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2020年5月

2020年5月 2日 (土)

映画「42~世界を変えた男~」を見ました/42番と1番

今日は令和2年5月2日。

  

映画「42~世界を変えた男~」(2013年)を見ました。

これが予告編動画です。☟


YouTube: 映画『42 ~世界を変えた男~』予告【HD】 2013年11月1日公開

  

Photo  

この42番に1番が寄り添うシーンが一番よかったです。

涙、涙でした。

なぜアメリカ大リーグでは4月15日に全員が背番号42なのかも

このシーンでわかりました。

ここでも道草 「不可能の反対語は可能ではない。挑戦だ」と言った大リーガー(2020年4月20日投稿)

  

先日見た映画「オデッセイ」もよかったけど、

この映画もよかったです。

充実の2時間でした。

 

7年前の映画でした。

こうやって見逃しているいいものはたくさんあるんだろうなあ。

出合えたことをラッキーと思い、

こうやってブログに書き残しておきたいです。

  

 

 

「1番」はすぐに寄り添ったのではありません。

「42番」の人知れずの頑張りに知って、驚き、葛藤して、

寄り添うことを決断しました。

「1番」は「42番」のおかげで、偏見を脱しました。

「42番」は「1番」のおかげで、安堵をもらいました。

限られた時間の授業で見せるなら、この2人の話のところですね。

「1番」も「42番」もお手本になる人です。

  

すでに見た人は共感してくれると思います。

まだ見ていない人は、お薦めの映画です。

  

◇5月3日追記

5月3日朝日新聞朝刊より。広島カープの大瀬良選手が

お薦めの映画として紹介していました。

Epson307  

確かに気持ちは高ぶる映画です。

 

「三陸海岸大津波」③ 古老が「死ぬ人はめったにない」と思っていた でも・・・

 

今日は令和2年5月2日。

  

前記事に引き続いて

「三陸海岸大津波」(吉村昭著/文春文庫)のことです。

  

前記事で田老町の防災の歴史について書きました。

  

「三陸海岸大津波」のラストは、明治29年の大津波、

昭和8年の大津波、昭和35年のチリ地震津波、

さらには昭和43年の十勝沖地震津波も経験した

岩手県田野畑村の早野幸太郎氏(小説発刊時87歳)の

言葉で締めくくられています。

  

 早野氏は、言った。

「津波は、時世が変ってもなくならない。必ず今後も襲ってくる。

しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ

人はめったにないと思う」

 この言葉は、すさまじい幾つかの津波を体験してきた人のもの

だけに重みがある。

 私は、津波の歴史を知ったことによって一層三陸海岸に対する

愛着を深めている。屹立した断崖、連なる岩、点在する人家の集

落、それらは、度重なる津波に堪えて毅然とした姿で海と対して

いる。そしてさらに、私はその海岸で津波と戦いながら生きてき

た人々を見るのだ。

 私は、今年も三陸海岸を歩いてみたいと思っている。

(178p)

  

田野畑村は、下閉伊郡にある村であり、

かつて田老町もおなじ郡内でした。

田野畑村については、ここで記事にしました。☟

ここでも道草 岩手県田野畑村/「ラジオ文芸館 梅の蕾」(2020年3月3日投稿)

  

 

吉村昭さんの亡くなった年を調べました。

2006年(平成18年)7月31日です。

したがって、東日本大震災の前に亡くなっています。

  

吉村さんが書いたように、田老町では防災の歴史を積み重ね、

田老町だけではなく、三陸海岸の町々は、

津波に対して警戒していました。

田野畑村の古老が言ったように、

「死ぬ人はめったにない」はずでした。

  

しかし、吉村さんが想像した以上に、

いや多くの人たちが想像していた以上に、

東日本大震災で起こった津波は巨大でした。

  

Wikipedia 田老町より引用します。

 

2011年3月11日の東日本大震災の影響に伴い発生した津波は、

午後3時25分に田老地区に到達した。海側の防潮堤は約500メ

ートルにわたって一瞬で倒壊し、市街中心部に進入した津波のため

地区では再び大きな被害が発生した。目撃証言によると「津波の高

さは、堤防の高さの倍あった」という。市街は全滅状態となり、地

区の人口4434人のうち200人近い死者・行方不明者を出した。

「立派な防潮堤があるという安心感から、かえって多くの人が逃げ

遅れた」という証言もある。

  

 

津波によって再び三陸海岸では多くの人が亡くなりました。

自然は人間の力をやすやすと越えます。

昭和45年発刊のこの小説を読み、2011年に起こったことを見て、

あらためてそう思います。

もし、吉村昭さんが、東日本大震災の津波被害を見たら、

どんなことを思い、どんなことを書いたでしょうか。

 

 

  

 

吉村昭さんが亡くなった年を調べて、

死んだ前日の出来事に驚きました。

Wikipedia 吉村昭より引用します。

  

2005春に舌癌と宣告され、さらにPET検査により膵臓癌も発

見され、2006年2月には膵臓全摘の手術を受けた。退院後も短

篇の推敲を続けたが、新たな原稿依頼には応えられなかった。同年

7月30日夜、東京都三鷹市の自宅で療養中に、看病していた長女

に「死ぬよ」と告げ、みずから点滴の管を抜き、次いで首の静脈に

埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、数時間後の7月31日

午前2時38分に死去。79歳だった。

  

  

小説家ですから、客観的に自分を見て、

ここで自分の物語を自分で終わらせようと思ったのでしょうか。

長女さんはさぞ面食らったでしょう。

  

  

以上で「三陸海岸大津波」からの引用は終了。

「三陸海岸大津波」② 岩手県田老町の防災の歴史

  

今日は令和2年5月2日。

  

前記事に引き続いて

「三陸海岸大津波」(吉村昭著/文春文庫)より

引用していきます。

  

前記事で引用したように、この本が出版されたのは

昭和45年のことです。

その時点で取材できた明治29年、昭和8年の大津波と

昭和35年のチリ地震の被害について書かれていました。

  

 明治29年、昭和8年、昭和35年と津波の被害度をたどってみ

ると、そこにはあきらかな減少傾向がみられる。

 死者数を比較してみても、

  明治29年の大津波・・・・・26360名

  昭和8年の大津波・・・・・・・2995名

  昭和35年のチリ地震津波・・・・105名

 と、激減している。

 流失家屋にしても、

  明治29年の大津波・・・・・・9879戸

  昭和8年の大津波・・・・・・・4885戸

  昭和35年のチリ地震津波・・・1474戸

 と、死者の減少率ほどではないが被害は軽くなっている。その理

由は、波高その他複雑な要素がからみ合って、断定することはむろ

んできない。しかし、住民の津波に対する認識が深まり、昭和8年

の大津波以後の津波防止の施設がようやく海岸に備えはじめられて

きたことも、その一因であることはたしかだろう。

 高地への住居の移動は、容易ではないが意識的にすすめられてい

たことも事実である。そして、それと併行して住民の津波避難訓練、

防潮堤その他の建設が、津波被害を防止するのに大きな力を発揮し

ていたと考えていい。その模範的な例が、岩手県下閉伊郡田老町に

みられる。

(171~172p) 

ここから話は田老町にしぼられます。

  

 田老町は、明治29年に死者1859名、昭和8年に911名と、

2度の津波来襲時にそれぞれ最大の被害を受けた被災地であった。

「津波太郎(田老)」という名称が町に冠せられたほどで、壊滅的

打撃を受けた田老は、人の住むのに不適当な危険きわまりない場所

と言われたほどだった。

 しかし、住民は田老を去らなかった。小さな町ではあるが環境に

恵まれ豊かな生活が約束されている。風光も美しく、祖先の築いた

土地をたとえどのような理由があろうとも、はなれることなどでき

ようはずもなかったのだ。

 町の人々は、結局津波に対してその被害防止のために積極的な姿

勢をとった。

 まずかれらは、昭和8年の津波の翌年から海岸線に防潮堤の建設

をはじめ、それは戦争で中断されはしたが960メートルの堤防と

なって出現した。さらに戦後昭和29年に新堤防の起工に着手、昭

和33年3月に至って全長1350メートル、上幅3メートル、根

幅最大25メートル、高さ最大7.7メートル(海面からの高さ

10.65メートル)という類をみない大堤防を完成した。またそ

の後改良工事が加えられ、1345メートルの堤防が新規事業とし

て施行されている。

(172~173p)  

  

その田老町を、吉村さんは訪れます。

  

 私も田老町を訪れた時、海岸に高々とそびえる防潮堤に上ってみ

た。堤は厚く、弧をえがいて海岸を長々とふちどっている。町の家

並は防潮堤の内部に保護されて、海面から完全に遮断されている。

町民の努力の結果なのだろうが、それは壮大な景観であった。

 そのほか田老町では、避難道路も完成している。それまでの津波

襲来時に、道路がせまいため住民の避難が思うようにゆかなかった

苦い経験をもとに、広い避難道路を作ったのである。また避難所、

防潮林、警報器などの設備も完備している。

 ことに町をあげての津波避難訓練は、昭和8年3月3日の大津波

を記念して、毎年3月3日に行われている。それも、昭和8年の地

震発生時刻の午前2時31分39秒(盛岡観測所記録)に津波襲来

を予告するサイレンの吹鳴によって開始されるという徹底したもの

である。むろんそれは、寒さの厳しい深夜なのだが、住民は真剣な

表情で凍てついた夜道を一斉に避難するのだ。

(173~174p)

  

 田老町の防潮堤は、高さが海面より10.65メートルある。が、

明治29年、昭和8年の大津波は、10メートル以上の波高を記録

した場所が多い。(中略)

 そのような大津波が押し寄せれば、海水は10メートルほどの防

潮堤を越すことはまちがいない。

 しかし、その場合でも、頑丈な防潮堤は津波の力を損耗させるこ

とはたしかだ。それだけでも、被害はかなり軽減されるにちがいな

い。

(176~177p)

  

以上、田老町の防災の歴史に関する部分を引用しました。

つけたしで、Wikipedia 田老町より引用します。

  

昭和三陸津波70周年に当たる2003年(平成15年)3月、町は

「災禍を繰り返さない」と誓い、「津波防災の町」を宣言して記念

の石碑を設置した。同地区出身の田畑ヨシによる「津波てんでんこ」

の紙芝居活動をはじめとする児童への防災教育や、年一回の避難訓

練にも力を入れ「防災の町」として全国的にも有名であった。その後、

2005年に田老町は宮古市に編入され、消滅した。

  

 

「昭和三陸津波」というのが昭和8年の大津波のことでしょう。

防災にこうやって務めてきた田老町。

そこに2011年3月11日がやってきました。

  

つづく

「三陸海岸大津波」① 二階家の屋根の上に波がのっと突き出ていた

 

今日は令和2年5月2日。

  

最近は暑い。

2日前は車の気温計は25度でした。

昨日もそれぐらいの気温でした。

今日はどうやら30度に届きそうとの予報。

5月もまだ始まったばかりなのに、もう30度。

昨晩から、寝間着は半そで半ズボンにしました。

  

本が読めました。

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「三陸海岸大津波」(吉村昭著/文春文庫)

   

体験者の話を聞いて、出来事を再構築するこのような話を

もともと私は好きでした。

ルポルタージュと言ったっけ。

学生の頃は、本多勝一さんに憧れて、

自分でもやってみようと思ったのが、

就職浪人中の北海道徒歩旅行でした。

たくさんの人に話を聞き、体験をさせてもらいましたが、

結局文章として残さなかったのが残念です。

本多勝一さんは1932年1月生まれ。

御年88歳。いかがお過ごしなのだろう。

ちなみに吉村昭さんは1927年生まれで

2006年に79歳で亡くなられています。

  

 

引用していきます。

この本では、三陸海岸を襲った

3つの大津波のことが書いてありました。 

明治29年の津波、昭和8年の津波、

そして昭和35年のチリ地震津波です。

  

 まえがき

 私は、何度か三陸沿岸を旅している。

 海岸線をたどったり、海上に舟を出して断崖の壮絶な美しさを見

上げたこともある。小説の舞台に三陸海岸を使ったことがあるが、

いつの頃から津波のことが妙に気にかかり出した。

 或る婦人の体験談に、津波に追われながらふとふりむいた時、二

階家の屋根の上にそそり立った波がのっと突き出ていたという話が

あった。深夜のことなので波を黒々としていたが、その頂は歯列を

むき出したとように水しぶきで白くみえたという。

 私は、その話に触発されて津波を調べはじめた。そして、津波の

資料を集め体験談をきいてまわるうちに、一つの地方史として残し

ておきたい気持ちにもなった。・・・それが、この一書である。

 私は、むろん津波の研究家ではなく、単なる一旅行者にいすぎな

い。専門的な知識には乏しいが、門外漢なりに津波のすさまじさに

ふれることはできたと思っている。

昭和45年6月                   吉村 昭

(10~11p)

  

 「二階家の屋根の上にそそり立った波がのっと突き出ていた」

印象的な表現です。この証言をしたのは

昭和8年の大津波を体験した岩手県下閉伊郡田野畑村

鳥ノ越に住む畠山ハルさんです。

 吉村昭さんが、三陸海岸を歩いて、

大津波の経験談を聞いた一人です。

  

  

 ハルさんは、当時14歳で、村会議員の熊谷武蔵という人の家に

家事手伝いをして働いていた。その家、海から100メートルほど

ある所に建っていて、激しい地震で一家中がとび起きた。

 ハルさんは、熊谷家の次女である6歳の京子と添寝をしていたが、

揺れ方があまりに激しいので、いつでも戸外へとび出せるように京

子に着物を着させた。

 やがて地震もおさまり、主人の熊谷氏も、

「もう大丈夫だから寝なさい」

 というので、京子とふとんに入ったが、不安なので京子には着物

をつけさせたままだった。地震で電線がきれたのか、停電していて、

部屋の中にはただローソクがともっているだけだった。

 突然、津波だあ!という声をしたので、ハルさんは、京子を抱い

てとび起きた。そして、夢中になって30メートルほどはなれた裏

山の登り口に走り出した。

 後方でゴォーッという音がしバリバリと家のこわれる音がしたの

で、瞬間的にふりむいてみた。すると、熊谷家の前に建つ二階家の

屋根の上方に、白い水しぶきをあげた黒々とした波が、ノッと突き

出ていたという。

 ハルさんは、必死になって山ぎわにとりつき這い上がりかけた時、

波が押し寄せてきてさらわれそうになった。彼女は、京子を首にか

じりつかせて灌木の幹にしがみついていたが、その足にすがりつい

た子供がいた。それは、早野治平という6歳の男の子で、波のひい

た後、ハルさんは京子と治平をつれて杉の繁る山の上にたどりつく

ことができたという。

(118~119p)

  

生きのびてよかったなあと思います。

ハルさんにも、京子さんにも、そして治平さんにも、

この後長い人生が過ごせたことと思います。

2020年5月 1日 (金)

「安倍官邸VSNHK」④ 国有地格安販売「誰も責任をとっていない」

  

今日は令和2年5月1日。

  

前記事に引き続いて

「安倍官邸VSNHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由」

(相澤冬樹著/文芸春秋)より引用します。

  

最後にもう一つ引用します。

299p丸ごと引用します。

  

 森友事件は私の人生を変えた

 なぜ国有地が格安販売されたのか?その謎は解明されていないし、

誰も責任をとっていない。さらに言えば、国有地を売ったのは森友

学園に小学校を作らせるためで、小学校を無理やり認可しようとし

ていたのは大阪府だ。大阪府はなぜ、そこまでして小学校を認可し

ようとしたのか?国と大阪府は、なぜそこまでして、この小学校を

設立させたかったのか?

 森友事件とは、実は森友学園の事件ではない。国と大阪府の事件

だ。責任があるのは、国と大阪府なのだ。国の最高責任者は安倍晋

三総理大臣。大阪府の最高責任者は松井一郎大阪府知事である。お

二人には説明責任があるが、それが果たされたと思わない人は大勢

いるだろう。お二人が説明しないなら、記者が真相の取材をするし

かない。

 この謎を解明しないと、森友事件は終わったことにはならない。

私がNHKを辞めた最大の目的は、この謎を解明することだ。

 森友事件は私の人生を変えた。でも、それはいい方向に変えてく

れたと思う。何のしがらみもないというこの大阪日日新聞で、私は

森友事件の取材を続ける。謎が解明されるまで。

(299p)

 

「誰も責任をとっていない」

この言葉が印象に残ります。

昨今の国政では「責任」がすごく軽んじられていると思います。

「私が責任を取る」という覚悟で

政策に取り組んでいないように感じます。

「私が悪かった。責任を取って辞めます」

そんなセリフが聞きたいと思っています。

誰だってミスはあり、うまくいかないこともあります。

その時はその時。

辞して、再起をうかがう。

その繰り返しではないでしょうか。

  

  

この本を読む前に、朝日新聞で「大阪維新の会」「日本維新の会」に

ついて、1面分説明されたのを読みました。

今さら自民党寄りの政党なのだと知りました。

そして今回の本を読んで、

「維新の会」へのイメージが悪くなりました。

桜を見る会の問題が噴出して以後、

私の政治不信はどんどん広がります。

  

  

以上で、「安倍官邸VSNHK 

森友事件をスクープした私が辞めた理由」からの引用を終えます。

「安倍官邸VSNHK」③ 近畿財務局管財部上席国有財産管理官のA氏

  

今日は令和2年5月1日。

  

前記事に引き続いて

「安倍官邸VSNHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由」

(相澤冬樹著/文芸春秋)より引用します。

  

 森友事件の発覚から1年あまりすぎた2018年(平成30年)

3月2日朝。朝日新聞が決定的な特ダネを出した。

「財務省が森友の国有地取引関連の公文書を改ざんした疑いがある」

 破壊力満点の大特ダネだ。財務省は大揺れだろうが、我々も大騒

動だ。これだけの特ダネ、後追いはマストだが、どうやって後追い

する?

(194p)

 

「マスト」?

そうか英語のmustからきていて、

「しなければいけないこと」という意味ですね。

  

 そのころ再び、衝撃の事実が発覚した。「近畿財務局職員が自殺」

亡くなったのは(2018年)3月7日。改ざん発覚の5日後。そ

してこの事実が明らかになったのは、その2日後の3月9日だった。

(196~197p)

  

自殺したのが赤木俊夫さんです。

この本ではA氏として語られています。

  

 亡くなったのは、近畿財務局管財部上席国有財産管理官のA氏。

まさに森友学園の国有地売買交渉にあたっていた担当者の一人だ。

神戸市内の自宅で命を絶ち、兵庫県警が捜査の結果、自殺と断定し

た。

 いったいどういう人なのか?彼の死と国有地売買、公文書改ざん

は何か関連があるのか?A上席の死について取材を進めるため、地

元神戸や大阪、関西各局、さらに東京社会部も加わって、取材チー

ムが作られた。その取材により、我々はA上席について次のような

ことを知った。

・2015年7月の異動で管財部の上席国有財産管理官となり、国

有地の購入に関する様々な申し入れや陳情、クレームを処理してい

た。ときに掟破りの申し入れがあるが、「いちいち耳を貸す訳には

いかない」と公平さを大切にしていた。2016年(平成28年)

から森友学園の土地払い下げの案件を担当していた。経験豊富で手

堅く、周囲から信頼されていた。

・上席というポジションは、本省からの指示と現場の摺り合わせを

行うことが求められる役職。本省の指示が現場の実情にあわなかっ

たり法律解釈が少し間違っていたりしても、そのまま飲む人が多い

中、A上席は「それはおかしい」「自分はこう思う」と意見する、

役所では珍しい人だった。上司も煙たがりつつも、仕事はしっかり

こなすので一目置いていた。それでも、一旦組織が決定したことは

受け入れてしっかり守る、至極まっとうな行政マンだった。

・声が大きく明朗な性格で、疑問に答えてもらおうと笑顔でお礼を

言う、気持ちのいい人。いわゆる開けっぴろげなキャラクターで、

自殺と聞いても全く想像できない。

・半年前から”心身耗弱(こうじゃく)”とのことで休職していた。

森友事件が発覚して以降、東京との板挟みで相当苦労しており、追

い込まれていた。

  

 そして、さらに取材を進める中で、我々は次のような重要情報を

得た。

  

・3月2日の朝日新聞の「改ざん」報道を受け、3月6日に、休職

中のA上席が近畿財務局に呼び出された。実際に庁舎内で彼の姿を

見かけた人がいる。そして翌7日、A氏は自ら命を絶った。

 

 精神的な問題で休職しているのに、A上席はなぜ呼び出されたの

か?役所では誰とどういう話をしたのか?何か指示されたのか?責

任感が強かったというA上席。改ざんのしわ寄せで精神的に追い込

まれて休職し、さらには死に追い込まれたのではないのか?これは

必ず解明して、彼の無念を晴らさねばならない。

(197~198p) 

  

  

赤木さんの奥さんは、この本を読んで、

相澤さんに赤木さんの手記を手渡したと聞いています。

納得です。  

「安倍官邸VSNHK」② 2017年7月26日「ニュース7」を見てたかな?

  

今日は令和2年5月1日。

   

さあ5月です。いい月にしたいです。

 

前記事に引き続き、

「安倍官邸VSNHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由」

(相澤冬樹著/文芸春秋)より引用します。

   

森友事件にとって重要な安倍首相の発言があります。

2017年2月17日のことです。

衆議院予算委員会で、安倍首相は私学設置認可や国有地払い下げに

「私や妻が関係していたということになれば、

首相も国会議員も辞める」と発言しました。

この発言で、「忖度」が始まったと可能性があります。

その発言を動画で見ることができました。


YouTube: 【私や妻が関係してたら総理も議員も辞める】福島議員vs安倍総理 2017年2月17日 衆議院 予算委員会

  

森友事件が国や大阪府の事件から、

森友学園の事件になっていった頃の記述を引用します。

  

 事件の本質は、なぜ学校は認可されるところだったか、なぜ国有

地は格安で売られたか、に尽きる。国有地の格安売却は、財務省、

近畿財務局の背任行為の疑いがある。その捜査が最重点であるべき

だ。

 ところがこの頃(※2017年5月頃からか?)から、大阪府が

しきりに、森友学園の補助金不正をめぐる情報を報道各社に流し始

めた。大阪府が森友学園の幼稚園に交付していた2つの補助金、教

員を確保するための補助金と、障害のある子どもを受け入れた場合

の補助金に、教員や障害児の水増しなどの不正の疑いがあるという

話だ。大阪市も同様に、市の補助金も不正に受け取っていた疑いが

あると言い始めた。

 なるほど、補助金不正はあったかもしれない。しかし、それは国

有地の格安売却とはまったく関係のない話だ。そもそも森友学園が

多額の補助金を受けていることは大阪府も大阪市もとっくにわかっ

ていたことで、その申請内容がおかしいとすれば、これまでまった

く気づかなかったという方が不自然だ。その申請内容がおかしいと

すれば、これまでまったく気づかなかったという方が不自然だ。な

ぜ今になって、このタイミングで、急に騒ぎ始めたのか?

 私から言わせると、新たな詐欺事件に注目を集め、本筋の背任事

件から世間の目をそらす狙いとしか思えなかった。大阪府も大阪市

もトップは大阪維新の会。維新と安倍官邸近いのは周知のこと。つ

まり、これは維新が国のためにナイスアシストをしている陽動作戦

としか、私には思えなかった。

(122~123p)

  

思い出します。

当時、テレビのニュースでも森友学園にいつガサ入れするのか、

籠池前理事長は逮捕するのかどうかが報じられていたと思います。

籠池前理事長と奥さんの2人の強烈な個性も

くりかえし紹介されていたと思います。、

すっかり「森友学園の事件」になっていたと思います。

  

  

そして実際にガサ入れがありました。

2017年6月19日でした。

 

 ガサが終わると、次の最大の焦点は「籠池前理事長はいつ逮捕さ

れるのか」だ。そもそも逮捕されるのか。在宅での任意捜査なのか、

ということもある。さらには、逮捕されるとしてそれは籠池前理事

長だけが、諄子(じゅんこ)夫人もか?そして逮捕容疑は何か?捜

索は補助金適正化法違反と詐欺で行われた。これでいいのか、それ

ともどちらか一方に切り替わるのか、だ。

 これらはもちろん重要な取材項目だ。だが忘れてはいけない。詐

欺は森友事件の本筋ではない。本筋はあくまで固有値の値引き販売

だ。近畿財務局と財務省官僚らの背任だ。

(129p)

    

相澤さんの視点はブレていませんでした。

  

  

 

そんな中、すごい情報が手に入ります。

 

 疑問の一つについて、ようやく具体的な情報が得られた。

 「国有地の売却前に、近畿財務局は森友学園側との売却交渉の過

程で、学園がめいっぱい出していくらまでなら出せるのか聞き出し

ている。そして実際にその金額以下で売っている」

 耳を疑った。そんなことが本当にあるのか?Lデスクが書き出し

た取材項目にあるように、私たちは、森友学園側が近畿財務局に買

い取り希望額や支払い可能額を伝えて、その意向通りになるよう求

めたということはありうると考えていた。そのために政治家や安倍

明恵名誉校長の名前を使ったり、巨額の損害賠償請求の可能性をに

おわせたりして、近畿財務局を自分たちの意向に従わせようとした

可能性はあるだろうと。ところが、実際に森友側ではなく、近畿財

務局の方から支払い可能額を聞き出していたというのか!そんなこ

とを役所が率先してするなんて。しかも実際にその上限額に収まる

範囲で売ったなんて、まさに背任行為そのものだ。信じられないと、

と言いたいが、情報源は堅い。

(136~137p)

  

 

2017年7月26日にこのことが

NHK「ニュース7」で流されます。

要旨はつぎのこと。

・2016年3月 土地の売却価格をめぐって近畿財務局と

 森友学園で交渉が行われる。その際に、上記の引用文のようなことが

 行われた。

・2016年6月 近畿財務局は大阪・豊中市の国有地について、

 およそ9億5500万円だった鑑定価格から地中のゴミの撤去費用

 などとしておよそ8億2000万円を値引きして森友学園に

 売却した。

・大阪地検特捜部は、近畿財務局が大幅な値引きによって

 国に損害を与えたとする市民グループからの背任容疑での告発を受理。

 調べを進めている。

  

  

このニュースを私は見ていたのだろうか。

大騒ぎすべき内容だと今なら思えますが、

覚えがありません。

水曜日でした。夏休み期間中だなあ。

何に夢中になっていた?

7月26日直後のブログを見てみました。

ここでも道草 ドラマ「遺留捜査」の中の「京都将棋」(2017年7月27日投稿)

ここでも道草 20170721報告5.映像を熟知する/ただ番組を見るだけでなく(2017年7月27日投稿)

「京都将棋」と「NHK for school」に夢中でした。

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楽餓鬼

今日はにゃんの日

いま ここ 浜松

がん治療で悩むあなたに贈る言葉