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2020年4月29日 (水)

沖縄「戦争マラリア」② 「かつてあった山下軍曹の行為は許しはしようが決して忘れはしない」

  

今日は令和2年4月29日。

  

「昭和の日」

その昭和の時代にあった忘れてはならないことです。

 

前記事に引き続いて、

「沖縄『戦争マラリア』強制疎開死3600人の真相に迫る」

(大矢英代著/あけび書房)より引用します。

  

 波照間には戦争マラリアで亡くなった子どもたち66人のための

慰霊碑がある。西表島と波照間島の海峡が見渡せる小高い丘の上に

建てられたその慰霊碑は、かつての移住地・西表島の南風見田(は

えみだ)と向き合うかたちで建てられている。

 その碑文に、その男の名前が刻まれていた。

  

「かつてあった山下軍曹(偽名)の行為は許しはしようが決して忘

れはしない」

   

「山下」とは何者か。

(105p) 

  

なぜ、波照間島の住民は、マラリア有病地の西表島に

移住させられたのか。その鍵を握る人物が山下虎雄(偽名でした)。

  

  

 青年学校指導員・山下虎雄先生の正体。それは大本営から派遣さ

れた「スパイ」だった。「陸軍中野学校」の卒業生だった。

 陸軍中野学校とは、ゲリラ戦(遊撃戦)や情報戦を専門とするス

パイ教育をおこなっていた、日本陸軍の極秘教育機関だった。日本

全国から優秀な若者が集められ、卒業生は日本全国、世界各地に派

遣された。

 戦時中、八重山諸島には正規の陸海軍のほかに、特別な任務をお

びた大本営直属の「スパイ」が4人派遣されていた。山下はその一

人だった。 

 「離島残置諜者」と呼ばれていた彼らの任務と活動内容について

は、『陸軍中野学校と沖縄戦』(川満彰著・吉川弘文館・2018

年)に詳しく書かれている。

 「離島残置諜者の任務は、身分を秘匿して民間人の立場で情報を

収集し、万が一、米国が上陸してきた場合、それまで訓練していた

住民を戦闘員と仕立て上げ、遊撃戦を行うことだった。第32軍は、

そのために県知事島田叡(あきら)と交渉し、彼らに正式な国民学

校指導員と青年学校指導員の辞令所を出させ、偽名を使い、各島々

へ潜伏させたのである」

山下虎雄という名は、作戦遂行上の偽名だったのだ。

(109p)

  

 

山下虎雄の本名は酒井清でした。

 

戦後、滋賀県で家庭を築き、工場の経営者として生きてきたという。

波照間の住民たちがマラリアで次々絶命していくなか、本人は島を

抜け出し、本土へ帰郷していた。

(113p)

 

  

山下虎雄が直接、波照間島の住民を西表島への移住を

強制しましたが、それも大きな軍部の動きの一部でした。

いったい何が行われたのか。

最終章にまとめて書いてありました。

  

 1945年の戦争マラリアで、日本軍は八重山地域の子どもから

大人まで根こそぎ動員して基地建設を進め、軍隊のための食糧生産

から住居に至るまで、文字どおり「島民の協力等あらゆる手段を活

用」した。だが、戦況が緊迫すると、住民の命よりも軍事作戦を優

先し、住民が「戦闘の妨害」になると懸念した。戦闘地域に住民が

いれば、邪魔である。何よりも敵の捕虜になり、軍の情報を漏らさ

れることは絶対に防止しなければならなかった。だから、綿密な移

住計画をつくり、住民をいつでもコントロールできるように掌中に

おいた。そして、住民を強制的に山に押し込め、八重山諸島全体で

3600人以上をマラリアで死亡させた。

(206p)

  

  

戦争になれば、住民は利用され、

その挙句は情報をもらすことを疑われて

マラリア有病地に押し込められてしまった。

この本を読む前に、どんな内容だと予想していました。

何か事故的なことが起こって

マラリアが流行したのかと考えましたが、

違いました。

それは軍部によって長期的に組織的になされた

民は捨てられ国を守る行動でした。

  

  

「おわりに」で著者は山下虎雄について書いています。

  

 しかし、取材を終えた今も疑問は残る。波照間の強制移住を指揮

した山下虎雄こと、酒井清氏。彼について、波照間の体験者たちは、

「涙が出るほど憎たらしい」「あの人のせいで波照間みんな死んだ

のに・・・。殺せばよかった」などと憎しみの思いを吐露した。浩

おじいは、戦後も繰り返し来島した酒井氏に「二度と来るな」と抗

議文を突きつけた。これだけの被害を与えた人物への怒りは、遺族

ならば当然のことだろう。

 この男の正体を取材するなかで、私は自分自身を問うた。「もし、

私が当時、彼の立場にいたら、どんな行動を取っていただろうか」

と。

 戦時中、酒井氏は、私と同じ年頃の25歳の若者だった。戦後の

インタビューで強制移住は「天皇陛下の命令だから」と平然と語っ

ていたように、軍命を忠実に遂行した彼は、当時の軍の価値観でみ

れば、非常に優秀な軍人だった。軍国主義の元で教育され、陸軍中

野学校でゲリラ・スパイの特殊訓練を徹底され、南海の孤島に特務

員として送られ、そしてたった一人で住民利用作戦という日本軍の

重要な作戦を遂行する任務を与えられたら、私は、どうするだろう

か。

 「私も、もしかしたら彼と同じ行動を取っていたかもしれない」

 そう感じた瞬間、ぞっとした。「山下」という男と向き合うほど

に炙り出されたのは、私自身の中にもある、おぞましい人間の弱さ

だった。

 私たちの日常生活を見れば、様々な場面で私たちは「従属」して

いる。職場ではやりたくない仕事も、「上司の指示だから」とやら

ざるを得なかったり、理不尽だと思っていても「社会のルールだか

ら」と従ったりする。意識の有無を問わず、私たちの自己決定は必

ず外的要因に左右されている。75年前の日本軍からの「命令」で

あれ、現国会が次々に生み出す「法律」であれ、今後起こり得る自

衛隊からの「協力」であれ、絶対的な権力を振りかざされた時、私

たちはーあなたは、私はー果たして、どこまで抗うことができるの

か。

 「山下」は大本営の駒にすぎなかった。そして私たちも、いつで

も次の「山下」になり得る。無意識のうちに、あるいは「正義」の

名の下に率先して、残虐行為の片棒を担ぎかねない。

 だからこそ、私たちの中にある普遍的な弱さを、今、一人ひとり

が問わねばならない。

(215~216p)

  

誰でも「山下」になり得ると思います。

「まてよ」と思える気持ちをもちたい。

  

この文章を書き記していて気がつきました。

「山下虎雄」こと酒井清氏は、戦後繰り返し波照間島に

来島していたのですね。

どんな気持ちで来島していたのだろう。

世界中で最も行き辛い場所だったと思うのだが。

  

  

以上で

「沖縄『戦争マラリア』強制疎開死3600人の真相に迫る」からの

引用を終了。

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