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2020年7月22日

2020年7月22日 (水)

「豊橋空襲」② 「軍都」と呼ばれた豊橋の歴史

   

今日は令和2年7月22日。

  

前記事に引き続き、

「令和に語り継ぐ豊橋空襲」(岩瀬彰利著/人間社)より。

  

 (日露戦争後)陸軍は軍備増強の必要性を感じて師団(鎮台を改

組したもの)を4つ増設しました。師団とは、戦闘・補給・管理・

衛生などあらゆる機能をもった部隊をひとまとめにした陸軍の基本

作戦部隊のことです。ふつうは1個の師団に1~2万人の兵隊がい

ました。陸軍は4つのうちひとつの師団を東海道沿いに増設しよう

と考えたのです。そのことを知った当時の豊橋では、街の発展のた

め、大口喜六市長をはじめとして全市をあげて熱心に誘致活動をお

こないました。

(16p)

  

豊橋にはこのような歴史があったのですね。

熱心な誘致活動の結果、明治40(1907)年3月に、

師団の設置場所が豊橋に決まります。

師団名は「第十五師団」

  

 師団が置かれたことによって、豊橋には多くの軍人が移住するこ

とになりました。師団付近には軍に物資や食料をおさめる商店や旅

館ができ、軍関係の施設や企業が進出して、街には軍人が多くみか

けられるようになったのです。事実、市の人口をみると、明治39

(1906)年には3万7635人でしたが、明治41(1908)

年には5万227人と、1万人以上も増えています。豊橋の経済は、

第十五師団のおかげで活性化し、軍への依存度が高くなっていった

のでした。こうして、豊橋は「軍都」と呼ばれるようになりました

が、そのシンボルが「第十五師団」だったのです。

(18p)

  

太平洋戦争時、私の父親の兄が、豊橋に兵隊としていました。

2人は長野県出身者です。

伯父は、「軍都豊橋」の歴史上の1人でした。

もうだいぶ前に亡くなっており、残念ながら

話を聞くことはできません。

  

  

 昭和18(1943)年11月になると、海軍は豊川海軍工廠を

守るために御津町(現豊川市)の大恩寺山、三上町(現豊川市)と

石巻村(現豊橋市)の境にあった権現山に高角砲(高射砲の海軍で

の呼称)を置いて、敵機を迎え撃つ陣地を築きました。

(31p)

  

大恩寺山は、ずっと以前写真に撮っています。

ここでも道草 海軍工廠跡地見学5/屋上からの見学/曳光弾(2011年8月8月10日投稿)

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豊川海軍工廠跡地に建っていた名古屋大学太陽地球環境研究所の

本館屋上から撮ったもの。

この山の上をたくさんのB29が飛行し、

こちらに迫ってきたと想像して、

9年前に写真を撮りました。

  

  

つづく

「豊橋空襲」① 小規模といえども亡くなった人がいた

   

今日は令和2年7月22日。

  

この本を読みました。

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「令和に語り継ぐ豊橋空襲」(岩瀬彰利著/人間社)

  

太平洋戦争でアメリカ軍の空襲を受けた都市はたくさんあります。

全てについて知ることは不可能だと思っています。

せめて地元の豊川海軍工廠への空襲と、

豊橋空襲はできるだけ知ろうと動いてきたし、

目の前の児童生徒には伝えてきました。

このブログでも、何度か書いてきました。

   

豊橋空襲について、この本でまたいい勉強ができました。  

  

「豊橋空襲」というと、すぐに思い浮かぶのは

昭和20年6月19日から20日にかけての空襲を思い浮かべます。

しかし、豊橋はそれ以前にも、それ以後にも

「小規模な空襲」を受けていました。

この本では、6月19日・20日の「豊橋空襲」以前の

小規模な空襲が12回紹介されていました。

そのうちの1回を引用します。

  

【4月30日の空襲】

 山田町、南栄町にあった空襲で、死者は8人、被災世帯は43世

帯でした。この日の米軍は7つの作戦を同時におこなっていて、作

戦を同時におこなっていて、作戦任務第126号以外はすべて九州

への攻撃でした。第21爆撃機集団の作戦任務第126号は、立川

陸軍航空工廠と浜松市が目標で、第73・313航空団の106機

が出撃しました。浜松へ向かったB29爆撃機のうち、第313航

空団の5機が豊橋を攻撃しました。10時43分にはじまり47分

に終了という、4分間の攻撃でした。近くには元第十五師団の陸軍

予備士官学校や兵器廠があったので、そこをねらったものと思われ

ます。

(42p)

  

この本で初めて知った豊橋への空襲です。

たった4分間の空襲でしたが、8人の方が亡くなっています。

亡くなった本人、関係者にとっては、

小規模といえども一大事の空襲です。

まさか自分がここで命を落とすとは思わなかったと思います。

無念だったと思います。

この本で書き記されてよかったと思います。

少なくとも私は知ることができました。

少しは無念さを共感できます。

    

6月19日・20日の「豊橋空襲」以後の小規模の空襲として

昭和20年8月14日の空襲について書かれていました。

  

 終戦前日の8月14日には、田原駅を出発した名鉄渥美線(現豊

橋鉄道渥美線)の列車が豊島あたりで銃撃され、乗客ら15人が亡

くなりました。

(43p)

  

この空襲については、以前記事にしました。

その一つ。☟

ここでも道草 渥美線電車機銃掃射 聞き取り調査を始めたきっかけ(2015年6月28日投稿)

もう5年前のこと。

その頃発掘された空襲でした。

  

つづく

  

 

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