「三陸海岸大津波」① 二階家の屋根の上に波がのっと突き出ていた
今日は令和2年5月2日。
最近は暑い。
2日前は車の気温計は25度でした。
昨日もそれぐらいの気温でした。
今日はどうやら30度に届きそうとの予報。
5月もまだ始まったばかりなのに、もう30度。
昨晩から、寝間着は半そで半ズボンにしました。
本が読めました。
「三陸海岸大津波」(吉村昭著/文春文庫)
体験者の話を聞いて、出来事を再構築するこのような話を
もともと私は好きでした。
ルポルタージュと言ったっけ。
学生の頃は、本多勝一さんに憧れて、
自分でもやってみようと思ったのが、
就職浪人中の北海道徒歩旅行でした。
たくさんの人に話を聞き、体験をさせてもらいましたが、
結局文章として残さなかったのが残念です。
本多勝一さんは1932年1月生まれ。
御年88歳。いかがお過ごしなのだろう。
ちなみに吉村昭さんは1927年生まれで
2006年に79歳で亡くなられています。
引用していきます。
この本では、三陸海岸を襲った
3つの大津波のことが書いてありました。
明治29年の津波、昭和8年の津波、
そして昭和35年のチリ地震津波です。
まえがき
私は、何度か三陸沿岸を旅している。
海岸線をたどったり、海上に舟を出して断崖の壮絶な美しさを見
上げたこともある。小説の舞台に三陸海岸を使ったことがあるが、
いつの頃から津波のことが妙に気にかかり出した。
或る婦人の体験談に、津波に追われながらふとふりむいた時、二
階家の屋根の上にそそり立った波がのっと突き出ていたという話が
あった。深夜のことなので波を黒々としていたが、その頂は歯列を
むき出したとように水しぶきで白くみえたという。
私は、その話に触発されて津波を調べはじめた。そして、津波の
資料を集め体験談をきいてまわるうちに、一つの地方史として残し
ておきたい気持ちにもなった。・・・それが、この一書である。
私は、むろん津波の研究家ではなく、単なる一旅行者にいすぎな
い。専門的な知識には乏しいが、門外漢なりに津波のすさまじさに
ふれることはできたと思っている。
昭和45年6月 吉村 昭
(10~11p)
「二階家の屋根の上にそそり立った波がのっと突き出ていた」
印象的な表現です。この証言をしたのは
昭和8年の大津波を体験した岩手県下閉伊郡田野畑村
鳥ノ越に住む畠山ハルさんです。
吉村昭さんが、三陸海岸を歩いて、
大津波の経験談を聞いた一人です。
ハルさんは、当時14歳で、村会議員の熊谷武蔵という人の家に
家事手伝いをして働いていた。その家、海から100メートルほど
ある所に建っていて、激しい地震で一家中がとび起きた。
ハルさんは、熊谷家の次女である6歳の京子と添寝をしていたが、
揺れ方があまりに激しいので、いつでも戸外へとび出せるように京
子に着物を着させた。
やがて地震もおさまり、主人の熊谷氏も、
「もう大丈夫だから寝なさい」
というので、京子とふとんに入ったが、不安なので京子には着物
をつけさせたままだった。地震で電線がきれたのか、停電していて、
部屋の中にはただローソクがともっているだけだった。
突然、津波だあ!という声をしたので、ハルさんは、京子を抱い
てとび起きた。そして、夢中になって30メートルほどはなれた裏
山の登り口に走り出した。
後方でゴォーッという音がしバリバリと家のこわれる音がしたの
で、瞬間的にふりむいてみた。すると、熊谷家の前に建つ二階家の
屋根の上方に、白い水しぶきをあげた黒々とした波が、ノッと突き
出ていたという。
ハルさんは、必死になって山ぎわにとりつき這い上がりかけた時、
波が押し寄せてきてさらわれそうになった。彼女は、京子を首にか
じりつかせて灌木の幹にしがみついていたが、その足にすがりつい
た子供がいた。それは、早野治平という6歳の男の子で、波のひい
た後、ハルさんは京子と治平をつれて杉の繁る山の上にたどりつく
ことができたという。
(118~119p)
生きのびてよかったなあと思います。
ハルさんにも、京子さんにも、そして治平さんにも、
この後長い人生が過ごせたことと思います。
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