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2007年8月19日 (日)

伴一孝先生の「長篠・設楽原の戦い」の授業

昨日は静岡に出向き、伴一孝講座in静岡に参加。

200人ほどの教師が参加とのこと。

いろいろな地域から駆けつけ、伴先生の言葉を聞き洩らさずメモしようとするやる気満々の人たちを見ると、自分もがんばろうという気持ちにさせてくれます。

集団の力、一緒に勉強をすることによる波及効果でしょう。

学級もこんな知的な集団になれば強い。

      

伴先生は3本、授業を披露してくれました。

そのうちの1本が、「長篠・設楽原の戦の真実」(私が勝手に命名)

長篠・設楽原の戦で、武田の騎馬隊が馬防柵をめざして突入したことになっているが、

当時の馬はポニーのように小型で、速力も時速9㎞。

あくまで移動のための動物で、いざ戦う時には武者は降りて戦ったという話。

織田軍の鉄砲隊は、三段撃ちをしたということになっているが、

守備ラインの距離と鉄砲の所持数から考えて、三段撃ちをした場合、

鉄砲を撃つ人と撃つ人の間隔は20メートル程になり、隙だらけであったという話。

長篠・設楽原の戦以後、武田家は滅亡に至るといった先入観があるが、

武田勝頼はその後駿河を攻めたりしており、

また信長から勝頼に宛てて、「一緒に謙信を倒そう」という手紙を出しているとのこと。(この手紙は面白そう。一度は戦って粉砕した相手に同盟の誘いをしている。)

勝頼が天目山の戦いで敗れて自害するのと、信長が本能寺の変で自害するのは2か月しか違わなかった話。イメージだと、はるかに勝頼の方が早死にしていると思っていました。

   

最近設楽原に行ったり、火おんどりを見たばかりだったので、特に興味を持って見ました。

歴史上の出来事は、最新の研究によって解釈が違ってくることもある。新しい情報をしっかりつかまえて、真実を探っていこう。それが授業のテーマかな。

馬から下りて戦ったこと、信長が勝頼に同盟を誘う手紙を送ったことなどは、家に帰ってからインターネットで調べました。

毎日新聞のサイトが、長篠・設楽原の戦の真実について詳しく触れていました。

http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/nazo_nihon4.html

このサイトで紹介されていた本2冊、

「戦国合戦の虚実~日曜歴史家の誘い」(鈴木真哉著/講談社)

「長篠・設楽原合戦の真実~甲斐武田軍団はなぜ壊滅したか」(名和弓雄著/雄山閣出版)

は、さっそく手に入れて読みたい。

どうも最近は長篠・設楽原の戦いに縁がある。ちゃんと勉強しなさいというご先祖様?の御達しなのでしょう。

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伴一孝先生の「長篠・設楽原の戦い」の授業を参照しているブログ:

コメント

へぇ〜ですね……

6年を担任すると、歴史ぃって、なるのですが……


そういえば、6年は、4年前にもったきりですね。

勉強になりました!

コメントをありがとうございます。今は小学校教師ですが、根が社会科教師なので、こういう話はやっぱり好きです。
ところで、体調はいかがですか?ちょっとひと休みして、ご自愛ください。

戦国時代の軍馬がポニー程度というのはにわかに信じられませんが・・・。サラブレッドということはないでしょうがね。木曽駒は当時の馬の種を今に伝えていると思うのですが。 身丈は140㎝ほどはあると思うのですが。ただ、走るスピードはその程度かな。

コメントをありがとうございました。馬については、どうにか調べていきたいです。戦う時には馬から下りて戦ったとしたら、今までのイメージとあまりに違います。

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