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2018年8月24日 (金)

「8月15日のプレーボール」その4.浪華商業野球部の復活

 

今日は8月24日。

  

前投稿に引き続き、

8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」より。

  

戦争で中断していた高校野球大会。

その復活の知らせは、1945年秋に届きました。

 

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1946年の8月に、全国中等学校優勝野球大会が

6年ぶりに行われるという知らせです。

(終戦直後の知らせ。素早いです)

この知らせを聞いて、戦争で野球部が廃部になった学校で、

野球部が復活したり、野球部がなかった高校でも、

野球部が創設され始めました。

 

番組では、最初、浪華商業のことが紹介されていました。

※「浪華」を何と読むのだろうと思って、調べました。

 「なにわ」でした。

元野球部員が、他のメンバーを集める時の台詞です。

 

話聞いてくれ、後輩諸君。

バット振って、カーン当てて、ダー!走ったら、

ごっつ気持ちええと思わんか。

  

元野球部員の熱のこもった呼びかけで、

素人同然の学生までが集まったそうです。

全部で14人での再スタートだったそうです。

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当時の新入部員の手記には次のように綴られていたそうです。

 

何か体ごとぶつかるものが欲しい!

という思いに駆り立てられました。

「これだ!これなんだ!」

待ちに待ったものが

現れた思いがしました。

(三村脩さんの手記より)

  

敗戦直後のうちひしがれた学生にとって、

うれしい知らせだったようです。

ただ、野球部ができたけど、道具がない。

番組では、お母さんが嫁入り道具の琴を闇市で売って、

その闇市でグローブを手に入れて子どもに渡した話が紹介されました。

当時はグローブはなかなか手に入らない、そして高価なものでした。

当時貴重だった米一升と、野球ボール1個の値段が

一緒だったそうです。

  

浪華商業も同じです。

当時のメンバーだった人へのインタビュー記事を読みました。

戦争体験者インタビュー 島田雄三さん 山本英夫さん

Photo 左:島田さん  右:山本さん 

一部引用します。

  

(戦争で)淡路にあった浪商の校舎は消失。

戦後は東淡路小学校の校舎を間借りして、授業が再開した。

野球部は4年生(昭和20年)の後半ごろに再開。

同級生や後輩はみんな疎開先から戻ってきて、

部員は30名ほどだった。

都島の高倉にあった鐘紡のグランドを借りて練習をしたり、

プロ野球で活躍する先輩が練習道具をもってきてくれるなど

浪商OBの協力が大きかったそうだ。

最初は14人のスタートでしたが。

30名ほどになったのですね。

  

 

他の学校の野球部については、

次の投稿で。

 

 

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