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2021年8月

2021年8月21日 (土)

「天空の星たちへ」② 復刻版に「疑惑のはじまり」が加わる

    

今日は令和3年8月21日。

   

前記事に引き続き、

「天空の星たちへ」(青山透子著/マガジンランド)

より引用していきます。

  

 

なんと、垂直尾翼が欠けたまま操縦していたとは?

一体どうしてだろう。あの部分にはスパーと呼ばれる三本の桁が入

って補強され、機体の中では最も頑丈な部分である。内部から与圧

をかけていないため、金属疲労が生じる確率も低い。

(140~141p)

   

青山透子さんは、事故直後の新聞を読んで、

次々に疑問を持ちます。

  

運輸大臣や総理大臣が「原因究明」を言わなかったこととか、

ボーイング社の動きが早いとか。

そして垂直尾翼についてもです。

相模湾で、垂直尾翼を発見して引き揚げた船についても

次のように書いている。

  

新聞各紙によると、海上自衛隊の護衛艦『まつゆき』が試運転中に

引き上げた垂直尾翼の一部には、両端にもぎ取られたような跡と、

何かがぶつかったような大きな穴があいていると記されている。

一体どうしてこんなことが起きたのか。この護衛艦『まつゆき』が

この相模湾で試運転中に、たまたまタイミングよくこの落下物を拾

ったのだろうか。

(142p)

  

垂直尾翼の損傷具合に疑問に思い、

それを発見した護衛艦にも疑問に思っています。

他にもいろいろな点を青山さんは疑問に思います。

  

2018年に、この本が文庫本になって復刻したことを知りました。

本のタイトルは「日航123便墜落 疑惑のはじまり:天空の星たちへ」

でした。「疑惑のはじまり」というのはピッタリだなと思いました。

隔壁破壊説についても次のように書いています。

  

さらに隔壁破壊が墜落の原因だとすると、客室内を爆風が吹きぬける

ことが前提条件となる。

そうなると爆風によって生存者たちの体にはどんな症状が出ていたの

だろうか。

爆風が吹くほどの急激な減圧となると、耳は聞こえなくなり、航空性

中耳炎となる。さらに肺から一気に吸い出されることにより、肺出血

もありうる。そのような症状が(生き残った)4名にあったのだろう

か。医師のコメントでは4名に見られる症状として、骨折しか見当た

らないが、落合さんやほかの生存者もインタビューに答えていること

から、鼓膜は破れていない。助かった4名は皆最後部の席であり、ち

ょうどトイレの向こうにある隔壁に一番近い席である。このトイレの

前の席で、さらに最強の垂直尾翼をぶっ飛ばすほどの爆風を体験した

4名が生き残っているという事実・・・。

この説は本当なのだろうか。どうも客観的事実と食い違っている。

(155p)

   

36年間、疑問に思わなかったことを、

私も疑問に思うようになりました。

なんで今まで疑問に思わなかったのだろう。

  

  

ここでも道草 1985年8月12日、たくさんの流れ星が流れた(2010年8月12日投稿)

☝ この記事で書いた対馬祐三子さんの手帳に書かれた全文も

掲載されていました。

  

次が全文である。

「おちついて下さい ベルトをはずし 身のまわりを用意してください

 荷物は持たない

 指示に従って下さい (中略)

 ハイヒール 荷物は持たないで

 前の人2列 ジャンプして Jump and sit

   機体から離れてください Go to a safe area

   ハイヒールを脱いでください

 荷物・物は持たないで下さい 

 年寄りや体の不自由な人に手を貸して・・・

 Release Your seat belt Remove high(heel)

   Don't take baggage follow our instruction

   火災 姿勢を低くしてタオルで口と鼻を覆って下さい

 前の人に続いてあっちへ移動して下さい・・・

 Low position with a wet towel covering nose and mouth」

エマージェンシー訓練そのものである。陸上で不時着した場合、火

災を想定しての緊急脱出である。(中略)

スライドという膨らました緊急脱出用滑り台は、とがったものやハ

イヒールなどで傷がつくと使い物にならなくなる。そこでハイヒー

ルや荷物を持たないで、一気に滑り降りてもらうためのインフォメ

ーションだ。全員が脱出する時間は90秒以内が原則、指示がもた

ついては意味がない。前山さんは不時着したらすぐに乗客を誘導で

きるように、と考えて揺れる機内で必死にメモを書いたのだ!それ

を日本語だけでなく、英語も・・・。

信じられないほどの責任感・・・。驚くほどの冷静さ・・・。

ふんわりした雰囲気を醸し出す彼女から、想像もつかないほどの強

さを感じる。

(171~173p) 

   

この本では仮名を使っています。

対馬さんが不時着を信じて、これだけのメモを書いて、

準備をしていたんだなと思いました。

  

  

つづく  今晩はここまで

 

「天空の星たちへ」① 青山透子さんが追及している理由

    

今日は令和3年8月21日。

    

ワクチン接種による副反応の発熱・眩暈は、

今朝になったら治っていました。

今日も父親を病院に連れて行く予定だったので、

今度は無事ミッションを終えることができました。

  

発熱・眩暈でも読んでいたこの本を読み終えました。

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「天空の星たちへ」(青山透子著/マガジンランド)

   

上記amazonの本紹介を引用します。

  

1985年8月12日に起きた日航ジャンボ機墜落事故。乗員乗客524名、

死者520名、生存者4名。単独航空機事故としては世界最大規模の

事故となった。

元日本航空スチュワーデスが描く、日航ジャンボ機墜落事故の記憶。

事故機には同じグループでフライトをしていた先輩方が乗務していた

・・・・・・。

操縦不能になった機内。「墜落」という逃れられない現実、

突然目の前に「死」という恐怖が迫る。飛行機に異常が発生して、

酸素マスクが落下し、大きく揺れ動く機内。恐怖にさらされた中で、

最後の最後まで冷静に働いたスチュワーデスたち。

乗客に不安を与えず、冷静にエマージェンシー対応を行った。

「死」を覚悟して遺書を残した乗客がいたことも知られているが、

最後まで望みを捨てず、

「不時着」に備えてメモを残したスチュワーデスがいた。

飛行機を立て直すコックピットの懸命な努力。

極限状態の中で懸命にプロの仕事をまっとうした乗務員の姿がそこにあった。

なぜ墜落事故が起きたのか、なぜ墜落現場の特定が遅れたのか・・・・・・

25年経っても消えない疑問。当時の新聞から見えてくる新たな疑問。

矛盾する事故原因。

上野村元村長、地元消防団員、歯科医師ら、当時を知る関係者への

取材を含めた長編ノンフィクション!

  

 

この本からの引用です。

   

あの事故から25年が経ち、今こそ歪みのない心で正面から見つめ

直すべき時期にきているのではないか。

航空機事故調査報告書に記された事故原因の欄には、たった8行の

中に『推定される』という言葉が三度も出てくる。つまり、いまだ

に真なる事故原因は不明のままなのだ。

元日本航空の社員として思う加害者側の気持ちと、乗客と運命を共

にした客室乗務員たちの被害者側の気持ちが入り混じる。

自分の果たすべき役割は何だろうかと心の奥で問いかける。

今出来ることは、空港の現場で走り回る教え子たちや世界の空を飛

び回る彼女たちに、あの時の客室乗務員たちを知る人間として、当

時の状況を、そして真実を伝えることではないか。

(18p)

   

この本が出版されたのは2010年のことです。

青山さんは、「今出来ること」をこの本でも、

そしてそれ以後出版された本でも実行しているのだと思います。

   

  

前山さんから教えられた一番の機内サービスとは、

「日本航空のお茶が美味しくなければ話にならないでしょ。味が良

く出るように、心を込めてしっかり入れてね」である。

その意味は、茶道で求められるような一期一会の心遣いだったかも

しれない。

(72p)

  

青山さんが先輩から教えてもらったことです。

なるほどと思いました。

  

  

すべてが運命だ、というだけでは片付けられない。

520人もの命を奪ってしまったその事実は、私たちに何を投げか

けているのか。

ただひとつ言えることは、乗客や乗員を知る残された者たち、そし

て事故に関わった者たちもあの瞬間、大きな宿命を背負った、とい

うことである。

そして私の果たすべき宿命とは何かーーー。

突然起きた事故の原因も分からずに、必死に仕事をしながら亡くな

っていった先輩たちを想う時、もしそれが私であったなら、一番知

りたいことは何か。

あの時、一体何が起きたのか、なぜ死ななければならなかったのか

ということだ。

今、私に出来ることはこのことを調べて先輩たちへ伝えることでは

ないか。

そして、この事故とかかわった者たちにとって、それが残された人

生への重い課題かもしれない。

(126~127p)

   

青山さんが思いをあらたにした文章です。

なぜ事故原因について追及をしているのかが、

この本を読んでわかりました。

  

ここも読んでみました。

青山透子公式サイト日航123便墜落の真相

 

    

つづく

2021年8月20日 (金)

副反応で発熱。でも読書三昧でした。

     

今日は令和3年8月20日。

    

今日は発熱しました。

昨日の昼にワクチン注射(モデルナ社)をしました。

朝から出勤。

同僚の先生が次々に発熱したと聞いて、

自分も発熱するかなと検温を繰り返していました。

  

午後からは年休で自宅。

異変は午後3時過ぎ。眩暈を感じました。

検温したら、なんと38度。

来た~。

副反応。

    

父親を病院に連れて行く予定だったけど、キャンセル。

薬を飲んで早く寝ようと思ったけど、読書三昧をしてしまいました。

現在読んでいる青山透子さんの「天空の星たちへ」は

一気に読みたいと思った本でした。

449pの本ですが、322pまで読んでしまいました。

1985年8月12日の日航機墜落の真実について

知りたいと思うようになりました。

明日には読むことができます、きっと。

    

2021年8月19日 (木)

今日は予想外のことが3つありました/通算7777本目の記事です

    

今日は令和3年8月19日。

     

今朝は予想外のことが2つ起こりました。

部活動の主顧問の若手の先生が、

ワクチン接種のため高熱が出てしまい休むという連絡がありました。

これが1つ。

それじゃあ、今日は部活動頑張らねば(いつも以上に?)と思って

出勤しようと思いました。

  

その時に気づきました。

自分の車であるフォレスターのタイヤがパンクしている!?

助手席の後ろのタイヤがペッチャンコになっていました。

これが予想外の2つ目。

その時はどうしようもなく、もう1台の車で出勤しました。

(おかげで、娘は徒歩出勤)

   

帰宅後、パンク修理のために動きました。

まずはJAFのロードサービスに連絡しました。

JAFは20分ぐらいでやってきてくれました。

JAFのお兄さんは、パンクしたタイヤを見て、

「JAFはパンクの応急処理しかできない。

完全に直すにはタイヤ専門店に行った方がいい」と

アドバイスをしてくれました。

そりゃあ、完全に直してもらった方が安全・安心なので、

アドバイス通りにすることにしました。

JAFのお兄さんは、パンクしたタイヤとスペアタイヤを

交換してくれました。

パンクしたタイヤには、見事にネジが食い込んでいました。

「前輪がはじいたネジが後輪に刺さったと思いますよ」と

教えてくれました。

作業終了。

JAFのカードを見せたら、

「長くJAFに加盟していただきありがとうございます」と

お礼を言われました。

カードの色で加盟している期間が分かるそうで、

私は20年~30年だそうです。

助けてもらったのは、これが3度目かな。

どれも思い出深い救出劇でした。

  

 

パンクはイエローハットでしっかり直してもらいました。

かかった費用はパンク修理代の2200円のみ。

これで明日はフォレスターで出勤できます。

   

  

2回あることは3回あるというじゃありませんか。

予想外の3回目のことを心配していました。

何も起こらないのかなと思ったら、

先ほど3つ目がありました。

  

学校に筆箱を忘れてきてしまったことに気がつきました。

これは予想外。

たくさんの様々なペンが入っている筆箱です。

日記が書けない。

私には痛手です。

  

   

 

この記事が通算7777本目の記事です。

今日は過去記事を2時間ほど読みふけりました。

自画自賛ですが、おもしろかったです。

  

2021年8月18日 (水)

番画〈370〉〈373〉:まるで「逃走中」 「A LONG VACATION」 ウルトラQ 戦争がきっかけで生まれた物

     

今日は令和3年8月18日。

   

番画です。

   

〈370〉フィッシャーズ

【第2回】1時間ドローン鬼ごっこを本気でやったら鬼に勝てるのか!?
YouTube: 【第2回】1時間ドローン鬼ごっこを本気でやったら鬼に勝てるのか!?

 

〇すごいなあ、フィッシャーズ。

 大きな公園を貸切って、まるで番組「逃走中」のような番画を

 作ってしまう。

 スタッフもお金も必要です。

 やれちゃうんだ。

  

  

〈371〉新美の巨人たち 永井博「A LONG VACATION」

  (2021年6月19日放映)

  

〇忘れられないアルバムのジャケットの絵を描いた人でした。

〇絵が先にあって、その絵に合わせた曲ができたのですね。

 作詞が松本隆。作曲・歌は大瀧詠一。


YouTube: 大滝詠一 カナリア諸島にて

〇デザイナーも作詞家も作曲家もだれもカナリア諸島に

 行っていないのにできた曲。

 

   

〈372〉ウルトラQ 21 宇宙指令M774

  (2021年8月16日放映)

  

〇あっけなく終わってしまった。

 怪獣の卵は息する卵みたいでよかったが、

 誕生した怪物がちょっとしょぼかった。

  

   

〈373〉池上彰のニュースそうだったのか!?

  実は知らない戦争2時間SP(2021年8月14日放映)

  

〇戦争がきっかけで生まれた物。

〇サランラップ 銃や弾丸を湿気から守るため

 戦後その使い道に困っていたら、食品を包む使い道が判明。

 サランラップの名前の由来。製造者2人の妻サラとアンから。

〇このエピソードはかつて記事にしたことがある。

 ※ここでも道草 日めくりより サランラップの由来にビックリ!(2019年3月9日投稿)

 ☝ けっこう詳しく調べています。

〇戦争がきっかけで生まれた物。

〇インスタントコーヒー 

 戦争中にフリーズドライ製法が開発された。

 大量の血液を病院に運ぶために、血液の成分を凍らせて、

 真空状態で乾燥させた。輸血に使われた。

 フリーズドライ製法で作られたインスタントコーヒーが兵士に配られた。

〇ナポレオンが要望して戦場でも食べられるものとしてできたのが

 瓶詰。それが後に缶詰になる。

〇レトルト食品も戦争のためにできた。

  

〇戦争がきっかけで生まれた物。

〇カーディガン

 ケガをした兵士が脱ぎやすくするため。

 19世紀にカーディガン伯爵によって作られた。

〇セーラー服 水兵の服装だった。

 襟が大きい理由 髪の毛を洗う機会が少なく長髪が多いので、

         服を汚さないため。

         襟を立てて音を聴きやすくするため。

〇Tシャツ 下着としてアメリカ軍が開発した。

〇トレンチコート 防寒着としてイギリス軍が開発した。

  肩に特徴的な部分がある。階級章をつけた名残りとも言われる。

〇ダッフルコート 大きな留め具は手袋のまま着脱しやすいため。

  漁師の防寒具をイギリス軍が導入。

 

〇戦争がきっかけで生まれた物

〇ランドセル オランダ軍のカバンをヒントにつくった。

  

〇戦争がきっかけで生まれた物

〇自動車 戦場で大砲を運ぶために作られた。

     フランス軍の命令で作られた。

     1769年 蒸気で走る三輪車。

   

番組はまだまだ続くけど、

今晩書き留めるのはここまでにしよう。

「マゼランが来た」② フエゴ島のセルクナム人

   

今日は令和3年8月18日。

  

前記事に引き続き、

「マゼランが来た」(本多勝一著/谷川明生写真/朝日新聞社)

より引用します。

  

第四章の「『火の島』の住人たち/マゼラン海峡・フエゴ島」から

引用していきたいです。

  

サンフリアンで越冬したマゼラン艦隊四隻は、1520年8月24

日に出航してさらに南下し、ついにこの(マゼラン)海峡に到達す

る。しかしそこには、すでに最初の海峡発見者、真の発見者たるこ

れら先住民がいた。マゼラン隊の生き残りからスペイン宮廷秘書M

=トランシルバーノが聞き書きした記録には次のように伝えられて

いる。

「ある夜、海峡の左側の陸地に、おびただしい数の火が見えた。こ

のことから船隊の一行は、自分たちがこの地方の住民に見つけられ

て住民たちが互いに合図の烽火(のろし)をあげているのだろうと

推測した」

この「おびただしい数の火」から〈フエゴ(火)の国〉と呼ばれる

ようになるのだが、これは烽火などではなく、寒い地方に生きる住

民の火であった。

(95~97p)

  

マゼラン海峡の名前がそうであるように、

南米の地名が先住民がつけたものが残らず、

ヨーロッパ人がつけたものが残ってしまう。

この「フエゴ島」もその例。

本多さんも、マゼラン海峡と記述せずに、

「この海峡」と書いています。

  

  

世界史に大きく名をとどろかせることになるこの海峡も、これら先

住民族にとってはそれほど大きな意味をもつものではなかった。実

はマゼラン自身もまた、この海峡の意味を過大評価していた。当時

つくられた地図が説明しているように、この海峡より南にはさらに

南極へと大陸がつづいていると考えられ、したがってここだけが太

平洋(東洋)への抜け道と思いこまれていたのだ。ところがフエゴ

島などの島々をはさんですぐ南に大きなドレーク海峡があること、

アメリカ大陸はマゼラン海峡などなくてもどうせ終わりになること

は、この58年後(1578年)のドレークによる探検まで西欧世

界は知らなかった。しかし先住民族にとっては、ドレーク海峡をの

ぞむヲラストン諸島のホーン岬まで完全な生活圏内であった。

(97~110p)

   

先住民はとっくに知っていることを、

ヨーロッパ人は探検によって大騒ぎして知ったということです。

  

  

フエゴ島に住んでいた先住民は自称セルクナム人でした。

そのセルクナム人たちがどうなったのか。

マゼラン海峡北岸にあってパタゴニア最大の町、ブンタアレナス市

(チリ)にある博物館で知ることになります。

  

博物館の展示場の中に「先住民狩り」の最中の写真が

かざられていました。

4人のヨーロッパ人が銃をかまえて前方をねらう足もとに、すでに

射殺されたセルクナムのたくましい男性が弓を片手に裸でころがる

写真。説明には反省に類するものが一切ない。1886年にとられ

たこの古い写真は、その後ウスアイアの焼き肉店やサンチアゴの博

物館 でも見たし、いくつかの文献にも出てくる。

死体のそばに立つ男は、J=ポッペルという有名な山師であった。

1880年代はフエゴ島に金が発見されて、一旗組が(ひとはたぐ

み)がヨーロッパや南米のあちこちから集まった時代である。ルー

マニア人のポッペルもその一人として現れ、アルゼンチン政府から

砂金採取権をとると、逃亡者や犯罪者を含む50人に軍事教練をほ

どこして武装させた上、セルクナムの国に侵入した。やがて洗金工

場が建てられ、軍隊は200人以上にもなって虐殺をつづけ、独自

の金貨さえ鋳造するほどの勢力になった。

このほか金にむらがってフエゴにきた有象無象の一旗組もセルクナ

ム虐殺に関与し、その女性たちを強姦の目的で”生けどり”にした。

先住民の祖国フエゴは、殺人も凌辱も勝手放題の完全な無法地帯と

化した。

(116p)

   

その写真は「マゼランが来た」には掲載されていて、

ショッキングな写真です。
  

まだフエゴ島でのセルクナム人の辛い状況は続きますが、

引用はここまでにします。

  

章の最後の方で、本多さんはこう書いています。

  

南米で先住民の側に立って銃をとった白人も九牛(きゅうぎゅう)の

一毛(いちもう)ぐらいはいるのだが・・・・。

(126p)

  

「九牛の一毛」とは?

調べると、多くの牛のうちの1本の毛のことであって、

取るに足らない数の意味らしい。

「マゼランが来た」① ルポルタージュ やってみたかったこと

   

今日は令和3年8月18日。

   

この本を読みました。

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「マゼランが来た」(本多勝一著/谷川明生写真/朝日新聞社)

  

この本が出版されたのは1989年です。

32年間、ずっと家にあった本です。

買った時に読んだようで、文章の横に赤線が時々引いてありました。

でもあまり内容を覚えていません。

ちょうど、最近マゼランについて、マイブームになっていたので、

あらためて読むことにしました。

   

マゼランやコロンブスによって、ヨーロッパ人が

北米大陸や南米大陸、あるいは太平洋上の島々に出向くようになりました。

そこには、どこであっても先住民が住んでいました。

後から来たヨーロッパ人が、先住民に対してどんなことをしたかを

追求したし、ルポルタージュしたのがこの本です。

   

現地に実際に行って、現地の人たちの話を聞いて、

それをもとに報告する。これがルポルタージュです。

本多勝一(かついち)さんのそのやり方がいいなと思って、

若い頃は本多さんの本を何冊も読みました。

「北海道探検記」を読んで、本多さんが行った場所や人に会おうと、

就職前に北海道徒歩旅行もしました。

  

今回、すごく久しぶりに本多さんの本を読んで、

ルポルタージュは自分がやってみたかったことだなと

思い出したような気分です。

  

 

ヨーロッパ人が先住民に何をしたか。

本多さんは、最後の章で次のように書いています。

  

マゼランが寄港したすべての現地を調査し、以上六章にわたって報

告した。取材に出る前に、その地の先住民についての暗い運命は、

あるていど予測していたことではある。だが、事実は予想をはるか

に超えていた。「新大陸」全土に生きついでいた何千万ともしれぬ

先住民や、マリアナ諸島の何万もの先住民の目で見るとき、ヨーロ

ッパ人という「大野蛮人}(先住民パスカルさん言)は、民族滅亡

を招く「悪魔」(その祖母言)以外の何ものでもなかった。虐殺さ

れた何千万ともしれぬ魂にとっては、白人たちの「偉大な」芸術も

科学も宗教も国家も、一切が事実として無意味(ナンセンス)だっ

たし、今も無意味であろう。それはコロンブス以来500年途切れ

ることなく続き、今なおアマゾン川やパラグアイ川の奥地で進行中

なのだから。

(287p)

    

先住民には迫害が行われてきて、

現在(1989年)も続いているというのです。

   

  

その一例をこのブログに書き残しておきたいです。

  

つづく  

2021年8月17日 (火)

今年の「秋味」初日 日めくりより/一切見えないバーコード

    

今日は令和3年8月17日。

   

「秋味」の発売日。

迷ったけど、箱で買わずに、

コンビニで冷えた「秋味」を6本買ってきました。

そのうちの1本を、冷凍庫で特に冷やして、夕飯で飲みました。

やっぱりうまい「秋味」です。

しばらくは贅沢な「秋味」期間です。

  

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。

   

   

郵便物には目に見えないバーコードがある?

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以前聞いたことがあるぞと思ったのは、この日めくりを見た覚えでしょうか。

ほとんどの郵便物には、見えないバーコードが印刷されているのは、

興味があります。

すこしネットで調べました。

発送の達人 見えないバーコード

☝ ここを読むと、

一切見えません。人間の目では見えないバーコードなのです。

と書いてありました。

郵便物を綺麗に届ける工夫なのです。

いいですね。

  

ところで上記「発送の達人」で使われていた写真が気になりました。

転載します。

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この写真、不思議ですよ。

どうやって説明したらいいかな。

とにかくカーソルを動かして、

この写真を画面上で上下に動かしてみてください。

目の錯覚が起こるんです。

写真の底辺と、ポストの底辺がつくる角度は同じはずなのに、

違ってみえるのです。

まあとにかくやってみてください。

   

私だけの目の錯覚かもしれませんが。

2021年8月16日 (月)

待合室で「はざまのコドモ」を読みました

    

今日は令和3年8月16日。

   

月曜日。心療内科は今日は待ち人が多く、

順番待ちの間に、この本を読むことができました。

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「はざまのコドモ」(沖田×華漫画/君影草原作/ぶんか社)

  

この本のサブタイトルは「息子は知的ボーダーで発達障害児」です。

検査のIQが高すぎて、療育手帳がもらえない息子を育てた

君さんの体験が原作。

息子ヨシ君が生まれたのは1996年9月11日。

現在24歳。

小中学生の時に、どれほど発達障害に対する理解があったかどうか。

君さんの子育ては非常に辛いものでした。

学校の対応はひどいものでした。

これは実話ですよね。

転校を親に対しても、子ども本人に対しても脅すシーンは、

信じられないものでした。

  

それでも知的ボーダーの問題は、今もあります。

療育手帳がなければ、特別支援学校に入ることはできません。

それ以後の進路にも影響があります。

そこで悩んでいる保護者がいる、教師がいることを知るのに、

この本はいいかなと思います。

  

この本では中学生までを描いていますが、

ヨシ君が、支援学校の高等部に入学するまでの話は、

ネットで読むことができます。

1

https://www.pixiv.net/artworks/25147170

 

読んでみて、晴れて入学できてよかったと思います。

私もつい昨年度末に体験しました。

日めくりより/戦没者の死因の6割は? 番画〈369〉:クロールを広めた男

    

今日は令和3年8月16日。

   

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。

   

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昨日は終戦記念日。

この日めくりは昨日のもの。

終戦記念日に大事なことを勉強できました。

餓死が多かったという認識はありましたが、

6割とは驚きです。

  

この日めくりの内容と関連する動画を見ました。

短いけど内容は重たいので番画扱いです。

〈369〉

“日本にクロール広めた男”五輪出場・・・戦死 大学生がたどる軌跡
YouTube: “日本にクロール広めた男”五輪出場・・・戦死 大学生がたどる軌跡

 

聞き書きした文章が番画の下にあったので、

転載します。

     

およそ100年前のオリンピックの水泳に日本人として初めて出場し、
 
クロールを日本に広めた男性がいます。
 
その後、戦死した男性の人生を、
 
後輩にあたる大学生と一緒にたどりました。  
 
今年、創部から100年を迎える北海道大学水泳部。
 
この部をつくったのは、当時、北大生だった内田正練(まさよし)です。
 
1920年、内田は22歳のときベルギーで開催された
 
アントワープオリンピックの水泳で、日本人として初めて出場しました。  
 
内田のことを知りたいと話すのは、北大の水泳部主将の高野裕生さん。  
 
「(内田は)水泳部の大先輩というイメージはもちろんあるけど、
 
歴史上の偉人みたいな印象」(北大水泳部 高野裕生 主将〔3年〕)  
 
内田は「横泳ぎ」と呼ばれている「日本泳法」でオリンピックに臨みました。  
 
「彼は日本泳法の第一人者だった。日本でいちばん速いと思っていた」
 
(元北大水泳部顧問 三浦裕行さん)  
 
しかしあえなく予選で敗退します。  
 
「相当悔しかったんでしょうね。歯が立たなかったので・・・」
 
(元北大水泳部顧問 三浦裕行さん)  
 
「日本が世界と勝負するためにはクロールが必要だ」。内田は帰国後、
 
こう訴え自ら先頭にたち、各地で講習会を開いてクロールを広めました。  
 
長女・立野恵美子さん(96)。  
 
「社交的でした。小さな日本にいるんじゃなくて、
 
世界に飛び立とうという気持ちがあった」(長女 恵美子さん)  
 
1944年、内田は46歳の時、海軍の司政官として戦地に向かいました。
 
ニューギニアでは日本と連合軍が激しい戦闘を繰り広げていました。
 
現地ではマラリアがまん延・・・。さらに食料の補給が絶たれるなか、
 
内田は、自分より若い人たちに食料を優先していたといわれています。  
 
「自分が死んでも若い人が残れば、国はまだ残っていくという
 
気持ちがあったと思う」(長女 恵美子さん)  
 
水泳で鍛えた身体はやせ細り、最後は山の中で力尽き、餓死しました。  
 
「悔しかった。今でもやっぱり料理をみると、
 
父が食べたかったかなと思う」(長女 恵美子さん)  
 
初めて高野さんは、内田が戦争で亡くなったことを知りました。  
 
「もし、長生きしていたら、もっとすごいことを
 
していたんじゃないかと思う。今、こうやって戦争のない時代に
 
生きられることに甘えずに、感謝して、
 
何かしらできることはしなきゃいけないと思う」
 
(北大水泳部 高野裕生 主将〔3年〕) (12日11:18
 
 

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