「南京の真実」・・・ラーベの心意気
今日は4月15日。再スタートから2日目。
前投稿のつづき。久々の投稿なのに、重たい内容が続きます。こんなことも休み中に調べていました。
こんなんじゃ、病気がよくならないよ・・・と言われそう。
今回も「南京の真実」(ジョン・ラーベ著/講談社)より。
日本軍が南京に入場して以後の日記を転記してみます。
1937年12月13日 ※日本軍が南京入場をした日
(前略)
町を見まわってはじめて被害の大きさがよくわかった。
100から200メートルおきに死体が転がっている。調べてみると、
市民の死体は背中を射たれていた。
多分逃げようとして後ろから射たれたのだろう。
日本軍は10人から20人グループで行進し、略奪を続けた。
それを実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。
彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第盗んだ。
食料が不足していたからだろう。
ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。
(中略)
日本軍につかまらないうちにと、難民を125人、大急ぎで空き家にかくまった。
韓(※ラーベと同じ会社に勤める中国人アシスタント)は、近所の家から
14歳から15歳の娘が3人さらわれたと言ってきた。
ベイツ(※大学教授)は、安全区の難民たちがわずかばかりの持ち物を奪われたと報告してきた。
日本兵は私の家にも何度もやってきたが、
ハーケンクロイツの腕章を突きつけると出ていった。
アメリカの国旗は尊重されていないようだ。
仲間のソーンの車からアメリカ国旗が盗まれた。 (110~111p)
当時の日本は、ドイツと防共協定を結んでいました。
仲間の国でした。そしてラーベはナチ党員だったので、
日本軍にハーケンクロイツを見せたのです。
12月18日
最高司令官がくれば治安がよくなるかもしれない。
そんな期待を抱いていたが、残念ながらはずれたようだ。
それどころかますます悪くなっている。
塀を乗り越えてやってきた兵士たちを、朝っぱらから追っ払わなければならない有様だ。
なかの一人が銃剣を抜いて向かってきたが、私を見るとすぐにさやにおさめた。
私が家にいるかぎりは、問題はなかった。
やつらはヨーロッパ人に対してはまだいくらか敬意を抱いている。
だが、中国人に対してはそうではなかった。
(中略)
危機一髪。日本兵が2人、塀を乗り越えて入りこんでいた。
なかの1人はすでに軍服を脱ぎ捨て、銃剣をほうり出し、
難民の少女におそいかかっていた。
私はこいつをただちにつまみ出した。
もう1人は、逃げようとして塀をまたいでいたので、
軽く突くだけで用は足りた。 (126-127p)
ここには転記するのがはばかれるような状態が、
日記には多く書かれています。
それらの惨状を見てラーベはこんなことを思います。
12月24日
(前略)
この1週間、おびただしい数の死体を見なくてはならなかった。
だから、こういうむごたらしい姿を見ても、もはや目をそむけはしない。
クリスマス気分どころではないが、この残虐さをぜひこの目で確かめておきたいのだ。
いつの日か目撃者として語ることができるように。
これほどの残虐な行為をこのまま闇に葬ってなるものか! (139-140p)
この時のラーベの気持ちはすごく共感できます。
誤訳とか、マイナス情報もありますが、
このラーベの心意気の部分が誤訳でないと信じたい。
南京から逃げようと思えば逃げられたのに、南京にとどまり、
安全区を作って、非戦闘員の難民を助けようとしたラーベの見たことは、
大事にしたいと思う。
戦争が人間を狂わせる現実を。 (まだつづく) 明日の朝、うつことにしよう。
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