« 2012年3月 | メイン | 2012年5月 »

2012年4月

2012年4月24日 (火)

香料業界は秘密に包まれている/アケビの甘味

   

今日は4月24日。

   

おいしいハンバーガーのこわい話」(エリック・シュローサー他著/草思社)を読みました。

1587

  

マクドナルドのことを書いた本です。

「どうせ行っちゃいけないといった本でしょ」

私がこの本を読もうとしていたら、息子がそんなことを言っていきました。

最近息子はマクドナルドにはまっていて、

ちょくちょく出かけています。

息子の予想通りの本でした。

予想以上にスケールが大きな本でした。

マクドナルドをはじめとするファーストフード店が隆盛を極めたことによって、

アメリカでも、日本でも社会が大きく変化したことが書いてありました。

残念ながらいい方向には行っていないのです。

でもこれは、多くの人が選んだ道。この後どう動いたらいいか考えるにはいい本です。

    

香料についての部分が特に興味深かったです。引用します。

   

香料業界は秘密に包まれている。

大手の香料会社がその香り化合物の作りかたを外に洩らすことはないし、

客の名前を明かすこともない。

秘密にすることで、人気のブランドの評判が守られるからだ。

ファーストフード・チェーンとしては、できるなら、

料理の味が生まれるのは店のキッチンだと人々に信じてもらいたい。

はるかかなたの、ほかの会社の工場で生まれているという事実は、知られたくない。 (106p)

     

以前、お茶のペットボトルや缶コーヒーの香料について書きました。

「ブラック缶コーヒー、生茶の中の香料」html

やはり香料については、秘密が多いということで共通します。

    

(アメリカの)香料業界の中心部は、ニュージャージー・ターンバイク(有料高速道)の

4番出口と8番出口のあいだの、石油精製プラントや化学工場がぽつぽつ点在するなかにある。

(中略)50あまりの会社が香料を作っている。

世界でも指折りの香料会社、インターナショナル・フレーバー&フレグランス(IFF)は、

8A出口から少し行った先、デイトンに工場を構える。

工場の中でも、何ともいい匂いが廊下に漂い、こざっぱりとした白衣姿の男女が立ち働き、

何百本もの試験管が、実験台や棚にずらりと並ぶ。  (106-107p)

   

IFFの工場は日本にもあります。御殿場です。※「アイ・エフ・エフ日本株式会社御殿場工場」html

   

特に印象に残ったのはこの文。

この20年間は、食品が作られる過程において、香料業界の役割がとほうもなく大きくなった。

おかげで、いまや多くの子どもたちが、本物の味よりも人工の味を好むようになった。

新鮮な果物や野菜はたいてい、苦味や甘味が混じった複雑な味で、いつも同じというわけではない。

おとな向けの添加物を作るとき、調香師はできるだけ自然の味に近づけようとする。

ところが、子ども向けのものについては、ふつう、苦味を取りのぞいて甘味を加える。

おとな向けの味に比べて甘さが二倍という場合もよくある。

「子どもがいちごに期待する香りは、まったくのべつものです」と、IFFの調香師が言う。

「強烈な、風船ガムののような香りを求めるのです」  (119-120p)

   

自然の複雑な味。子どもこそ、まずこの味を体験すべきなのでは。

人工の味に慣れた後に、たとえばアケビの甘味は理解できないだろうなあ。

百人一首と大津波/波分神社

  

今日は4月24日。

   

4月8日に放映された「NHKスペシャル Ⅱ ② 津波はどこまで巨大化するか

を見ました。

印象的だったのは、遠い過去の大津波の到達地点を示すものが残っていた話です。 

   

番組でのナレーターの語りを聞き書きします。

   

仙台市にある波分(なみわけ)神社。

津波はここまでやってきたと伝えるために「波分」とされたと伝えられています。

今回の震災でも、神社のすぐ近くまで津波が押し寄せました。

RIMG0716
   

仙台市の北、多賀城市。

津波が到達した住宅地のとなりに、「末の松山」があります。

RIMG0719
  

「末の松山 波こさじとは」

百人一首に読まれました。

RIMG0718

貞観(じょうがん)津波のときにも、

ここまでは波が来なかったと言い伝えられています。

   

 

契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは    (清原元輔)

現代語訳 約束したのにね、お互いに泣いて涙に濡れた着物の袖を絞りながら。

      末の松山を波が越すことなんてあり得ないように、決して心変わりはしないと。

※参考「百人一首講座」html

   

波分神社ももちろんですが、この歌の「末の松山」は実在し、

今回もそこには津波は届かなかったというのは、

1000年以上の年月がたっているだけに、スケールの大きな話です。

貞観津波は869年のこと。

清少納言のお父さんである清原元輔は908~990年生没。

貞観津波からあまり時がたっていないので、

「末の松山」に津波が届かなかったという話は、京都に伝わっていた可能性があります。

※参考「備忘録として 末の松山 波越さじとは」30

そして歌に使われたのでしょう。 

クラスでよく百人一首をやって、何度も読んだ歌に、そんな歴史があったなんて・・・・

まだまだ勉強不足でした。

  

   

遠い昔の人たちのメッセージが今回どれほど役に立ったのでしょうか?

地元愛知県も近い将来大震災が起こる可能性が高いです。

昔の人たちのメッセージで、見逃しているものはないのかな。

 

 

 

百人一首の看板/スズムシのマンホール

   

今日は4月24日。

  

4月中旬に長野県に行きました。

 

葬儀があったのは、北安曇郡松川村でした。

そこで出会った景色。

  

RIMG0632
 

RIMG0639
   

通学路を示す看板に、百人一首が書かれていました。

百人一首を身近に、という発想なのでしょう。いいですね。

でもそろそろ修理が必要かと思いました。せっかくのいいものだから。

  

  

RIMG0631
  

鈴虫で村おこしを行っている松川村。

夏には「すずむし小包便」というのを行っているそうです。

マンホールの中央には、マスコットキャラクター「リン太」

その周りに、村の花のレンゲツツジを配しています。

  

久々のマンホールネタ。いつ以来だろう?

「ついに出会ったマンホールASD」html(2011年9月投稿)

デザインマンホールについてはこれ。

「雪の長野4/北向観音境内からの絶景」html(2011年1月投稿)

   

デザインマンホールは、旅先の楽しみ。

シャチの狩り2・・・座礁寸前

   

前投稿のつづき。

   

2月26日放映の「ダーウィンが来た 生きもの新伝説 海の王者シャチ」で、

シャチの驚きの狩りが紹介されていました。

   

アルゼンチンのバルデス半島

その砂浜には、オタリアがいます。

オタリアはアシカの仲間です。

RIMG0638
  

砂浜にいるオタリア。砂浜にいたなら安全ですが、少し海に入ると・・・・

何とシャチが座礁寸前の命がけでやってきます。

そのシーンを連続写真で。

RIMG0629
  

RIMG0630
  

RIMG0631
  

RIMG0632
  

RIMG0633
  

RIMG0634
  

RIMG0635
  

RIMG0636
  

RIMG0637
   

そっとシャチは近づいてきて、自分の身体で大きな波を作り、

その大きな波に自分の身体を隠し、

最後は時速50㎞のスピードでオタリアに迫ります。

映像で見ると、オタリアにしては「ひとたまりもない」状態がよくわかります。

   

この狩りのやり方は、人間がオタリアを乱獲したために、

シャチが海中で泳ぎながら捕獲できなくなってきたので、

このような狩りが始まったと予想されています。

1頭のシャチが成功したことを、他のシャチに伝えたため、

現在7頭のシャチがこの方法で狩りができるそうです。

  

オタリアやアザラシに生まれてこなくてよかったと番組を見て思いました。

シャチの狩り1・・・共同作戦

 

今日は4月24日。

   

2月26日放映の「ダーウィンが来た 生きもの新伝説 海の王者シャチ」を見ました。

シャチのいろいろな狩りの仕方を見て驚きました。

   

南極海。流氷上にいるアザラシ

氷の上におられたのでは、シャチは手を出せない・・・・と思いきや、

予想外の出来事。5頭のシャチの共同作戦

RIMG0618
  

RIMG0619
 

RIMG0620
  

RIMG0621
  

RIMG0622
  

RIMG0623
   

5頭のシャチが並んで泳いで波を起こし、

流氷の下を通過。

流氷は大きく揺れて、たまらずアザラシはこの後海中へ。

何と頭のいい作戦。シャチはお互いに声を出して連絡をとりあっているそうです。

驚き。(つづく)

オルセー美術館4・・・「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」(ルノワール)

今日は4月24日。

3月5日と12日に、「極上美の饗宴」という番組で、

オルセー美術館の特集をしていました。

いつも思いますが、関心を持つとテレビが味方してくれます。

こちらの好奇心を満たす手助けをしてくれます。

3月5日はルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」について1時間じっくり勉強できました。

20081112_616450
「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」(1876年) 131× 175 cm

RIMG0616オルセー美術館の「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」

RIMG0620ルノワール

印象に残ったことをここに書きとめます。

1870~1871年にフランスはドイツと戦争をします。(普仏戦争

準備万端のドイツの前にフランスは敗れます。

RIMG0625

その後フランスは政府軍と革命政府(パリ・コミューン)との内戦状態になり、

パリは戦火にさらされました。

RIMG0626 RIMG0628
RIMG0629 RIMG0630

RIMG0631 RIMG0639

ルノワールもフランス軍として普仏戦争に参加。

戻ってきたら、パリは内戦で悲惨な状態でした。

多くの画家がパリを離れたが、ルノワールはパリに残って絵を描いていました。

しかし、写生をしているときに、革命軍にスパイと思われて逮捕されます。

当時逮捕者は街中で銃殺されていました。

ルノワールも銃殺されそうになりましたが、かろうじて助かります。

その直後悲報が届きます。

友人であり、画家であったバジールが、普仏戦争で戦死した知らせです。

RIMG0621

友人の死で、あらためてルノワールの戦争への怒り・悲しみの感情を体験します。

内戦は2か月に及び、パリは炎上。最後は政府軍が革命軍を鎮圧しました。

血の一週間」と呼ばれる戦闘では、3万人が死亡。

革命軍の根拠地のあったモンマルトルには、数多くの遺体が並べられたそうです。

5年後。内戦の傷跡が残るモンマルトルで、

ルノワールが描いたのが「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」でした。

悲劇を連想するものは一切描かれてはいません。

ルノワールは傷ついたパリの人たちに、

絵で癒しを与えようとしたと考えられているようです。

この絵によって、モンマルトルは悲劇の場所ではなく、楽しい場所のイメージになりました。

RIMG0618 ※「ムーラン」は風車の意味


RIMG0619

ルノワールは、モンマルトルで恵まれない子どもたちを救済する施設を作る活動を始めます。

ダンスホールを貸し切って、チャリティをします。

ダンスをしに来た人たちから寄付をもらい、その代わりに流行のカンカン帽をプレゼントしたそうです。

RIMG0643

ルノワールの奔走により、子どもたちの施設は完成しました。

RIMG0644

絵の中に描かれている子どもたちやカンカン帽はそんなルノワールの思いが込められています。

RIMG0645 RIMG0646 ※踊りはポルカだったようです。

ルノワールは絵でも、行動でも、明るさを求めました。

ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会

木漏れ日があり、色づかいも、題材も明るい絵ですが、

当時のパリは、悲惨な戦いの後の暗い時代でした。

人々への光明になることを目指したかもしれない絵だったんだと、この番組で思いました。

普仏戦争とその後のフランスの内戦は、当時の絵画に影響を与えたことを感じました。

特に普仏戦争・・・10年ぶりくらいに復習しました。

「オルセー美術館」シリーズは明日につづきます。

 

オルセー美術館3・・・「カササギ」「サン・ラザール駅」他(モネ)

  

今日は4月24日。

  

オルセー美術館の名画101選」(監修 島田紀夫/小学館)を見て、

いいなあと思った絵を載せています。

   

クロード・モネ(1840~1926年)の作品もよかったです。

3つ載せます。

EPSON090雪
「カササギ」(1868~1869年)  89×130cm

雪に日差し。こういう風景が好きですね。

こういう風景を求めて雪のある山に出かけます。

空気がピリッとして、静寂。この絵からも伝わってきます。

   

EPSON089駅
「サン・ラザール駅」(1877年) 75.5×104cm

駅舎の建物がつくる五角形のまぶしい明るさ。

乱反射のためか、全てのものの輪郭があいまいなのがいいです。

汽車の煙もその明るさに溶け込んでいます。

格好いい絵です。

  

EPSON088日傘
「戸外の人物試作/日傘の女性 左向き」(1886年) 131×88cm    

風とキラキラする日差しで、画面全体が動き出しそうな絵です。

さわやかな絵です。

モデルは2人目の妻になるシュザンヌ。

モネは1人目の妻カミーユと息子をモデルに同じような絵を以前書いています。

Viewimg
「散歩、日傘をさす女性」(1876年)

カミーユは、この絵が描かれた4年後に病死。

それ以後、モネの絵から人物が消えたそうです。

そして久々人物を描いたのが「戸外の人物試作」だったそうです。

この2枚の日傘をさした女性の絵をモチーフに、

作曲家八木澤さんという方が、曲を作ったそうです。

こうやって絵にかかわる方がいるんだと思って興味を持ちました。

サイトに書かれている内容も勉強になりました。よかったら見てみてください。

「八木澤教司公式ホームページ ”散歩 日傘をさす女性”」56

 

 

オルセー美術館2・・・「刈り入れ人への支払い」(レールミット)

   

今日は4月24日。

   

フランスのオルセー美術館にはどんな絵があるか興味をもち、次の本を手に入れました。

オルセー美術館の名画101選」(監修 島田紀夫/小学館)

   

見たことがある絵、初めて見る絵、さまざまでした。

お気に入りは、レオン・レールミット(1844年~1925年)の作品。

  

EPSON087
刈り入れ人への支払い(1882年) 215×272cm

   

左の農夫の堂々とした態度、体つきがいい。

説明はこう書いてありました。

  

本作では、農民たちが労働を終え、刈り入れ作業の賃金を受け取る様子が描写されている。

画面中央で報酬を確認する妻子連れの姿や、

その左で休んでいる農民の堂々とした態度には、働くことに対する充足感が現れている。 (45p)

  

堂々とした農夫が持っている農具がすごい。

日本では見かけない道具です。

オルセー美術館・・・「床を削る人々」(カイユボット)

  

今日は4月24日。

    

テレビ愛知(テレビ東京系)で2月25日・3月3日に放映された「美の巨人たち

フランスのパリにあるルーブル美術館、オルセー美術館の特集でした。

ちょっと無駄な映像が多かった・・・とにかく勿体ぶりすぎ。

編集したら1回の放映ですんだ情報量だと感じました。

   

印象に残ったのは、ギュスターヴ・カイユボット(1848年~1894年)の話。

オルセー美術館には、印象派と呼ばれる人たちの作品がたくさんあるとのこと。

印象派の人たちは、19世紀の後半に登場するも、画壇では認められませんでした。

カイユボットは、そんな印象派の人たちに資金援助をして支えたとのこと。

その後印象派の画家たちは、しだいに認められブームになっていきます。

カイユボットの支えは貴重だったようです。

カイユボットは自らも作品を制作し、オルセー美術館に飾られています。

これがなかなかいい。

  

 Img_1601212_49659596_0
 床を削る人々(1875年) 102×146.5cm

2月17日以来の”教師”/今年のハナミズキ

  

今日は4月24日。復帰まであと8日。

   

5月2日にいよいよ復帰。それに向けて準備中。

昨日は午前中出勤。

今年度初めて子どもたちの前に立ちました。

2月17日以来の”教師”でした。

今年度は低学年の特別支援学級の担任。初体験。

昨日は担任する子たちが通う1年普通学級で過ごしました。

私がこれからかかわる子どもたちとの初対面。

私が今年度いただいた舞台を確認。

どんな日々が始まるかワクワクする気持ちと、

勉強が必要だと感じました。

   

    

午後は帰宅。

大安で日がよかったこともあって、五月人形を飾りました。

今回休んでいる間に、雛人形と五月人形を飾ったことになり、

たくさん休んだとあらためて感じました。

   

最近はハナミズキの花に目が行きます。

奥さんは赤いハナミズキが好きだそうですが、私はやっぱりこの色だなあ。

昨日の帰り道(いつもとは違う道)の傍らにあった木です。

RIMG0730
  

RIMG0729
   

   

ハナミズキの隣には、ハナズオウの大きな木もありました。

2年前から気になっている木です。

RIMG0727
  

RIMG0728
   

   

通常の通勤路とは違った道を走ると、新たな発見があります。

ここにこんな木があったんだと思いながらの帰りでした。

   

 

    

 

 

 

 

最近の写真

  • Img_3905
  • Img_3904
  • Img_3899
  • Img_3898
  • Img_3897
  • Img_3895
  • Img_3894
  • Img_3893
  • Img_3891
  • Img_3890
  • Img_3889
  • Img_3888

楽餓鬼

今日はにゃんの日

いま ここ 浜松

がん治療で悩むあなたに贈る言葉