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2019年8月12日

2019年8月12日 (月)

20190810報告4 不思議ではなくなったお店

  

今日は令和元年8月12日。

  

前投稿で、tokyobikeのガラス戸になぜ「酒」の字か

疑問に思ったことを書きました。

この疑問を、メールでtokyobikeさんに送りました。

ありがたいことに、tokyobikeさんから返事をいただきました。

疑問が解けました。

  

tokyobikeさんの建物は、もともとは創業300年を超える

歴史ある酒屋「伊勢五本店」であったものを

借りているそうです。

「酒」の字は、酒屋さんの時のままなのだそうです。

伊勢五本店」は他の場所に移転したそうです。

☝ このHPを見ると創業は宝永3年(1706年)でした。

  

 

次の疑問が生まれました。

「伊勢五」はなぜ「五」なんだ?

調べると・・・・

米屋の「伊勢五」というのがありました。

☝ このHPを見ると、次のように書いてありました。

  

当店は代々、文京区千石で米屋を営んでいます。

正確な創業年代は不明ですが、

享保年間(1716~1736)には商いをしていたと

いわれています。

伊勢五の名称は初代の今井(伊勢屋)五郎右衛門から

とったものです。

  

この文章から、酒屋の「伊勢五」と米屋の「伊勢五」は

違うお店です。

伊勢屋は屋号であって、

江戸時代には江戸市中に多いものとして

『火事 喧嘩 伊勢屋 稲荷に犬の糞』と呼ばれるほど

『伊勢屋』と名乗る店舗が多かった

そうです。(引用:Wikipedia

したがって、屋号が伊勢屋の「五」で始まる名前の持ち主が

創業した酒屋が「伊勢五」となったのでしょう。

 

そんな想像をしました。

この疑問の解決は、直接尋ねてみたいです。

もし、いつか谷中に行くことがあったら、

次のことをしたいです。

tokyobikeに行ってお礼を言って、何かいいものを買う。

それほど遠くない伊勢五本店に行って、

店の名前のいわれを尋ねる。

Kome04_3

Oka2m0110_2

 

つづく

  

20190810報告3 谷中で見かけた不思議なお店

  

今日は令和元年8月12日。

  

徳川慶喜のお墓を見た後、

全生庵の幽霊画展が始まる午前10時までには

少し時間があったので、谷中の街を散歩しました。

 

「慶喜」という名前のそば屋さん。☟

Img_0448

「慶喜そば」とかいうメニューもあるのかな?

もしあったとしたら、どのような具が乗っているのかな? 

  

この店はよくわかりませんでした。☟

Img_0449

Img_0449a  

ガラスには大きく「酒」と書いてあります。

Img_0449aa  

でも店内には自転車が何台かあります。

よく見ると・・・・・

Img_0449ab  

「tokyobike」とあります。

酒屋さんなのか、自転車屋さんなのか?

調べました。

自転車屋さんでした。

HPもありました。☟

Photo_4 tokyobikeHP

 

お店の開店時間は12:00~18:00でした。

私が写真を撮った時は午前10時前。

昼過ぎに見たら、自転車屋さんだと迷わず思ったでしょう。

しかし、あの「酒」は?

店主の名字が「酒井」さんかな?

それとも「酒」という漢字ではなくて、

何か自転車に関係ある漢字なのかな?

それとも・・・・もと酒屋さんだったなごり?

確かめたい。

  

  

もう少し「tokyobike」について調べました。

CycloRider ファッショナブルなスポーツ自転車「tokyobike」を解説

 

高性能でレーサースタイルを売りにするスポーツ自転車が多い。

これは、レーサースタイルでイメージ戦略を行ったほうが

簡単なのもあるだろう。しかし、一部の自転車ブランドには、

ファッション性を売りにし、レーサースタイルを拒否することで

成功した自転車ブランドがある。それはtokyobikeだ。

(中略)

tokyobikeは一部場所で直営店を運営している。

筆者はかつてTokyobike Shop&Rentals 谷中に

訪れたことがある。ここではTokyobikeシリーズ

全車種の展示やアクセサリーの販売等を行っていたが、

通常の自転車店にあるようなショップ的な雰囲気はなく、

気軽に見ることができるアパレルショップの雰囲気だった。

アクセサリーも機能性重視の自転車部品は少なく、

木のベルやカラフルな鍵、普段着にも合うバッグや靴が置いてあり、

自転車店というよりもTokyobikeのコンセプトを見せるための

コンセプトストアと言ってもいいほどだった。 

  

  

なかなか面白そうな店だったのですね。

今回は五重塔跡・駐在所・全生庵目当てで谷中に行ったため、

次の機会では訪れたいと思いました。

  

  

Img_0450  

☝ 全生庵に近づいてきたら、この貼り紙をよく見るようになりました。

八月一日~三十一日 三遊亭圓朝まつり

ワクワクしてきました。

つづく

20190810報告2 川上音二郎の碑/徳川慶喜の墓

  

今日は令和元年8月12日。

  

天王寺五重塔跡付近は、谷中霊園と言われる墓地です。

そこには有名人の墓があるそうです。

 

Img_0439

☝ これはお墓ではなく、「川上音二郎の碑」と

あります。

10年ほど前には、この碑の前に説明があったようです。

このサイトでわかります。☟

ゆきの食魔日記

一部引用します。

  

川上 音二郎(1864~1911)

新派俳優。

壮士劇の率先者。(中略)

妻定奴近代日本最初の女優で、内助の功あり。

銅像は戦時中金属の供出で取り外され、台座のみ残る。

谷中過去帳より

  

あれは台座だったのですね。

台座の上にはどのような銅像があったのか

おおいに気になります。

調べたら、次のサイトにありました。☟

馬込文学マラソン ある戦争遺跡

この写真が載っていました。☟

Photo シルクハットとステッキを手に堂々とした姿の

銅像だったのですね。

ここにも戦争の痕跡がありました。

  

  

Photo_3 谷中ぎんざ公式HP 谷中マップ

徳川慶喜のお墓を見てきました。☟

この奥にあります。

Img_0441  

奥左手が徳川慶喜のお墓。右奥手が正室の徳川美賀子のお墓。☟ 

Img_0445  

次のサイトに興味深いことが書いてありました。☟

気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録

  

慶喜のお墓の後ろに側室(中根幸、新村信)のお墓もあります。

徳川慶喜は十男十一女の子沢山ですが、

多くの子供の母親が新村信と中根幸の二人です。

中根幸は、中根芳三郎の娘として生まれ、

成田信十郎の養女となって側室となりました。

新村信は、旗本松平勘十郎の娘に生まれ、

新村猛雄の養女となって側室となりました。

広辞苑の編者新村出は、新村信の義理の弟になります。

二人とも多くの子供たちを生んでいますが、

生前の役職は側女中で、子供を生んだからといっても、

女中以上の扱いを受けることはなく、

子供たちからも「幸」とか「信」とか呼び捨てにされたといいます。

  

そういう世の中だったというか、

江戸時代の徳川家のなごりなのでしょうか?

今度行く機会があったら、

慶喜のお墓の後ろまでよく見てこよう。

  

 

 

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