「戦時徴用船」2/身代わりになって海に飛び込む船員
今日は3月28日。
前投稿のつづき。
2月8日放映の「ETV特集 戦時徴用船~知られざる民間商船の悲劇~」から、
大久保一郎氏の絵をできるだけ載せていきます。
前投稿に書いた「ぶら志る丸」(志に濁点)撃沈後のこと。
船員のうち57人が犠牲になりました。
生き残った人たちも、ボートに乗りこんでの漂流。最長25日間であったそうです。
上の絵は、そんな漂流中の船員を描いたものです。
船底にたまった汚水でのどの渇きを癒し、
ベルトや革靴を食べて、飢えをしのいだそうです。
幸運にも船を見つけて、はじけるように手を振っている絵です。
この絵は白黒です。
前投稿に書いたように、昭和57年に37枚の作品が発見されましたが、
それとは別に、白黒フィルムに写された絵が見つかっていました。
残念ながら現物はありません。その中の1枚です。
大久保一郎氏の仕事は、設計図を見て船の宣伝ポスターを描いたり、
進水式に配布する船の絵葉書を描くことでした。
それが戦争が始まり、岡田永太郎社長から命じられたことで、
3年間、沈んでいった戦時徴用船の姿を絵に描くことが仕事となりました。
↑この写真は、船員の撮影した写真をもとに描かれたようです。
元の写真はこれ↓
↑「ぶゑのすあいれす丸」撃沈後の出来事を絵にしたもの。
漂流する女性の乗客にボートの席を譲り、
身代わりになって海に飛び込む船員の姿が描かれています。
大久保一郎氏は、生き残った船員からの話をもとに絵を描いています。
この絵も、大久保氏の想像の産物ではなかったようです。
この本を書いた野間さんは、「ぶら志る丸」(志に濁点)の事故報告書の中に、
よく似た話を発見しました。
身代わりになったのは3人の16~17歳の若い船員だったそうです。
千葉県、愛媛県、韓国出身の船員でした。引用します。
「僕達の代わりに婦人客を乗せて下さい」と嘆願すれば、
やむなく此の婦人客を最後の収容者として現場を離れたり。
別れるに当たり
「僕達は居残って、なお漂流中のこれら多数の人を守り、寂しい思いをさせず、
再度の救出を待っています」と欣然として笑いて居たり。
(瓜田収治二等運転士の報告書より 抜粋)
しかし、救命艇が戻ってきた時には、彼らの姿はすでになかったと報告されています。
3人の行為はなかなかできることではありません。
そんなすばらしい行為が失われてしまうのはとっても惜しい。
こうやって絵で描き残すことで後世に伝えられたことは幸いです。
私がこうやってブログに書き残すのもちょっとは貢献になるかな。(次の投稿につづく)
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