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2015年5月 3日 (日)

5月2日の大谷嶺/文学碑・扇の要

  

今日は5月3日。

  

昨日は奥さんと山に登ってきました。

登ってきたのは大谷嶺です。

大谷崩を登りたいと思っていたことを実行しました。

※関連:ここでも道草 11月3日は山伏岳その3/同じ道で下山/大谷崩れ(2014年11月5日投稿)

※関連:ここでも道草 「崩れ」/心の中は種が一杯に満ちている(2014年11月24日投稿)

  

その報告。

  

昨年11月にたどり着いた場所に再び自動車を駐車して出発しました。

少し登った場所に幸田文さんの文学碑がありました。

前回見逃した文学碑は、駐車場から少し上にありました。

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↑ あたりの森林の風景を反射して、

幸田文さんの「崩壊」の一文が書かれていました。

崩壊は憚(はばか)ることなく

その陽その風のもとに、

皮のむけ崩れた肌をさらして、

凝然(ぎょうぜん)と、

こちら向きに静まっていた。

無惨であり、

近づきがたい畏怖があり、

しかもいうにいわれぬ

悲愁感が沈澱していた。

  

どこにあるんだと思っていたので、見れて良かったです。

登山ではなく、この文学碑を見に来た人は、

駐車場から少し上がってくださいね。

  

  

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↑「大谷崩は平成19年で300歳」という看板がありました。

今のようにマスコミが大々的に報じていて、

それで伝えられているわけではなく、

公文書の記述から後世に伝わるのですね。

1707年10月28日にあった宝永地震が、

大谷崩の原因だったようです。

富士山の宝永噴火の時期が気になったので調べました。

宝永地震に遅れること50日ほどで噴火があったようです。

1707年の後半は、宝永地震。宝永噴火と続き、大変だったのですね。

時の将軍は徳川綱吉。元禄時代でした。

  

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↑登山口。すみません、登山届は用意してきませんでした。

  

↓まずは新緑の中を歩きました。

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↑「扇の要」の看板。

しかし、見わたすことができないので、

「扇の要」にいるように思えませんでした。

でも看板の傍らには大きな堰堤があり、

それが高い位置から見るとよく目立ちます。

ちょうど「扇の要」の位置だと、高い位置からだとよくわかります。

(つづく)

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