「崩れ」/心の中は種が一杯に満ちている
今日は11月24日。
今、手元には、本当は地元の図書館に昨日返さなくてはならない本があります。
「崩れ」(幸田文著/講談社)です。
大谷崩(おおやくずれ)を目の当たりにして、俄然読みたくなった本です。
※ここでも道草 11月3日は山伏岳その3/同じ道で下山/大谷崩れ(2014年11月5日投稿)
さっそく図書館で借りてきましたが、今日まで読めませんでした。
その前に読んでおきたいと思った本が読破できませんでした。
「海馬ー脳は疲れない」(池谷裕二・糸井重里著/新潮文庫)は
もう何ヶ月も座右の本?ですが、読破できません。
仕方なく、「崩れ」を拾い読みしました。
しかし、ちょっとしか読まないのに、気になった文章がたくさんありました。
ここに書き留めておこうと思います。図書館の皆さん、もうしばらく待ってください。
(担任していた子が、図書館に就職していたので驚き。申し訳ない)
思えば、こんな文学的な記述の本を読んだのは久々だと思います。
心地よい回りくどい記述です。
ブツブツと小石を噛んだような具合で車がとまり、ドアがあけられた。(5p)
「ブツブツと小石を噛んだような・・・」
うまいことを言うなあ。アスファルトの上に石が散らばっているところで停車すると、
こんな感じになります。
妙に明るい場所だなあという感じがあり、車から足をおろそうとして、
変な地面だと思った。
そして、あたりをぐるっと見て、一度にはっとしてしまった。
巨大な崩壊が、正面の山麓から麓へかけてずっとなだれひろがっていた。
なんともショッキングな光景で、あとで思えばそのときの気持は、
気を呑まれた、というそれだったと思う。
自然の威に打たれて、木偶(でく)のようになったと思う。
とにかく、そこまで緑、緑でうっとりしていて、
突如そこにぎょっとしたものが出現したのである。(5p)
幸田文さんが、大谷崩を初めて見たのは5月でした。
安倍峠の初夏の緑を案内してもらっている時に、突然見たのです。
そこは昨日の安倍峠から西方へむけて続く山並だが、
尾根を境にして向側はやはり山梨県になる。
南を開放部にして,弧状一連につらなる山並みのうちの、
大谷嶺(標高約2000m)の山頂のすぐ下のあたりから壊(つい)えて、
崩れて、山腹から山麓へかけて、斜面いちめんの大面積に崩壊土砂がなだれ落ち、
いま私の立っているところもむろんその過去いつの日かの、流出土砂の末なのである。
五月の陽は金色、五月の風は薫風だが、崩壊は憚ることなくその陽その風のもとに、
皮のむけ崩れた肌をさらして、凝然と、こちら向きに静まっていた。
無惨であり、近づきがたい畏怖があり、しかもいうにいわれぬ悲愁感が沈澱していた。
立ちつくして見るほどに、一時の驚きや恐れはおさまっていき、
納まるにつれてーいま対面しているこの光景を私はいったい、
どうしたらいいのだろう、といったって、どうしてみようもないじゃないかー
というもたもたした気持が去来した。(6p)
崩れに心を奪われた幸田さん。他のことをやっていても、崩壊が頭から離れません。
そして、幸田さんは、「心の中」の話を書き始めます。
人のからだが何を内蔵し、それがどのような仕組みで運営されているか、
今ではそのことは明らかにされている。
では心の中にはなにが包蔵され、それがどのように作動していくか、
それは究められていないようだ。
そういうことへかりそめをいうのは、おそれも恥もかまわぬバカだが、
私ももう七十二をこえた。
先年来老いてきて、なんだか知らないが、どこやらこわれはじめたのだろうか。
あちこちの心の楔が抜け落ちたような工合(ぐあい)で、締りがきかなくなった。
慎みはしんどい。締まりのないほうが好きになった。
見当外れなかりそめごとも、勝手ながら笑い流して頂くことにして、
心の中にはもの種がぎっしりと詰まっていると、私は思っているのである。
一生芽をださず、存在すら感じられないほどひっそりしている種もあろう。
思いがけない時、ぴょこんと発芽してくるものもあり、だらだら急の発芽もあり、
無意識のうちに祖父母の性格から受け継ぐ種も、
若い日に読んだ書物からもらった種も、あるいはまた人間だれでもの持つ、
善悪喜怒の種もあり、一木一草、鳥けものからもらう種もあって、
心の中は知る知らぬの種が一杯に満ちている、と私は思う。
何の種がいつ芽になるか、どう育つかの筋道は知らないが、
ものの種が芽に起きあがる時の力は、土を押し破るほど強い。(9-10p)
種の話と「崩壊」がどうつながると思いますか?
幸田さんは、小さい頃から伯父さんにさんに
「おまえはいい船乗りになれる」と言われたことがうれしくて心に残っていました。
五十歳になったころに、捕鯨のキャッチャーボートに乗らないかと誘われた時に、
すぐに乗ったそうです。
その理由として、伯父さんに言われたことが種になり心の中にあり、
誘いを受けるという「偶然に得たほんの些細なつて」によって、発芽したというのです。
そして、「崩れ」が、幸田さんの心の中にある種を発芽させたようです。
今度のこの崩れにしろ、荒れ川にしろ、また種が芽を吹いたな、という思いしきりである。
あの山肌からきた憂いと淋しさは、忘れようとしても忘れられず、
あの石の河原に細く流れる流水のかなしさは、思い捨てようとしても捨てきれず、
しかもその日の帰途上ではすでに、山の崩れを川の荒れをいとおしくさえ
思いはじめていたのだから、地表を割って芽は現れたとしか思えないのである。(12p)
こうして幸田文さんは、「崩壊」について調べて、その報告をし始めます。
全国の「崩れ」の現場に出向いて報告していきます。
それは新聞で発表されます。
最初、「崩れ」は大谷崩を舞台にした人間ドラマが描かれている小説だと思っていました。
しかし、違いました。
文学的な記述はたっぷりありますが、
これは興味のあることを調べて体験して報告した文章でした。
レベルは違いますが、私のブログと一緒ではありませんか。
そして、この「心の中は知る知らぬの種が一杯に満ちている」
「種が芽に起きあがる時の力は、土を押し破るほど強い」
といった文章は、共感しまくりです。
72歳から、そんな実践をしてしまった幸田文さんの生き方は、私には応援歌です。
私は「逃げ」だとも思っていました。
本当はやらないといけないことがあるのに、現実逃避でブログに関わっていると。
でも、7年半以上ブログを書いてきて、ちょっとずつ自信が持てるようになってきました。
現実逃避ではない。これが人間にとって王道なんだと思えてきました。
何かブログでやってきたことが、最近は生きてきているのです。
生きてきているのを実感できるのです。
幸い、私の頭の中には、種がいっぱいあり、発芽しやすい状況のようです。
恵まれていると考えて、行動しよう。さしあたり、次の休みに大谷崩に行きたいなあ。
以上。これで本が返しに行ける。
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