「昭和十八年の冬 最後の箱根駅伝」/「見えないタスキ」を胸に全力疾走
今日は令和2年9月20日。
この本を読みました。
「昭和十八年の冬 最後の箱根駅伝」
(早坂隆著/中央公論新社)
最近は太平洋戦争の頃に生きていた人たちが、
どんなことを思っていたのかに関心があります。
この本を選んだのも、その関心の流れに沿ったものです。
印象に残った文章を引用します。
実は彼(専修大学・佐藤忠司)には、中学時代に箱根駅伝を沿道
で観戦した経験があった。昭和12(1937)年に行われた第18
回大会である。佐藤はこの大会を戸塚中継所で観戦し、その熱気に
思わず底知れぬ興奮を覚えたという。その時の「お目当て」の選手
は、ベルリンオリンピックに出場経験を持つ明治大学の南昇竜と、
中央大学の村社(むらこそ)講平であった。
(168p)
「村社講平」という名前を見て、ハッとしました。
この体験は昨年の秋にも体験していました。
※ここでも道草 「吹雪く大地」②/村社講平さんのことを知る(2019年11月3日投稿)
やっぱり村社講平は、時代のヒーローだったのですね。
知識の蓄積。
レースは法政大学、慶應義塾大学、日本大学という三校による優
勝争いとなった。熱戦はアンカー勝負に持ち込まれた。
「アンカー」とは「錨(いかり)」の意味である。この言葉は、元々
は綱引き競技で使用される用語だった。「綱を引く最後尾に最も体
重の重い選手を錨のように置く」という意味で、最後尾の選手を「
アンカー」と呼んだのである。それが陸上競技に転じ、最終走者が
「アンカー」と呼称されるようになった。
(211p)
豆知識の蓄積。
なぜ、日本で駅伝が生まれ、かくも発展したのであろう。日本発
祥の駅伝という競技は、欧米社会には根付かなかった。欧米人が好
むのは、あくまでマラソンである。
そこには「個」を重視する欧米人と、「和」を大切にする日本人
との民族性の違いがあるのではないか。個人の成功のみを求めるよ
りも、属する集団のために汗を流すことを美徳と感ずる日本人独特
の精神文化が、駅伝という競技を生み、そして育てたように思われ
る。
(221p)
う~ん、なるほど。
スッキリしすぎるような説ですが、でもやっぱりなるほどと思います。
中央大学の選手で、昭和18年の箱根駅伝のアンカーを務めた
平井文夫。
後に改姓して西内文夫となります。
名選手であって、名監督でもあった人でした。
中央大学監督として、箱根駅伝で8回優勝しています。
平井文夫は昭和18年の箱根駅伝に走り、
太平洋戦争のビルマ戦線で生き抜き、
昭和22年の復活した箱根駅伝を走りました。
戦争とその後の抑留生活のため体は恢復していなくて、
悲鳴をあげていました。
でも走り切りました。
こう思ったそうです。
「人生でいちばんつらいレースでした。でも、生きてまた走れる幸
せを、人に譲ることはできなかった」(「箱根駅伝を10倍おもし
ろく見る本」日本テレビ駅伝プロジェクトチーム)
(293p)
走り出したからにはそう思ったんでしょうね。
いい言葉です。
ともあれ、何故「最後の箱根駅伝」の出場者の中から、このよう
に個性溢れる方々が多く輩出されたのであろう。
それは、志半ばにして戦地に散華した先輩や同僚たちの分まで、
戦後社会を懸命に走ろうとした意志がもたらした結果ではないだろ
うか。戦没者たちから託された「見えないタスキ」を胸に、駅伝で
培われた使命感や責任感を精神的支柱として全力疾走したのが、彼
らの生き様だったのではないか。
(306p)
この本を読んでいて、
確かに個性あふれる人たちが多いなと思いました。
その理由をこのように説明されて、合点がいきました。
全力疾走の生き様はあこがれます。
退職までそうしたい。
再び仕事ができるようになった幸せを、人に譲りたくない。
自分で味わいたい。
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