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2020年5月2日

2020年5月 2日 (土)

映画「42~世界を変えた男~」を見ました/42番と1番

今日は令和2年5月2日。

  

映画「42~世界を変えた男~」(2013年)を見ました。

これが予告編動画です。☟


YouTube: 映画『42 ~世界を変えた男~』予告【HD】 2013年11月1日公開

  

Photo  

この42番に1番が寄り添うシーンが一番よかったです。

涙、涙でした。

なぜアメリカ大リーグでは4月15日に全員が背番号42なのかも

このシーンでわかりました。

ここでも道草 「不可能の反対語は可能ではない。挑戦だ」と言った大リーガー(2020年4月20日投稿)

  

先日見た映画「オデッセイ」もよかったけど、

この映画もよかったです。

充実の2時間でした。

 

7年前の映画でした。

こうやって見逃しているいいものはたくさんあるんだろうなあ。

出合えたことをラッキーと思い、

こうやってブログに書き残しておきたいです。

  

 

 

「1番」はすぐに寄り添ったのではありません。

「42番」の人知れずの頑張りに知って、驚き、葛藤して、

寄り添うことを決断しました。

「1番」は「42番」のおかげで、偏見を脱しました。

「42番」は「1番」のおかげで、安堵をもらいました。

限られた時間の授業で見せるなら、この2人の話のところですね。

「1番」も「42番」もお手本になる人です。

  

すでに見た人は共感してくれると思います。

まだ見ていない人は、お薦めの映画です。

  

◇5月3日追記

5月3日朝日新聞朝刊より。広島カープの大瀬良選手が

お薦めの映画として紹介していました。

Epson307  

確かに気持ちは高ぶる映画です。

 

「三陸海岸大津波」③ 古老が「死ぬ人はめったにない」と思っていた でも・・・

 

今日は令和2年5月2日。

  

前記事に引き続いて

「三陸海岸大津波」(吉村昭著/文春文庫)のことです。

  

前記事で田老町の防災の歴史について書きました。

  

「三陸海岸大津波」のラストは、明治29年の大津波、

昭和8年の大津波、昭和35年のチリ地震津波、

さらには昭和43年の十勝沖地震津波も経験した

岩手県田野畑村の早野幸太郎氏(小説発刊時87歳)の

言葉で締めくくられています。

  

 早野氏は、言った。

「津波は、時世が変ってもなくならない。必ず今後も襲ってくる。

しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ

人はめったにないと思う」

 この言葉は、すさまじい幾つかの津波を体験してきた人のもの

だけに重みがある。

 私は、津波の歴史を知ったことによって一層三陸海岸に対する

愛着を深めている。屹立した断崖、連なる岩、点在する人家の集

落、それらは、度重なる津波に堪えて毅然とした姿で海と対して

いる。そしてさらに、私はその海岸で津波と戦いながら生きてき

た人々を見るのだ。

 私は、今年も三陸海岸を歩いてみたいと思っている。

(178p)

  

田野畑村は、下閉伊郡にある村であり、

かつて田老町もおなじ郡内でした。

田野畑村については、ここで記事にしました。☟

ここでも道草 岩手県田野畑村/「ラジオ文芸館 梅の蕾」(2020年3月3日投稿)

  

 

吉村昭さんの亡くなった年を調べました。

2006年(平成18年)7月31日です。

したがって、東日本大震災の前に亡くなっています。

  

吉村さんが書いたように、田老町では防災の歴史を積み重ね、

田老町だけではなく、三陸海岸の町々は、

津波に対して警戒していました。

田野畑村の古老が言ったように、

「死ぬ人はめったにない」はずでした。

  

しかし、吉村さんが想像した以上に、

いや多くの人たちが想像していた以上に、

東日本大震災で起こった津波は巨大でした。

  

Wikipedia 田老町より引用します。

 

2011年3月11日の東日本大震災の影響に伴い発生した津波は、

午後3時25分に田老地区に到達した。海側の防潮堤は約500メ

ートルにわたって一瞬で倒壊し、市街中心部に進入した津波のため

地区では再び大きな被害が発生した。目撃証言によると「津波の高

さは、堤防の高さの倍あった」という。市街は全滅状態となり、地

区の人口4434人のうち200人近い死者・行方不明者を出した。

「立派な防潮堤があるという安心感から、かえって多くの人が逃げ

遅れた」という証言もある。

  

 

津波によって再び三陸海岸では多くの人が亡くなりました。

自然は人間の力をやすやすと越えます。

昭和45年発刊のこの小説を読み、2011年に起こったことを見て、

あらためてそう思います。

もし、吉村昭さんが、東日本大震災の津波被害を見たら、

どんなことを思い、どんなことを書いたでしょうか。

 

 

  

 

吉村昭さんが亡くなった年を調べて、

死んだ前日の出来事に驚きました。

Wikipedia 吉村昭より引用します。

  

2005春に舌癌と宣告され、さらにPET検査により膵臓癌も発

見され、2006年2月には膵臓全摘の手術を受けた。退院後も短

篇の推敲を続けたが、新たな原稿依頼には応えられなかった。同年

7月30日夜、東京都三鷹市の自宅で療養中に、看病していた長女

に「死ぬよ」と告げ、みずから点滴の管を抜き、次いで首の静脈に

埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、数時間後の7月31日

午前2時38分に死去。79歳だった。

  

  

小説家ですから、客観的に自分を見て、

ここで自分の物語を自分で終わらせようと思ったのでしょうか。

長女さんはさぞ面食らったでしょう。

  

  

以上で「三陸海岸大津波」からの引用は終了。

「三陸海岸大津波」② 岩手県田老町の防災の歴史

  

今日は令和2年5月2日。

  

前記事に引き続いて

「三陸海岸大津波」(吉村昭著/文春文庫)より

引用していきます。

  

前記事で引用したように、この本が出版されたのは

昭和45年のことです。

その時点で取材できた明治29年、昭和8年の大津波と

昭和35年のチリ地震の被害について書かれていました。

  

 明治29年、昭和8年、昭和35年と津波の被害度をたどってみ

ると、そこにはあきらかな減少傾向がみられる。

 死者数を比較してみても、

  明治29年の大津波・・・・・26360名

  昭和8年の大津波・・・・・・・2995名

  昭和35年のチリ地震津波・・・・105名

 と、激減している。

 流失家屋にしても、

  明治29年の大津波・・・・・・9879戸

  昭和8年の大津波・・・・・・・4885戸

  昭和35年のチリ地震津波・・・1474戸

 と、死者の減少率ほどではないが被害は軽くなっている。その理

由は、波高その他複雑な要素がからみ合って、断定することはむろ

んできない。しかし、住民の津波に対する認識が深まり、昭和8年

の大津波以後の津波防止の施設がようやく海岸に備えはじめられて

きたことも、その一因であることはたしかだろう。

 高地への住居の移動は、容易ではないが意識的にすすめられてい

たことも事実である。そして、それと併行して住民の津波避難訓練、

防潮堤その他の建設が、津波被害を防止するのに大きな力を発揮し

ていたと考えていい。その模範的な例が、岩手県下閉伊郡田老町に

みられる。

(171~172p) 

ここから話は田老町にしぼられます。

  

 田老町は、明治29年に死者1859名、昭和8年に911名と、

2度の津波来襲時にそれぞれ最大の被害を受けた被災地であった。

「津波太郎(田老)」という名称が町に冠せられたほどで、壊滅的

打撃を受けた田老は、人の住むのに不適当な危険きわまりない場所

と言われたほどだった。

 しかし、住民は田老を去らなかった。小さな町ではあるが環境に

恵まれ豊かな生活が約束されている。風光も美しく、祖先の築いた

土地をたとえどのような理由があろうとも、はなれることなどでき

ようはずもなかったのだ。

 町の人々は、結局津波に対してその被害防止のために積極的な姿

勢をとった。

 まずかれらは、昭和8年の津波の翌年から海岸線に防潮堤の建設

をはじめ、それは戦争で中断されはしたが960メートルの堤防と

なって出現した。さらに戦後昭和29年に新堤防の起工に着手、昭

和33年3月に至って全長1350メートル、上幅3メートル、根

幅最大25メートル、高さ最大7.7メートル(海面からの高さ

10.65メートル)という類をみない大堤防を完成した。またそ

の後改良工事が加えられ、1345メートルの堤防が新規事業とし

て施行されている。

(172~173p)  

  

その田老町を、吉村さんは訪れます。

  

 私も田老町を訪れた時、海岸に高々とそびえる防潮堤に上ってみ

た。堤は厚く、弧をえがいて海岸を長々とふちどっている。町の家

並は防潮堤の内部に保護されて、海面から完全に遮断されている。

町民の努力の結果なのだろうが、それは壮大な景観であった。

 そのほか田老町では、避難道路も完成している。それまでの津波

襲来時に、道路がせまいため住民の避難が思うようにゆかなかった

苦い経験をもとに、広い避難道路を作ったのである。また避難所、

防潮林、警報器などの設備も完備している。

 ことに町をあげての津波避難訓練は、昭和8年3月3日の大津波

を記念して、毎年3月3日に行われている。それも、昭和8年の地

震発生時刻の午前2時31分39秒(盛岡観測所記録)に津波襲来

を予告するサイレンの吹鳴によって開始されるという徹底したもの

である。むろんそれは、寒さの厳しい深夜なのだが、住民は真剣な

表情で凍てついた夜道を一斉に避難するのだ。

(173~174p)

  

 田老町の防潮堤は、高さが海面より10.65メートルある。が、

明治29年、昭和8年の大津波は、10メートル以上の波高を記録

した場所が多い。(中略)

 そのような大津波が押し寄せれば、海水は10メートルほどの防

潮堤を越すことはまちがいない。

 しかし、その場合でも、頑丈な防潮堤は津波の力を損耗させるこ

とはたしかだ。それだけでも、被害はかなり軽減されるにちがいな

い。

(176~177p)

  

以上、田老町の防災の歴史に関する部分を引用しました。

つけたしで、Wikipedia 田老町より引用します。

  

昭和三陸津波70周年に当たる2003年(平成15年)3月、町は

「災禍を繰り返さない」と誓い、「津波防災の町」を宣言して記念

の石碑を設置した。同地区出身の田畑ヨシによる「津波てんでんこ」

の紙芝居活動をはじめとする児童への防災教育や、年一回の避難訓

練にも力を入れ「防災の町」として全国的にも有名であった。その後、

2005年に田老町は宮古市に編入され、消滅した。

  

 

「昭和三陸津波」というのが昭和8年の大津波のことでしょう。

防災にこうやって務めてきた田老町。

そこに2011年3月11日がやってきました。

  

つづく

「三陸海岸大津波」① 二階家の屋根の上に波がのっと突き出ていた

 

今日は令和2年5月2日。

  

最近は暑い。

2日前は車の気温計は25度でした。

昨日もそれぐらいの気温でした。

今日はどうやら30度に届きそうとの予報。

5月もまだ始まったばかりなのに、もう30度。

昨晩から、寝間着は半そで半ズボンにしました。

  

本が読めました。

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「三陸海岸大津波」(吉村昭著/文春文庫)

   

体験者の話を聞いて、出来事を再構築するこのような話を

もともと私は好きでした。

ルポルタージュと言ったっけ。

学生の頃は、本多勝一さんに憧れて、

自分でもやってみようと思ったのが、

就職浪人中の北海道徒歩旅行でした。

たくさんの人に話を聞き、体験をさせてもらいましたが、

結局文章として残さなかったのが残念です。

本多勝一さんは1932年1月生まれ。

御年88歳。いかがお過ごしなのだろう。

ちなみに吉村昭さんは1927年生まれで

2006年に79歳で亡くなられています。

  

 

引用していきます。

この本では、三陸海岸を襲った

3つの大津波のことが書いてありました。 

明治29年の津波、昭和8年の津波、

そして昭和35年のチリ地震津波です。

  

 まえがき

 私は、何度か三陸沿岸を旅している。

 海岸線をたどったり、海上に舟を出して断崖の壮絶な美しさを見

上げたこともある。小説の舞台に三陸海岸を使ったことがあるが、

いつの頃から津波のことが妙に気にかかり出した。

 或る婦人の体験談に、津波に追われながらふとふりむいた時、二

階家の屋根の上にそそり立った波がのっと突き出ていたという話が

あった。深夜のことなので波を黒々としていたが、その頂は歯列を

むき出したとように水しぶきで白くみえたという。

 私は、その話に触発されて津波を調べはじめた。そして、津波の

資料を集め体験談をきいてまわるうちに、一つの地方史として残し

ておきたい気持ちにもなった。・・・それが、この一書である。

 私は、むろん津波の研究家ではなく、単なる一旅行者にいすぎな

い。専門的な知識には乏しいが、門外漢なりに津波のすさまじさに

ふれることはできたと思っている。

昭和45年6月                   吉村 昭

(10~11p)

  

 「二階家の屋根の上にそそり立った波がのっと突き出ていた」

印象的な表現です。この証言をしたのは

昭和8年の大津波を体験した岩手県下閉伊郡田野畑村

鳥ノ越に住む畠山ハルさんです。

 吉村昭さんが、三陸海岸を歩いて、

大津波の経験談を聞いた一人です。

  

  

 ハルさんは、当時14歳で、村会議員の熊谷武蔵という人の家に

家事手伝いをして働いていた。その家、海から100メートルほど

ある所に建っていて、激しい地震で一家中がとび起きた。

 ハルさんは、熊谷家の次女である6歳の京子と添寝をしていたが、

揺れ方があまりに激しいので、いつでも戸外へとび出せるように京

子に着物を着させた。

 やがて地震もおさまり、主人の熊谷氏も、

「もう大丈夫だから寝なさい」

 というので、京子とふとんに入ったが、不安なので京子には着物

をつけさせたままだった。地震で電線がきれたのか、停電していて、

部屋の中にはただローソクがともっているだけだった。

 突然、津波だあ!という声をしたので、ハルさんは、京子を抱い

てとび起きた。そして、夢中になって30メートルほどはなれた裏

山の登り口に走り出した。

 後方でゴォーッという音がしバリバリと家のこわれる音がしたの

で、瞬間的にふりむいてみた。すると、熊谷家の前に建つ二階家の

屋根の上方に、白い水しぶきをあげた黒々とした波が、ノッと突き

出ていたという。

 ハルさんは、必死になって山ぎわにとりつき這い上がりかけた時、

波が押し寄せてきてさらわれそうになった。彼女は、京子を首にか

じりつかせて灌木の幹にしがみついていたが、その足にすがりつい

た子供がいた。それは、早野治平という6歳の男の子で、波のひい

た後、ハルさんは京子と治平をつれて杉の繁る山の上にたどりつく

ことができたという。

(118~119p)

  

生きのびてよかったなあと思います。

ハルさんにも、京子さんにも、そして治平さんにも、

この後長い人生が過ごせたことと思います。

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