「三陸海岸大津波」③ 古老が「死ぬ人はめったにない」と思っていた でも・・・
今日は令和2年5月2日。
前記事に引き続いて
「三陸海岸大津波」(吉村昭著/文春文庫)のことです。
前記事で田老町の防災の歴史について書きました。
「三陸海岸大津波」のラストは、明治29年の大津波、
昭和8年の大津波、昭和35年のチリ地震津波、
さらには昭和43年の十勝沖地震津波も経験した
岩手県田野畑村の早野幸太郎氏(小説発刊時87歳)の
言葉で締めくくられています。
早野氏は、言った。
「津波は、時世が変ってもなくならない。必ず今後も襲ってくる。
しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ
人はめったにないと思う」
この言葉は、すさまじい幾つかの津波を体験してきた人のもの
だけに重みがある。
私は、津波の歴史を知ったことによって一層三陸海岸に対する
愛着を深めている。屹立した断崖、連なる岩、点在する人家の集
落、それらは、度重なる津波に堪えて毅然とした姿で海と対して
いる。そしてさらに、私はその海岸で津波と戦いながら生きてき
た人々を見るのだ。
私は、今年も三陸海岸を歩いてみたいと思っている。
(178p)
田野畑村は、下閉伊郡にある村であり、
かつて田老町もおなじ郡内でした。
田野畑村については、ここで記事にしました。☟
※ここでも道草 岩手県田野畑村/「ラジオ文芸館 梅の蕾」(2020年3月3日投稿)
吉村昭さんの亡くなった年を調べました。
2006年(平成18年)7月31日です。
したがって、東日本大震災の前に亡くなっています。
吉村さんが書いたように、田老町では防災の歴史を積み重ね、
田老町だけではなく、三陸海岸の町々は、
津波に対して警戒していました。
田野畑村の古老が言ったように、
「死ぬ人はめったにない」はずでした。
しかし、吉村さんが想像した以上に、
いや多くの人たちが想像していた以上に、
東日本大震災で起こった津波は巨大でした。
Wikipedia 田老町より引用します。
2011年3月11日の東日本大震災の影響に伴い発生した津波は、
午後3時25分に田老地区に到達した。海側の防潮堤は約500メ
ートルにわたって一瞬で倒壊し、市街中心部に進入した津波のため
地区では再び大きな被害が発生した。目撃証言によると「津波の高
さは、堤防の高さの倍あった」という。市街は全滅状態となり、地
区の人口4434人のうち200人近い死者・行方不明者を出した。
「立派な防潮堤があるという安心感から、かえって多くの人が逃げ
遅れた」という証言もある。
津波によって再び三陸海岸では多くの人が亡くなりました。
自然は人間の力をやすやすと越えます。
昭和45年発刊のこの小説を読み、2011年に起こったことを見て、
あらためてそう思います。
もし、吉村昭さんが、東日本大震災の津波被害を見たら、
どんなことを思い、どんなことを書いたでしょうか。
吉村昭さんが亡くなった年を調べて、
死んだ前日の出来事に驚きました。
※Wikipedia 吉村昭より引用します。
2005春に舌癌と宣告され、さらにPET検査により膵臓癌も発
見され、2006年2月には膵臓全摘の手術を受けた。退院後も短
篇の推敲を続けたが、新たな原稿依頼には応えられなかった。同年
7月30日夜、東京都三鷹市の自宅で療養中に、看病していた長女
に「死ぬよ」と告げ、みずから点滴の管を抜き、次いで首の静脈に
埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、数時間後の7月31日
午前2時38分に死去。79歳だった。
小説家ですから、客観的に自分を見て、
ここで自分の物語を自分で終わらせようと思ったのでしょうか。
長女さんはさぞ面食らったでしょう。
以上で「三陸海岸大津波」からの引用は終了。
コメント