5月2日の大谷嶺/文学碑・扇の要
今日は5月3日。
昨日は奥さんと山に登ってきました。
登ってきたのは大谷嶺です。
大谷崩を登りたいと思っていたことを実行しました。
※関連:ここでも道草 11月3日は山伏岳その3/同じ道で下山/大谷崩れ(2014年11月5日投稿)
※関連:ここでも道草 「崩れ」/心の中は種が一杯に満ちている(2014年11月24日投稿)
その報告。
昨年11月にたどり着いた場所に再び自動車を駐車して出発しました。
少し登った場所に幸田文さんの文学碑がありました。
前回見逃した文学碑は、駐車場から少し上にありました。
↑ あたりの森林の風景を反射して、
幸田文さんの「崩壊」の一文が書かれていました。
崩壊は憚(はばか)ることなく
その陽その風のもとに、
皮のむけ崩れた肌をさらして、
凝然(ぎょうぜん)と、
こちら向きに静まっていた。
無惨であり、
近づきがたい畏怖があり、
しかもいうにいわれぬ
悲愁感が沈澱していた。
どこにあるんだと思っていたので、見れて良かったです。
登山ではなく、この文学碑を見に来た人は、
駐車場から少し上がってくださいね。
↑「大谷崩は平成19年で300歳」という看板がありました。
今のようにマスコミが大々的に報じていて、
それで伝えられているわけではなく、
公文書の記述から後世に伝わるのですね。
1707年10月28日にあった宝永地震が、
大谷崩の原因だったようです。
富士山の宝永噴火の時期が気になったので調べました。
宝永地震に遅れること50日ほどで噴火があったようです。
1707年の後半は、宝永地震。宝永噴火と続き、大変だったのですね。
時の将軍は徳川綱吉。元禄時代でした。
↑登山口。すみません、登山届は用意してきませんでした。
↓まずは新緑の中を歩きました。
↑「扇の要」の看板。
しかし、見わたすことができないので、
「扇の要」にいるように思えませんでした。
でも看板の傍らには大きな堰堤があり、
それが高い位置から見るとよく目立ちます。
ちょうど「扇の要」の位置だと、高い位置からだとよくわかります。
(つづく)
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