「戦時徴用船」1/「あるぜんちな丸」「ぶら志る丸」
今日は3月27日。
またまたすごい番組に出会いました。
月曜日の晩に、飲み会から帰ってから、ついつい見てしまった番組です。
気がつけば深夜0時を過ぎていました。
2月8日放映の「ETV特集 戦時徴用船~知られざる民間商船の悲劇~」です。
確か教育テレビの夜遅くからの放映で、「ザ・テレビジョン」で番組チェックしていて、
ふと目について録画セットしておきました。
戦わずして、輸送船が撃沈されて死んだ兵隊さんが多いという話は、
ずっと以前に聞いたことがありました。
その実態がわかった番組です。
太平洋戦争中、民間の船は軍の管理下におかれ、
物資や人員の輸送に船員ごと投入されたそうです。
そのような民間の船のことを「戦時徴用船」と言いました。
戦時徴用船はたいした武器ももたずに戦地に向い、敵機や敵潜水艦から狙われました。
多くの船が沈められ、6万人の船員が戦死しました。
戦死率は43%。これは海軍軍人の3倍近くにのぼります。
昭和57年に37枚の絵画が発見されました。
そのことを伝える記事です。
大阪商船という会社の倉庫から発見されました。
描いたのは大阪商船の嘱託画家・大久保一郎氏。
大久保一郎氏は昭和51年に亡くなっていました。
大久保一郎氏は生前この絵についてはあまり周囲に話していなかったそうです。
傷んでいた絵は、専門家によって修復されました。
絵は戦時徴用船の悲劇を描いたものでした。
大阪商船が誇る客船「あるぜんちな丸」
昭和14年に就航しました。
船の建造には、政府からの補助金が出ていました。
有事の場合にはすばやく空母にするという条件でした。
昭和12年から、政府は高性能商船の建造に補助金を交付する政策
「優秀船舶建造助成施設」を実施していたのです。
「あるぜんちな丸」は空母になりました。その姿の激変に驚きました。
「あるぜんちな丸」と同型の「ぶら志る丸」を大阪商船は持っていました。
昭和17年9月。大阪商船に「ぶら志る丸」が撃沈されたという知らせが入ります。
「ぶら志る丸」も空母に作り直す命令が出て、日本に向かっている最中に攻撃を受けました。
大阪商船の岡田永太郎社長は、大久保一郎氏に、
生存者の話を聞いて記録を残すように命じます。
大久保一郎氏の戦時徴用船の絵はここから始まります。
「ぶら志る丸」の絵です。
攻撃を受けて沈むまでに7分しかなかったそうです。
船長の大野仁助さんは、「天皇陛下万歳」と叫びながら、船と一緒に沈んでいったそうです。
その証言によって描かれた絵です。
↓大野仁助さんです。「仏の仁助」と呼ばれたそうです。きっとそうだろうと思える写真です。
「ぶら志る丸」の「志」には濁点がついていますが、表現できていません。
この番組にはたくさんの絵が出てきます。
どの絵も省略できません。
何回かにわけて投稿して紹介していこうと思います。今回はここまで。
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