126p)
「九牛の一毛」とは?
調べると、多くの牛のうちの1本の毛のことであって、
取るに足らない数の意味らしい。
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