「学校の『当たり前』をやめた。」その6/自問:目的のない授業を無駄に行っていないか?
今日は2月11日。
前投稿に引き続き、
「学校の『当たり前』をやめた。」
(工藤勇一著/時事通信社)より、引用します。
たくさん引用したい文章がある本です。
その全てを書き留めておきたいです。
それも今やっておかないと思っています。
後に回すと結局やらないことになりそうです。
でもタイムアップ。この記事がラストです。
江戸時代の寺子屋について書いた文章です。
「②教え方・学び方」については「自学と学び合い」が
中心です。教師が現在のように大勢の生徒に一斉授業で
教えることはありません。
分からないことがあれば友だちに聞いたり、
教えたり教えられたりしながら主体的に学んでいました。
実はこれは、世の中の営みそのものです。
つまり、社会に出てからの大人の学び方と、
子どもたちの学び方は同じだったのです
今のように一斉授業の中で一方的に情報を受け続け、
ただ丸暗記するような勉強方法ではありません。
また、「これをやりなさい」「あれを勉強しなさい」と
一方的に押し付けられることもありませんでした。
学びは、人に頼るものではなく、自分で分からなければ
調べたり考えたり、それでも分からなければ聞くなどしました。
当時は、「対話」が当たり前だったのです。
まさに「学びのスタイル」が「社会のスタイル」なのです。
(69p)
先日、屋根裏の倉庫からアナログ版「道草・社会」を
出してきて、久々読んでみました。
その時に思ったのは、生徒ともっと
社会の話をしていたということです。
昨年の4月からの私は、一斉授業で生徒に社会科の内容を
紹介し続けてきた”だけ”でした。
久々の中学校だったけど、いろいろ思い出し、
慣れてきたので、よかれと思うことを動きたいですね。
以前「学び合い」の活動に興味をもち、関係の先生と話したり、
本も読みました。最近は疎遠でした。
もう一度思い出したい。
各学校は、学習指導要領を上手に活用して、
子どもたちに必要な力を身に付けさせていくことが
大切です。個人的には、現在のカリキュラムの内容は
多すぎると感じています。
現代の社会が求める最小限のものに絞り、
もっとシンプルにする必要があると考えます。
ところで、教育関係者の多くは、学習指導要領に基づいて
作られた教科書をこなすことや、
定められた時間数を守ることに意識が向きがちです。
地域の実情や目の前の子どもたちの実態に合わせて、
柔軟に教育内容を工夫することは、ほぼ見られません。
(73p)
学習指導要領に教員の意識が縛られていて、
自由な発想が奪われてしまっているのです。
目の前の子どもたちが社会の中でよりよく生きていくために
何が必要なのか、多くの教員、教育関係者が自分の頭で
考えることを忘れて、教科書をこなすことに終始して
しまっていることが問題だと考えます。
その結果として、「今週の学級活動、何にする?」
なんて会話が、多くの職員室で交わされているのが
現実ではないでしょうか。
「忙しい、忙しい」と嘆きながら、その一方で、
目的のない授業を無駄に行う。
学習指導要領に縛られた結果がこれでは何とも皮肉です。
(74p)
「目的のない授業を無駄に行う」
なかなか痛烈です。
でも定期テスト前の授業なんて、その傾向強し。
思わぬ事態も出てきました。
生徒が作ったノートを回収して、「A」「B」「C」で
評価しようとする教員が出てきたのです。
私はやめるように言いました。
ノートは評価してはいけません。
ノートづくりの目的がすり替わってしまうからです。
教員が評価するとなれば、生徒の中には「教員に褒められる」
ことを目的とした、「きれいな」「他人に見せるための」
ノートづくりを始めることがあるかもしれません。
しかし、本来ノートは、自らの思考を深めるためのものです。
そして、後で振り返ることによって
理解を深めていくためのものであります。
先生に見せることが目的になってしまうと、
せっかく作ったノートが本来の機能を
果たせなくなってしまいます。
(106~107p)
ここに来年度の改善のヒントがあります。
ノートは何のためにあるのか、
勤務校の社会科の先生たちと話し合いたいです。
明日、生徒がノートを出してきます。
私たち社会科教師は評価します。
今年度はずっとやってきました。
来年度はどうする?
結果は、このブログに書きます。きっと。
本「学校の『当たり前』をやめた。」からの引用はここまで。
後日続ける場合は、「その7」として投稿したい。
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