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2012年4月

2012年4月23日 (月)

2012年4月はじめの大川入山

   

今日は4月23日。再スタートから10日目。

  

昨日3月終わりに大川入山に登ったことを書きました。

その後、雪が降ったという情報。

これは登るしかないと思い、ちょうど1週間後の4月はじめに再び登りました。

   

朝の道路には雪があり、冬タイヤを交換していなくてよかったと思いました。

先に書いたように、冬用タイヤはこの日やっと役に立ちました。

   

4月はじめの大川入山の写真。12枚厳選します。

  

RIMG05761枚目 登山口の様子。

一週間前との違いがよくわかります。

1週間前はここに全く雪はありませんでした。

3 一週間前の登山口

  

RIMG05792枚目 おそらく4月3日の爆弾低気圧による大風で倒れた木。
  

RIMG05863枚目です 雪化粧をして待ち構えてくれていた?大川入山。  

RIMG06034枚目
  

RIMG06075枚目
   

RIMG06166枚目
  

RIMG06247枚目 雪面上の木漏れ日は大好きです。癒されます。

印象派の画家に描いてほしい風景です。
  

RIMG06298枚目 天気はころころ変わりました。

頂上に近づくと風雪が激しくなりました。

  

RIMG06349枚目 「坂の上の雲」の場所。(昨日の「3月終わりの大川入山」参考)

今回はすべて雲でした。

RIMG066813枚目 枝に湿った雪が張り付いていました。     

RIMG064410枚目 頂上への道。1週間前もこの日も、大川入山は独り占め。
  

RIMG065611枚目 頂上。長く滞在できませんでした。風強し。
  

RIMG068112枚目 熊笹の上に雪が積もり、奇妙な景色を作っていました。
  

   

よく行く山ですが、新雪でまったく足跡がないところを歩くので緊張しました。

道を間違えないように気をつけました。

2か所ほど心配なところがあります。

そこでは赤テープを確認しては、慎重に歩きました。

雪は湿っていて、足によく張り付く雪でした。

登山中に降った雪の粒が雪面に散らばっていて、

その状態は何かに似ているぞと思って歩いていました。

急に思いつきました。

甘酒です。甘酒のような雪面を歩いてきました。 

   

この登山の直後、冬用タイヤを交換しました。  


   

 

高山のパン職人さん

   

今日は4月23日。再スタートから10日目。

   

2月27日放映の「ザ・プロフェッショナル 仕事の流儀 パン職人 成瀬正」を見ました。

RIMG0613
   

これはクロワッサンの断面。

この27層に分かれた生地が、絶妙な歯ごたえ・食感を味わわせてくれるそうです。

 

この番組で心に残ったこと。 

   

「なあなあでやるな」

惰性を許すな。

パン作りは同じ工程の繰り返し。

緊張感がなくなれば、進歩は止まる。

   

東京の有名ホテルで修行して、地元高山でパンのお店を開店。

しかし、お客が来ない。でもその時に思ったこと。

続けることが、理解されることにつながる。

そうだ。続けていることが、その人を表しているんだ。

   

フランスの田舎で優秀賞をとった職人が、

地元の人たちのためにパンを焼いている姿を見て・・

うらやましいと思った。

ここの人たちは、この優秀賞をとったパンを食べることができる。

これなんだと思った。

この場所(高山)で誇りとされるパン屋になろう。

高山の人って幸せだよね。

トラン・ブルーのパンが食べられて。そう言われるようになろう。

   

高山には、パン屋が少ない。

住民には選択肢が少ない。

選択肢が少ないからこそ、最高のものを作ろう。

ここしかパン屋がないからという甘えはしない。

そんな姿勢も勉強になった。

   

成瀬さんは51歳。私もなりたての51歳。

追究心は負けないように努めていこう。

成瀬さんも番組中に言っています。

みんな訓練中だと思います。自分も含めて

私も訓練中。完成はしない。ずっと追究。

 

4月はじめの菜の花/屋根の上の神様

   

今日は4月23日。再スタートから10日目。

  

前投稿でサクラのことを書きました。

今回は4月はじめに見かけた菜の花の写真。

   

RIMG0652自動車の窓から
  

家の近所の川岸では、毎年菜の花が咲き乱れます。

橋の上で停車したついでに、車中から撮影。

  

   

RIMG00334月初めの三明寺

昨年からブログによく登場の三明寺と菜の花です。

菜の花は、3月からず~と息長く楽しめました。

これも寒い冬だったせいかな。

今は、先日も書いたようにポピーが咲き始めています。

  

   

上の三明寺の撮影をした同じ日に、近所で屋根の上にあるものに目が留まりました。

RIMG0034屋根の上の孔子?
   

何だこれ?

調べました。

  

鍾馗(しょうき)」という神様の像でした。

京都では特にたくさんあるそうです。

何と、この鍾馗さんの写真を多く載せた本が2月に発行されていました。

どの道でもこだわっている人あり。

いいなあ、人間。

4d73e971
http://michikusa-ac.jp/archives/3829560.html

   

本の著者のブログです。

http://kite5656.asablo.jp/blog/

 

   

    

 

  

 

4月はじめのサクラ

  

今日は4月23日。再スタートから10日目。

   

3月中旬~4月はじめに見かけた景色をここに載せます。

   

RIMG0606長篠河津桜 RIMG0604河津桜アップ
3月中旬の新城市の河津桜

例年なら開花していると思いますが、今年はまだ早かったです。

    

    

RIMG0606長篠河津桜 RIMG0015河津桜アップ
18日後の4月はじめ、同じ場所に行きました。さすがに咲いていました。

もう葉桜になりかけていました。

   

   

4月はじめ、家の近所で信号待ちしていたら、すぐ近くの家の庭に目が留まりました。

RIMG0604モクレンと桜

    
少しわかりにくいかもしれませんが、

大きなモクレンの手前に、小さな桜。

両方とも花盛りでした。

今年は同じ時期に河津桜、モクレン、桜、そしてコブシまで見られました。

寒かった冬のおかげで、今年の4月のはじめはなかなかよかったです。

   

   

やっぱり4月はじめ。大きな桜の並んでいる場所に行きました。

RIMG0636西門橋付近の桜 RIMG0638西門橋付近の桜2

RIMG0639桜のアップ
   

   

今年もちゃんと春が来ました。少々遅くなりましたが。  

   

 

   



「テレビから」始まる追究/妥協しないところ

   

今日は4月23日。再スタートから10日目。

  

こんなブログに出会いました。

「TVから世界へ!きりまくる/素晴らしきドキュメンタリー!テレビから世界へ情報発信」/

   

「TVから」「テレビから」という言葉に気がとまりました。

さらにこんな文章あり。

   

世界のことが気になります。世界は広いのでしょうか?狭いのでしょうか? 

色んなことを知れば知るほど、知らないことが増えてきます。                     

興味がどんどん膨らんで、見逃せなくなります。いわば、ドキュメンタリー依存症です!

   

似ているなあ、自分の発想に。そう思いました。

ドキュメンタリー依存症」という言葉を見て、

自分もこの症状があるなあと気づきました。

さらにうれしい言葉が・・・・

   

色んな国に興味がありますか? 

テレビでも色んなことを知ることができます。でも、見る時間がないというあなたに!

   

つまり、あまりテレビを見る時間がない人に、

ドキュメンタリー番組の内容をまとめたものを提供してくれるブログです。

ありがたいです。

番組を見たけど、あらためて内容をおさらいするときにも参考になります。

   

「テレビから」という発想は、絶対にいいと思います。

知らないことを知って、そこをスタートに追究が始まる

そんな体験を何度もしてきました。

現在は、フェルメール、ブリューゲル、パリにあるルーブル美術館、オルセー美術館など

美術に関する追究中です。

偶然番組を知って見なければ、始まらなかった追究です。

  

これからも「テレビから」を続けていくことでしょう。

   

ザ・プロフェッショナル 仕事の流儀 石岡瑛子」を見ました。

2011年2月に放映されたものの再放送(1月30日放映)

O0490027511768470223
http://ameblo.jp/kirimarukun/entry-11152419200.html

世界的な活躍をしたデザイナーです。

妥協しない仕事っぷりがすごい。

あの自信が、自分からするとうらやましい。

上記のブログの方はこう書いていました。

   

「1ミリが、世界を変える」 というのは、私にも解る。

仕事経験が長くなればなるほど、妥協をしなくなる。

「ここを0.5ミリ詰めて・・」 などと、後輩たちに指示したものだ。 それが、プロというものだろう。

http://ameblo.jp/kirimarukun/entry-11152419200.html 

  

仕事経験が長くなればなるほど、妥協をしなくなる。」

この言葉は重い。

自分は長年教師をやってきたが、妥協しない部分は何があるんだろうか?

それは経験に裏打ちされたものであって、その人の財産です。

私にはどれだけ財産があるのだろう。いつか客観的に考えられるときに、書き並べてみたい。 

 

 

 

「逆鱗」「席巻」の読み方修正

  

今日は4月23日。再スタートから10日目。

  

先日は「必須」を「ひっすう」と読んでいた積年のミスに気がつきましたが、

今回、また気がつきました。

3月14日放映の「ザ・今夜はヒストリー 聖徳太子」を見ているときでした。

この場面・・・

RIMG0687
  

聖徳太子は隋に小野妹子を派遣しました。

妹子は、隋の皇帝煬帝に、聖徳太子からの文書を渡しました。

RIMG0688
   

その文書が煬帝の逆鱗に触れた!

この「逆鱗」・・・「ぎゃくりん」と思っていました。

げきりん」だったのですね。

ナレーターさんの言葉でわかりました。

   

【逆鱗】=(逆に生えた竜のうろこの意で,これにふれると竜が怒る故事から)天子の怒り。目上の人の怒り。

  

逆鱗はどこにあるか?

次のブログの絵がわかりやすいです。

「ユーモア話術をご紹介 逆鱗に触れる」html

  

    

もう一つ、読み方の違いに気がついた漢字。

席巻

これを「せっかん」と読んでいました。

調べてみたら、

「せっかん」とも読みますが、「せっけん」が正しい読み方のようです。

言われてみれば「せっけん」と読んだイメージもありますが、

あまり使わない言葉だけに、あいまいでした。

「外国資本が国内市場を席巻した」といった具合に使い、

「はげしい勢いで自分の勢力範囲を広げる」意味です。 

「消えた春」・・・特攻隊の人たちの気持ち

  

今日は4月23日。再スタートから10日目。

   

前投稿に引き続き、「消えた春 特攻に散った投手石丸進一」(牛島秀彦著/河出文庫)より。

 

先に読んだ、同じく戦争で死んだプロ野球投手広瀬習一さんのことを書いた本

戦火に消えた幻のエース」とは違って、

プロ野球で活躍した場面は少なく、召集以後の場面が多い本でした。

どちらもありかなと思います。

2人とも大の野球好きだったけど、戦争によってそれが遮られたことが伝わってきます。   

   

石丸進一の場合、恋人桜井圭子との恋が無残でした。

進一が圭子に恋い焦がれ、互いに好きあっていることがわかる。

進一が特攻に志願したことに気づいた圭子は、

死ぬな、私と逃げようとまで言う。

しかし、進一の出撃前に圭子は空襲によって命を失う。

そして進一は、死んで圭子と出会うことを楽しみに?出撃していく。

    

出撃命令が下った進一の様子を著者はこう書いています。

   

第五筑波隊の特攻出撃は、最初(昭和20年)4月30日の夜になって、

翌朝5月1日であることが突然言い渡された。

早晩出撃命令が下るーーーーと覚悟はしていたものの、全員集合がかかり、

あらためて出撃特攻隊員名簿の三番目に自分の名前が呼び上げられると、

進一は、自分の顔から、みるみる血の気が引いていくのをはっきり感じた。

明日の今の時刻には、自分はもう此世に居ないんだーーーーと思うと、

奈落の底に落ちて行くような、頭のなかが全く空白になったような虚脱感が全身を襲った。

お頭付きの鯛の煮付けと野菜の煮物、そしてみそ汁と沢庵の夕食も、

ほとんど箸をつけず、教室の一隅に敷いてある粗末な畳の上にひっくりかえった。 (273p)

   

ひっくりかえった気持ちはわかる・・つもり。

明日の今頃には、自分はこの世にいない。恐ろしい体験だ。

  

進一の出撃は、天候不順のために5月11日まで延期となる。

しかし、後の時代にわかる終戦の日(8月15日)はまだやってきませんでした。

進一は午前6時55分に出撃します。

   

著者は、進一の最期を、一生懸命想像力を働かせてこう書いていました。

   

雲海を突き抜けると、其処は思わず息を呑むような真紅の幻想の世界が果てしなく広がっていた。

目も眩むばかりの太陽を横に見て進むほどに、

真紅の朝焼けは、薄桃から橙、そして黄にめまぐるしく変化して行く。

天界が一面黄金色に染まったとき、圭子の顔が進一の視界いっぱいに広がった。

「もう、ここから先に行っちゃダメ!どこでもいいから不時着して頂戴!絶対に死んじゃいやーっ!」

圭子は、身を捩って絶叫した。

その瞬間、進一は、圭子の顔いっぱいに無数の銀粒がふきだし、それは見る間に、

それぞれが胡麻粒大になって顔一杯にひろがったのを見た。

来た、グラマンの大群だ!(援護の)制空隊の零戦はあっという間もなく火をふき、

黒煙を発して空中爆発を起こすか、キリモミ状態になって逆落としになって落ちていった。

進一の機は、無意識のうちに太陽に向かって飛んでいた。前方を見ると、目が眩んだ。

まずいーーーと思った瞬間、鉄棒で鼻柱を思いっきり殴られたような衝撃を感じる間もあらばこそ、

全世界が、火を吹き出し、全てが真っ紅になった。

進一の特攻機には、前後のグラマン機がピラニアのように喰いつき、

25番(250キロ爆弾)を吊ったよたよたの零戦めがけて撃って撃って撃ちまくっていた。

それこそ全身蜂の巣のように弾丸を撃ちこまれながら、どっと吹き出す血海のなかで、

進一は、苦悶の声もなく、薄紫のマフラーを掻きむしり、

飛行服のポケットのなかの圭子の写真に左手がわずかに触れたとき、

特攻機は紅蓮の炎を一気に吹上げて、空中爆発した。 (291p)

EPSON088特攻姿石丸進一・・「消えた春」より

   

特攻隊の人たちは、死ぬ直前にどんなことがあり、

どんなことを思ったのか考えます。

こんな思いをしたくない。やっぱり戦争は絶対やっていはいけないことだと思う。
   

 

   

   

 

 

  

 

小鶴誠の言葉「ボールが止まって見えた」

  

今日は4月23日。再スタートから10日目。

  

戦中のプロ野球選手の本をまた読みました。

消えた春 特攻に散った投手 石丸進一」(牛島秀彦著/河出文庫)です。

石丸進一については以前書きました。

「日本プロ野球復活の日」1 大下弘/石丸進一html

   

石丸進一と同僚だった小鶴誠に注目。

本にあった写真を載せます。

EPSON088
   

同じ名古屋軍でした。

※戦時中のユニフォーム。

名古屋軍の「名」は、日本の同盟国ドイツのナチスのハーケンクロイツをまねていました。

でもこれは逆向きだから卍(まんじ)かな。

   

小鶴誠について調べていて、自分の思い違いに気がつきました。

彼は1950年に51本のホームランを打ち、王貞治に塗り替えられる前の日本記録者でした。

同年に記録した打点161打点は、いまだに破られていない記録です。

彼はこの時こう言います。

ボールが止まって見えた

  

あれ?これは川上哲治の言葉では?

でも小鶴誠の言葉でした。

   

川上哲治の言葉として有名な「ボールが止まって見えた」は、小鶴が50本塁打を放った際の言葉である。

不人気球団を渡り歩いた小鶴では記事にならないと、報知新聞記者が川上の言葉に捏造したものである。

当時の巨人絶対主義は今日の比較ではなく、そのまま定着してしまった。(「Wikipedia 小鶴誠」0

   

そりゃあいかん。この言葉は、本当に言った人の言葉にすべきです。

  

  

  

  

後記:「ボールが止まって見えた」に関する記事は、

その後Wikipediaから消去されました。

報知新聞記者の捏造が捏造の可能性もあります。

引用の難しさを感じました。(2019年12月1日記)

「戦火に消えた幻のエース」 広瀬習一と神田武夫

  

今日は4月23日。再スタートから10日目。

     

以前、戦前の巨人軍で投手として活躍し、

戦争に召集され、戦死した広瀬習一選手のことを書きました。

「日本プロ野球復活の日」2 野口明/広瀬習一」html

   

もっと詳しく知りたいと思い、

本「戦火に消えた幻のエース 巨人軍・広瀬習一の生涯」を読みました。

Kairi1958-96319

著者の上田龍さんは、野球史研究者という肩書もあり、

この本の中でも、文章の下に関連のミニ知識が書かれていて、

読破した時には、戦前戦後の野球に詳しくなった気分になりました。

  

1941年のシーズン途中に巨人に入団。8勝。

そして翌年1942年には21勝。

沢村栄治の力が衰え、スタルヒンが重病で、

巨人投手陣が手薄な時に、巨人に貢献した投手、それが広瀬習一投手でした。

この本で、広瀬習一には、高校時代からのライバル神田武夫(南海入団)の存在が大きかったことを知りました。

南海と対戦して、相手が神田だと、広瀬は燃えたようです。

   

下の写真は、「戦火に消えた幻のエース」より。

EPSON089広瀬習一広瀬習一

EPSON090神田武夫神田武夫(かんだたけお)

   

神田武夫について引用します。

   

神田武夫(1922-1943年)

京都市出身。京都商では快速球と鋭いカーブを武器に「沢村二世」の異名を取り、

1940年春の選抜では決勝に進出するが、大島信雄を擁する岐阜商に惜敗。

卒業後南海に入団し、1年目(1941年)に25勝、翌年も24勝をマークしたが、

これは南海の2シーズンの勝ち星92の半分近い数字だった。

京都商卒業前から胸を患っており、プロ入り後は肺結核を発症。

1943年、開幕から欠場して療養に努めたが、

7月27日、京都の自宅で22歳の若さで世を去った。

現役時代の背番号「19」は、戦後、野村克也が背負ったことでも知られる。  (66p)

   

戦争に多くの選手が召集されていたため、投手の人数も少なかったようです。

その中で酷使された・・神田投手も進んで投げたようです。

その結果体を壊し、死期を早めたと思います。

24勝した翌年に亡くなってしまうなんて・・それも22歳。無念だったと思います。

   

そして翌年の1944年に広瀬習一も戦地で亡くなります。

日本プロ野球復活の日」(鈴木明著/集英社文庫)では、

その死については詳しくは書いてありませんでしたが、

この本には書いてありました。

1944年9月13日。フィリピンレイテ島での戦闘中、

本部に応援を求めに行く役を志願し、川を横切っている最中に銃撃され、

習一は激流に流されてしまったそうです。

   

1941年~42年に、巨人と南海で活躍した2人の投手。

もっともっと野球をしたかったのに、結局戦争がそれを阻みました。

この本は、2人の伝記になっているなと思って読みました。

こんな2人がいた。ちゃんといた。

七田忠昭さん定年退職


今日は4月23日。再スタートから10日目。

    

3月12日の朝日新聞夕刊でこんな記事を見つけました。

EPSON087吉野ヶ里の記事

   

考古学ファンのレベルではありませんが、七田忠昭さんの名前は知っていました。

授業で使った「プロフェッショナル 仕事の流儀 王が眠る神秘の遺跡」(2002年放映)の中に、

七田忠昭さん、佐原真さんが登場します。

この映像については、ここに書きました。

「吉野ヶ里遺跡の映像を見る」html

「吉野ヶ里遺跡は、やっと残った」html

   

プロフェッショナル 仕事の流儀」では、遺跡に来て佐原さんが鑑定する場面が、

ドラマチックに表現されていました。

ギリギリで、貴重なものが発見されて、遺跡の価値が証明されたといった感じで。

この記事によると、事前に七田さんと佐原さんは綿密に打ち合わせをしていたとのこと。

フムフム・・・?まあいいか。

   

最後の文章。

   

経済の低迷で大規模開発が減り、

大がかりな発掘調査も少なくなった。

七田さんの引退には、

古代へ思いをはせる余裕を失いつつある日本の現状も重なる。

    

思いをはせる余裕を持ちたいです。

せめて授業では。

映像「プロフェッショナル 仕事の流儀 王が眠る神秘の遺跡」はお薦めです。

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