オルセー美術館4・・・「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」(ルノワール)
今日は4月24日。
3月5日と12日に、「極上美の饗宴」という番組で、
オルセー美術館の特集をしていました。
いつも思いますが、関心を持つとテレビが味方してくれます。
こちらの好奇心を満たす手助けをしてくれます。
3月5日はルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」について1時間じっくり勉強できました。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」(1876年) 131× 175 cm
印象に残ったことをここに書きとめます。
1870~1871年にフランスはドイツと戦争をします。(普仏戦争)
準備万端のドイツの前にフランスは敗れます。
その後フランスは政府軍と革命政府(パリ・コミューン)との内戦状態になり、
パリは戦火にさらされました。
ルノワールもフランス軍として普仏戦争に参加。
戻ってきたら、パリは内戦で悲惨な状態でした。
多くの画家がパリを離れたが、ルノワールはパリに残って絵を描いていました。
しかし、写生をしているときに、革命軍にスパイと思われて逮捕されます。
当時逮捕者は街中で銃殺されていました。
ルノワールも銃殺されそうになりましたが、かろうじて助かります。
その直後悲報が届きます。
友人であり、画家であったバジールが、普仏戦争で戦死した知らせです。
友人の死で、あらためてルノワールの戦争への怒り・悲しみの感情を体験します。
内戦は2か月に及び、パリは炎上。最後は政府軍が革命軍を鎮圧しました。
「血の一週間」と呼ばれる戦闘では、3万人が死亡。
革命軍の根拠地のあったモンマルトルには、数多くの遺体が並べられたそうです。
5年後。内戦の傷跡が残るモンマルトルで、
ルノワールが描いたのが「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」でした。
悲劇を連想するものは一切描かれてはいません。
ルノワールは傷ついたパリの人たちに、
絵で癒しを与えようとしたと考えられているようです。
この絵によって、モンマルトルは悲劇の場所ではなく、楽しい場所のイメージになりました。
ルノワールは、モンマルトルで恵まれない子どもたちを救済する施設を作る活動を始めます。
ダンスホールを貸し切って、チャリティをします。
ダンスをしに来た人たちから寄付をもらい、その代わりに流行のカンカン帽をプレゼントしたそうです。
ルノワールの奔走により、子どもたちの施設は完成しました。
絵の中に描かれている子どもたちやカンカン帽はそんなルノワールの思いが込められています。
ルノワールは絵でも、行動でも、明るさを求めました。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」
木漏れ日があり、色づかいも、題材も明るい絵ですが、
当時のパリは、悲惨な戦いの後の暗い時代でした。
人々への光明になることを目指したかもしれない絵だったんだと、この番組で思いました。
普仏戦争とその後のフランスの内戦は、当時の絵画に影響を与えたことを感じました。
特に普仏戦争・・・10年ぶりくらいに復習しました。
「オルセー美術館」シリーズは明日につづきます。
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