2020年2月26日 (水)

「はづ」は「HAZU」でもよかった

今日は令和2年2月26日。

  

一つ解決したことがあるので、ここに書き留めておきます。

 

ここでも道草 20200104報告 初詣で鳳来寺山/HAZUにした理由は?(2020年1月10日投稿)

☝ この記事で、「はづ」なのに「HAZU」なのは違って、

「HADU」だよなあと書きました。

 

解決しました。

  

ローマ字にもいろいろあるのです。

  

ヘボン式ローマ字 DA JI ZU DE DO

日本式ローマ字  DA DI DU DE DO

訓令式ローマ字  DA ZI ZU DE DO

  

なのだそうです。

厄介です。

日本式ローマ字を学校でも教えているので、

日本式ローマ字で日本国土では統一すればいいのに、

そうではありません。

 

鉄道駅名標や道路案内標識はヘボン式ローマ字を採用。

パスポートもヘボン式ローマ字です。

欧米の人たちの発音が、ヘボン式ローマ字に近いのでしょうか?

  

そう思って、このサイトを見ると納得します。☟

ヘボン式ローマ字について説明しています

一部引用。

  

ヘボン式の 特徴は つづりが 英語風に してある ことです。

ヘボン式は 英語の はなし手が 日本語を 読む ときの

ふりがなか 発音記号の ような ものだからです。

日本人が「英語」の 教科書に 書きこむ

「ディス イズ ア ペン」式の カタカナだと おもえば

わかりやすいでしょう。

英語を しらない 日本人でも カタカナ表記の 英語を 読めば

英語の 発音を ある程度 再現 できる ように,

日本語を しらない 外国人でも ヘボン式を 英語風に 読めば

日本語の 発音を それなりに 再現 できます。

  

勉強になった。

その他にも、このサイトには書いてあります。

ぜひご覧を。

    

  

「はづ」を外国人にも読んでもらうつもりなら

「HAZU」もありです。

「白村江」② 倭国は白村江の戦いでわざと敗北した?

 

今日は令和2年2月26日。

  

前投稿に引き続いて、

白村江」(荒山徹著/PHP研究所)

より引用していきます。

  

  

仲夏六月に入ってまもなく、最上級班に属する子供たち30人

余りは、残留組の子供たちの羨望の目に見送られ、夜明けとと

もに河内に向かった。針麻呂(はりまろ)ら数人が引率した。

胆駒山(いこまやま)から望む河内湖の全容は、豊璋たちを驚

かせるに充分だった。昔はもっと大きかったが、今では干拓が

急速に進んでいるのだという。大地に大きな鏡を嵌(は)めこ

んだように燦然(さんぜん)と光る湖には、大小数十本の河が

平野をくねりながら流れ込み、それらが描く文様は複雑で、遠

目には銀蛇、あるいは光龍(こうりゅう)が群れをなして自在

にうねくっているかと映じた。

(189p) 

  

「河内湖」について以前書いたことがなかったか検索しましたが、

見つかりませんでした。

以前から関心はあった河内湖。

この小説に登場しました。

※参考:水都大阪 古代大阪の変遷

☝ ここに載っていた地図の転載です。

History_2_2  

こんな大きな湖があったのですね。

  

  

蘇我入鹿が豊璋と田来津に語ったところ。

 

「人間は強運でなければならない」

入鹿は二人に等分に目を呉れながら言葉を継いだ。

「何事かを成し遂げる人間には努力、才覚が必要であるのはも

ちろんだが、最終的には運がものを云う。それがなければ、淘

汰されてしまうんだ。虚(むな)しいことにね。おまえたちは

二人は稀に見る強運の持ち主だ。嵐の海で死ななかったことが

一つ。二つ目には、四里の海は泳ぎ切ったーーー」

(212p)

   

歴史書に残った入鹿、豊璋、田来津は3人とも

強運だと思います。

  

 

小説のラストで、葛城皇子が豊璋らに”策略”を言う場面。

この”策略”は葛城皇子(中大兄皇子)と、

新羅の金春秋との間で結ばれた約束を含む”策略”でした。

  

「考えてもみよ、百済王。倭国が支援せぬとなれば、鬼室福信

は百済だけの力で頑張り抜こうとしただろう。他に頼る者もな

いからには団結力も強くなる道理だ。だが、なまじ倭国の軍事

的支援を期待したがために、心に緩みが生じた。それが内紛に

つながった。そして肝腎要(かんじんかなめ)のところで倭国

水軍が唐水軍に敗れて逃げ帰ったとなれば、その結果はどうな

るか。頼みの綱である倭国にそれ以上は期待することができず、

ここ周留城だけではなく、百済旧領の各地で戦っている復興軍

の将兵誰もが落胆し、再興の望みを失い、抵抗を止めてゆくだ

ろう。唐、新羅のほうでは大勝利と喧伝(せんでん)するはず

だ。その実、大した勝利でもないのだが、皆が皆、自分の目で

見たわけではない。結局は宣伝がものをいう。我らとしても、

でき得る限り敗北感を演出してみせるつもりだ」

(豊璋)「それが?そんなことが、あなたの狙いだったという

のですか?さっぱりわけがわからない。倭国に唐が敗北したと

いう汚名を内外の歴史に残し、それで何が得られるというので

す」

(葛城)「人だ」

(豊璋)「何ですって」

(葛城)「唐の制度に学んだ百済の百官百僚たち。わたしは彼

らが咽喉(のど)から手が出るほどに欲しいのだ。彼らを手中

におさめる。それがわたしの狙いだ。福信らが百済復興運動に

邁進(まんしん)し続ける限り、彼らはその指揮下で働かなく

てはならぬ。復興させる価値などない祖国のため、徒(いたず

ら)に命を捧げることになるのだ。何と虚しいことか、何とも

ったいないことか。律令の実務に通じた彼らが、そのようなこ

とであたら落命してゆくなど。・・・・・(後略)」

(429~430p)

    

葛城皇子が本当にここまで考えて、

白村江の戦いで敗北したのでしょうか?

もし本当なら、恐ろしい”策略”です。

百済という国を捨て駒にして、皇子が利を得るのです。

深謀遠慮な”策略”です。

新羅の金春秋と約束を交わし、春秋が亡くなっても、

約束は息子に受け継がれました。

16年間かけての”策略”でした。

  

  

この本を読んだことで、

白村江の戦いを生徒に教える時の心構えが変わったと思います。

葛城皇子は、わざと敗北した可能性もあると迷いながら

教えることになりそうです。

「白村江」① 高句麗の戦いの歴史

 

今日は令和2年2月26日。

  

また400p越えの本を読破しました。

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白村江」(荒山徹著/PHP研究所)

  

小説に登場した人物は、実際にいた人たちであり、

その人たちがそれぞれ意思を持って行動し、

絡み合い、一つの大きな歴史的な事件を

かたちづくっていきました。

白村江の戦いの直後は、

日本はあたふたしているイメージでしたが、

この小説そのイメージが覆されました。

白村江の戦いの理解が深まって良かったです。

  

気になった文章を、いくつか引用します。

  

新羅(漢族)の金春秋が高句麗に援助を求めに侵入。

高句麗の宰相の泉蓋蘇文(せんがいそぶん)の

息子泉男産(せんだんさん)が高句麗の歴史を語る場面です。

  

「あなたがた漢族の目には、扶餘族の国である我が高句麗など

半島の侵略者として映じることでしょう。しかし高句麗もまた、

血みどろの被侵略の歴史を負っているのです。初代王は王莽(

おうもう)の新を対手に奮戦し討死を遂げ、後漢とはしばしば

干戈(かんか)を交えました。曹魏に王都を攻め落とされ、前

燕(ぜんえん)には王宮を焼かれたのみか前王の墓を暴かれて

屍を奪われた。そして隋帝の親征を迎え撃ったの僅か30年前

のことです。そのようにして我が国は、周辺諸民族を未開野蛮

と夷狄視(いてきし)する尊大な中華王朝の侵略を受け続け、

手傷を負いつつ、これを敢然と撥ねつけてきました。中華の矢

面に立って、半島を防衛する守護者としての役割を果たしてき

たのです。」

(89~90p)

   

蘇我蝦夷が息子の入鹿に、

建設中の巨大な2人の墓を見せた時の会話です。

(入鹿)「正直申し上げて、わたしともあろう者が、今はひた

すら圧倒されております」

「莫迦(ばか)め」叱るように云いながら、蝦夷は嬉しそうだ

った。「墓の主が気後れしてどうする。ともかく、これが我ら

の力だ。力というものは、誰の目にも見えるよう可視化してお

かねばならぬ。蘇我には迚(とて)も敵(かな)わぬーーーー

常にそう思わせておくのが肝要だ」

「統治の第一条というやつですか」

「もちろん、力をひけらかすだけが能ではない。目に見えぬか

ら恐ろしい、という力もある」

「第二条、と」

「要するに車の両輪だ。可視と不可視、その二つの力を併用し

てこそ支配というものは上手くゆく。覚えておけ」

(116~117p)

  

  

今も、蝦夷と入鹿の墓と思われる墳墓が2つ並んでいます。

その墳墓の前で語られたと思われるセリフです。

  

蝦夷が、入鹿がかくまっている百済の王子、豊璋(ほうしょう)

について語る場面。

    

「奢侈華美な百済の王宮で、乳母日傘(おんぼひがさ)で育て

られたひ弱な幼子だぞ、死んでしまうのではないか」

(126p)

  

「奢侈(しゃし)」が登場!

ここでも道草 難読漢字「紙垂」「奢侈」(2020年1月16日投稿)

☝ ここで話題にしました。

こうやって頻繁に目にすることで、記憶に残ります。

 

「乳母日傘」は漢字四字熟語。昔の参考書にはなかったなあ。

意味は「子供、特に幼児が必要以上に過保護に育てられること。

乳母に抱かれ、日傘をさしかけられるなどして、

ちやほやされながら大切に育てられる意から。 引用:goo辞書  

 つづく

2020年2月25日 (火)

2020福島報告(2)すれ違うのはトラックばかり/自動二輪車等走ることができない道

  

今日は令和2年2月25日。

  

今日からお試し毎日出勤のスタートです。

今週は2時間勤務、来週は半日勤務というように、

慣らし運転をしていきます。いよいよ復職です。

それほどドキドキしないのはいい傾向でしょう。

  

では昨日の記事の続きで、福島報告を書いていきます。

国道288号線を東進しました。

田村市の2つの市街を抜けると、

道の両脇にある家の数はぐっと減ります。

山道になり、パッソではしんどい坂もありました。

これが阿武隈高地と呼ばれる山間部なのでしょう。

  

東進する自動車はほとんど見かけなくなりました。

対向車はときどきありますが、その多くがトラックでした。

フロントの窓のところには「環境省」と

書かれたカードが示されていて、

中には、フロントの中央に「環境省 除去土壌等 運搬車」という

幕が張られたトラックともすれ違いました。

いよいよ最前線に来たんだなと思いました。

しばらくはトラックと工事関係者の車しか出合わなくて、

たまに一般の人らしい乗用車に出合うとホッとしました。

大熊町に入ったら、

新しい道路の建設や道路の修繕も行われていて、

時々片側通行規制がありました。

  

「注意

自動二輪車

原動機付自転車

軽車両 歩行者

通行できません

と書かれた標識を見ました。

驚きました。こんな内容の標識を見たのは初めてです。

帰還困難地域を走っていることを

この標識で実感しました。

  

右折して県道35号を走りました。

左折すれば大熊町役場とか大野駅とか示す標識がありましたが、

その道は通行止めになっていました。

10252_2 大熊町HP

☝ 県道35号を南下すれば、

大熊町大川原地区にある新庁舎が見えるはずと思って進みました。

思ったよりも南下して、新庁舎を見つけました。

大熊食堂は近くにあるはずだ。

でも見つからない。

道路工事の警備員の人に尋ねました。

「すぐそこの道を入っていくとあるよ」

「住宅街の中にあるけど、ちょっと見つけにくいかな」

と教えてくれました。

大熊食堂を建物外観は、事前に写真を見て覚えていたので、

すぐにわかりました。

「ここだあ」

時刻は13:50

間に合いました。

  

つづく

  

2020年2月24日 (月)

「新婚さんいらっしゃい」50年目

今日は令和2年2月24日。

  

2月21日の朝日新聞朝刊より。

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「新婚さんいらっしゃい」は50年目!

でもそうだよなあ。

私も将来結婚したら、この番組に出てのろけたいなあと

思ったことがあります。

気づいたら結婚してもう31年。

今頃行っても、参加させてくれません。

  

そうか昨年が結婚30年だったのですね。

何にも特別なことをせずにスルーしてました。

  

それでも50年も続いていたのは驚きです。

おそらく番組が始まった頃は、

愛知県での放送がなかったのではないでしょうか?

そう思ったら調べます。

  

Wikipedia 新婚さんいらっしゃいを見ましたが

よくわかりませんでした。

わかったのは、次のこと。

 

結婚(再婚も含む)してから6ヶ月以上3年以内の夫妻を

自薦あるいは他薦の形で募集

  

「6カ月以上」というのが何か面白い。

 

2020福島報告(1)国道288号線を東進/田村市

  

今日は2月24日。

   

2月18日~20日に福島県に行ってきました。

奥さんとの2人旅行です。

夜行列車等で福島県を通過することはあっても、

滞在したのは初めてです。

福島県で見聞したことを書き留めておこうと思います。

もう今年中に福島県を再訪することはないと思い、

「2020福島報告」としました。

  

私の大きな目標は2つです。

大熊町郡山市の柏屋です。

この2か所で教材研究です。

それ以外の観光で行く場所は奥さんがほぼ決めました。

  

福島県に向かう新幹線の中で、「歴史の愉しみ方」を読み、

あらためて東日本大震災と、

それに伴う福島第一原発の大事故によって、

多大な被災をした大熊町の今を少しでも見てこようと思いました。

※参考:ここでも道草 「歴史の愉しみ方」② 福島県に向かう新幹線の中で福島第一原発のことを読みました(2020年2月23日投稿)

社会科教師として、被災地を実際に見ることは大事であり、

昨年12月に長野市にボランティアに行ったのと同じ趣旨です。

ここでも道草 2019年冬長野(12)プリント「ボランティア活動をはじめる前に」(2019年12月12日投稿)

  

大熊食堂については、大熊町について調べていて、

何度か目にしていました。

でも営業時間を見たのは、旅行出発2日前でした。

11:30~14:00

  

待てよ?

確か新幹線が郡山駅に到着するのは昼だったぞ。

正確には11:59

レンタカーを借りて向かったとして間に合うかな?

調べました。

郡山駅から大熊町までの所要時間を調べました。

67km、1時間30分でした。

ぎりぎりでした。

  

閉店間際に到着する可能性があります。

それでもいいのか?

出発の前日に大熊食堂に電話してみました。

名のった後に、「明日そちらで食事をしたいのですが、

午後2時ぎりぎりに着くと思います。

それでも食事ができますでしょうか」と聞きました。

大熊食堂さんの返事。

「いいですよ。ただ定食はなくなっているかもしれません。

カレーだったら大丈夫です。」

よかったです。

とにかく午後2時までにたどり着くことに専念することにしました。

  

郡山駅を下車。

トヨタレンタカー店はあらかじめ位置を確認しておいたので

迷わずに向かいました。思ったより距離がありました。

手続きをしました。

車はパッソ。

いざ出発。東進しました。

ほとんどが国道288号線でした。

   

田村市に入ってにぎやかな街並みが2か所ありました。

なぜだろう、どちらが田村市の中心街なのだろうと思いました。

調べました。

田村市の歴史に関係しました。

Wikipedia 田村市

☝ Wikipediaによると、田村市は5町村が合併して誕生した市でした。

私がにぎやかな街並みだと思ったのは、

旧船引町と旧常葉町の市街でした。

国土地理院の地図で示します。☟ 

9 郡山市→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→大熊町

  

7 田村市船引町(旧船引町)

  

8 田村市常葉町(旧常葉町)

  

田村市市役所は船引町にありました。

ちなみに田村市の名前の由来は、

上記のWikipediaには次のように書いてありました。

  

市名は坂上田村麻呂による蝦夷征討後、その子孫である田村氏が

この地を田村郡として代々支配してきたことに由来し、

公募により決定された。(中略)そのような歴史的経緯から

坂上田村麻呂に関する伝承が数多くあり、

市内には坂上田村麻呂伝説に由来する地名が複数存在する。

  

なるほど、坂上田村麻呂由来の市名なのですね。

どうも、田村市という市名を見た時には、

ラグビー日本代表の田村優選手が浮かんでいました。

もしかしたら、田村選手は田村市出身?

でもすぐに思い出しました。

田村選手は、私の地元の愛知県出身(岡崎市出身)でした。

  

   

 

「2020福島報告」をスタートさせました。

こうやって、少しずつ見聞したことを、

調べたことも含めて報告を作成していこうと思います。

連休中にやろうと思いましたが、とても無理です。

ゆっくり着実に仕上げていこうと思います。

  

  

つづく

「歴史の愉しみ方」④ 愛知県に向かう新幹線の中で500年ごとの大地震のことを読みました

  

今日は令和2年2月24日。

  

前記事に引き続き、

歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ

(磯田道史著/中公新書)より引用します。

   

(岡山県)番町(ばんちょう)というところまできて、ふと小

早川秀秋のことを思い出した。そういえば、小早川秀秋の遺体

は、この番町の瑞雲寺(ずいうんじ)に埋められている。ひさ

しぶりに、見に行こうと考えた。

小早川秀秋は、岡山での人気がなかった。(磯田さんが)小学

生の頃、歴史少年だったわたしは、小早川の遺体埋葬地うぃ確

かめようと、その寺に一人で行ってみたことがある。愕然とし

た。荒れ放題。寺の屋根には草が生え、雨が漏れ、穴が開き始

めていた。とくに岡山は西軍の大将格の宇喜多秀家の地元。宇

喜多家の敗残浪人が「小早川さえ裏切らなければ」と歯嚙(は

が)みしているところへ、秀秋は入ってきた。だから、ひどい

話だが、秀秋が21歳で死んだときには、小気味がいい、と、

皆が思ったらしい。

秀秋を葬った寺についた。意外なことに、あれほど荒れていた

寺の屋根はすっかり修理されていた。「岡山城主小早川秀秋公

菩提寺」の真新しい標柱も立っていた。

時がたてば、秀秋への恨みさえ浄化され癒されるものらしい。

(124p)

   

最近の瑞雲寺の様子が、ここでわかりました。☟

ロードスターと戦国史跡ツーリング 瑞雲寺 『小早川秀秋の墓所』

磯田さんが、小学生の時に見た瑞雲寺と、

写真で比較したかったですね。

寺の住所は、岡山県岡山市北区番町2丁目6−22 

岡山市に行くことがあった時には、ぜひ訪れたいです。

  

  

太平洋の沿岸には、だいたい500年に1回ほどの周期で、超

巨大大津波がきている。

この500年に1度の「強いほうの東海大地震」が、最後にこ

の国を襲ったのは、室町時代で、明応大地震・明応大津波(1

498年)とよばれる。この地震津波の超絶した大きさは、鎌

倉の大仏の大仏殿を押し流し、大仏殿を裸にした可能性が高い。

さらには砂丘を破壊し淡水湖の浜名湖を海とつなげた。京に近

い湖が琵琶湖で近江(ちかつうみ)、京に遠い湖が浜名湖で遠

江(とおとうみ)だったのを変えたすごい地震である。

運の悪いことに、われわれは、この明応地震からちょうど500

年後の世界に生きている。次は強いほうの東海大地震、人口集中

地に15メートルの巨大津波がきても不思議ではない時期にさし

かかっているといっていい。

(150~151p)

  

前記事に書いたように、薩摩人の詮議のように、

巨大地震が来たらどうするか、どんな準備をしたらいいのかを

考えないといけないと思います。

先日、保険については確認しました。

一安心。次は・・・・・

  

  

さらに困ったことがある。新幹線のことである。2012年2月

2日付の『産経新聞』の記事で96歳の旧国鉄総裁の仁杉巌(に

すぎいわお)さんが重要な証言をされていた。国鉄は新幹線ルー

トを決める時、津波のことを全く考えなかった。大津波がくると

新幹線は、浜名湖付近と焼津付近の二か所で津波にやられる。迂

回ルートを作って対策したほうがいい、と、いっておられた。仁

杉元総裁は技術系出身の総裁で土木の専門家である。現在、新幹

線は10分どころか過密時には3分間隔で発車している。しかも

浜名湖付近では高架も低く海面に近いところを走行している。震

度6~7では新幹線は脱線に耐えるのがせいいっぱい。地震後、

曲がった線路を走るのは絶望的で、かりに15メートル近い津波

がくれば、新幹線の架線は5キロ、10キロと、水没する可能性

がある。上下線で悪くすると四編成が被害をうけることも考えら

れる。新幹線は一編成の定員が1300人。四編成やられた場合、

さらに東海道線もあるから、阪神大震災に相当する死者をここだ

けで生じさせるかもしれない。

(155~156p)

  

  

この部分は、東京から愛知県に戻る新幹線の中で読みました。

切実な内容でした。

もしかしたら偶然が起こるかも?と思っていました。

  

う~ん、ここまでにします。

「歴史の愉しみ方」からの引用を終えます。

磯田さんはとても歴史を愉しんでいました。

気になったことをほっておかないで追及することで、

おもしろい展開になり、愉しめることを

実践で証明してくれました。 

「歴史の愉しみ方」③ 詮議/変通

  

今日は令和2年2月24日。

  

昨日の記事に引き続き、

歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ

(磯田道史著/中公新書)より引用します。

  

司馬(遼太郎)さんは、明治人のリアリズム、とりわけ、薩人

(さつじん)(幕末の薩摩人)の的確な判断力について書いて

いる。薩人が、幕末政局をあやまたず、新政府を樹立するまで

の道のりを鮮やかに描いた。倒幕は薩長土肥の共同作業のよう

に語られるが、その実は違う。薩摩の、それも西郷や大久保な

どのごく一部の薩摩人が、恐るべき才覚でもって、まわりを巻

き込み、彼らが絵を描いて、革命にもっていったものである。

近年の幕末政治史の研究が、次第に、その実状を明らかにしつ

つある。

薩摩は、あるいは、日本のなかの例外かもしれない。薩人には、

「もし、こうなったら」とあらかじめ考えておく「反実仮想」

の習慣があった。(中略)薩人は、これから起きうる事態を事

前に想定し、対処のすべてを用意することに長けていた。薩人

の判断力の正体は高い反実仮想力であったといってよい。これ

を鍛えたのは、薩摩の郷中(ごじゅう)教育の「詮議(せんぎ)

」であった。薩摩では詮議と称し、子どもに色々と仮定の質問

をなげかけて教育した。「殿様に急用で呼ばれた。早馬でも間

に合わないときは、どうするか」「道を歩いていて脇の塀の上

から唾(つば)を吐きかけられたら、どうするか」など、仮定

の質問を子どもに問い、考えさせる訓練が繰り返された。

(67p)  

  

ついつい考えたり準備したりすることを後回しにしてしまい、

その時になってあわててしまうことは多々あります。

「詮議」大事です。

自分に問いを課して、自分の考えを出しておいたり、

準備をしておくことは大事だと思います。

「新型コロナウィルスに自分が罹患したらどうするか」

「家族が新型コロナウィルスに罹患したらどうするか」

など、今は考えておくといいかもしれません。

  

  

この国では1800年前後、寛政期あたりから、学校化が始ま

った。まず、武士からこの流れにまき込まれ、江戸前期には、

藩校はあっても自由登校であったのに、幕末までに、かなりの

藩で出席が義務化された。明治以降になると、学校への出席義

務は拡大、庶民までのみこまれ、現在に至っている。メリトク

ラシーとよばれる能力選抜主義に、下級武士から順次のみこま

れていったが、近代になっても、皇族・華族は学校化に対して

割合に超然主義を貫いていた。

(111~112p)

 

今の学校教育は、過去からずっと行われてきたものではなく、

まだまだ新しい制度なのです。

それなのに、こうでなくてはならないという面がたくさんあります。

まだまだ変化していくものだと思います。

みんな一斉にの教育から、個々に合わせた教育に移行中と思います。

ICTを利用した教育に、あと2年間、取り組んでいきたいです。

変化していくのが当たり前。

  

19世紀の日本人の強みは「世の中は変わる。人智と機械は進

歩する」と信じ「過去にとらわれず自らを変える」のに躊躇し

なかったことである。当時、これを「変通」といった。変化に

通ずるという意味である。

(89p)

2020年2月23日 (日)

「歴史の愉しみ方」② 福島県に向かう新幹線の中で福島第一原発のことを読みました

  

今日は令和2年2月23日。

  

前記事に引き続き、

歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ

(磯田道史著/中公新書)より引用します。

  

昭和15(1940)年2月2日、兵庫県出石(いずし)出身

の衆議院議員議員斎藤隆夫は歴史に残る国会演説をした。政府

軍部のすすめる大陸政策はおかしい。そもそも中国全土を日本

は占領できない。泥沼化した日中戦争の目的もはっきりしない。

聖戦の美名に隠れて「国家百年の大計を誤るようなことがあり

ましたならば現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出

来ない」。そう斎藤は叫んだ。本当のことだった。彼のいう通

りにしていれば日本の運命も変わっていただろう。5年後のみ

じめな日本の破滅を予見するような演説であった。しかし時の

国会は誤った。斎藤を国会から除名。賛成296、棄権144。

反対はわずか7。斎藤の演説も議事録から削除された。さらに

斎藤には脅迫がつづいた。自決用の短刀が送りつけられ、斎藤

は暗殺を覚悟した。せめて殺される前に自分の思いを記そうと

思ったらしい。色紙に漢詩をしたためた。私が見つけたのはそ

のなかの一枚であった。

  

吾が言は即(すなわ)ち是(こ)れ万人の声

褒貶毀誉(ほうへんきよ)は世評に委(まか)す

請う百年青史の上を看(み)る事を

正邪曲直おのずから分明

  第七十五帝国議会去感  齋藤隆夫

  

読んで涙が出てきた。斎藤は「百年後の歴史の上」をみて国を

誤らぬよう命懸けで自説を述べたのだ。

(53~55p)

  

  

この話は、以前テレビ番組で再現ドラマをやっていました。

印象に残っていました。

調べた限りでは、録画はしていなかったようです。

でも文献に当たれてよかったです。

  

  

2011年3月11日に始まる東日本大震災。

福島第一原発の大事故。磯田さんは次のように書いています。

  

わたくしは怒りをおぼえる。電力会社の幹部や原発の権威者に、

ではない。平成の今になって、わたくしたちが目にしたのは、

「立派な現場・駄目な指揮・とんでもない兵站(へいたん)」

であり、「想定は外、情報は内」という、あいも変わらぬ、こ

の国の姿であった。「これこそが司馬(遼太郎)さんが生涯か

けて、筆の力で、日本人に更改をせまったものではなかったか。

昭和のあの戦争の失敗の時から、われわれは、なんにも変わっ

ちゃいないじゃないか」。(中略)

そもそも、今回の事態は、行きがかりの現状を自然に受け容れ

すぎる日本人の心性が「あだ」になった面がある。とくに、安

全基準の扱いがそうだった。原発でも建物でも新しい安全基準

ができると、それをクリアするまで稼働・使用しない、という

ことができない。それで新しい原発はさすがに高台に作ってあ

ったが、古い原発は5.7メートルという恐ろしい甘い想定の

ままで稼働を続けていて、破滅的事故に至ってしまった。日本

における安全の考え方は「これまでの物は仕方がない。これか

ら作る物は安全に」というものであった。優しい自然に育まれ

た日本人には環境への甘えがあって、最悪の事態は考えないこ

とにしがちである。

日本人は、現状を追認するものではなく改善すべきものだ、と

肝に銘じねばなるまい。

(65~66p)

  

私は先日福島県に行ってきました。

原発のある大熊町にも行ってきました。

この文章は、行きの新幹線の中で読みました。

大熊町をしっかり見てこようと思わせたものでした。

  

「歴史の愉しみ方」① 映画「武士の家計簿」を見始めました

  

今日は令和2年2月23日。

  

また次の本の引用をしたいと思います。

最近のブログ記事は、

本の引用ばかりと言われちゃいますね。

最近はよく本を読みます。

ほとんど図書館から借りる本です。

いいなと思った文章を、ここに書き留めておかないと、

そのいい文章に一生出合わないかと思ったら、

止められません。

  

でも「パラアスリート」のように、

記事が15本にもなってしまうと、

時間がかかってしまいます。

それだったらもっと読書すべきかなとも思います。

  

絞って絞って引用しようと思います。

できるかな?

  

今度読んだのはこの本。

歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ

(磯田道史著/中公新書)

ハマコウさんに教えてもらって読むことにした本です。

※参考:いま ここ 浜松  江戸時代の「津波避難タワー」 磯田道史(『歴史の愉しみ方』中公新書 2012年より)

  

引用します。

  

昨今の歴史小説には、物足りないところを感じている。

というのも、やはり小説は小説、漫画は漫画なのであって、本

物の歴史とは違う。歴史物の作品がたくさん書かれて、世の中

の歴史知識は明らかにふえているのだけれども、どうも実体験

に基づかない架空の物語がふえていて、わたしが知りたいと思

っている「本物の歴史像」から離れていってしまっている感が

ある。

(ip)

  

生の古文書や漢文体の資料を読んで、

それに基づいた物語ではないということです。

 

誰かがすでに書いて活字になった本をもとに想像をふくらませ

て」歴史を書くようになってしまっている。これでは現物・現

場・実体験の歴史から離れていってしまうのはあたりまえであ

ろう。

わたしが知りたいのは「歴史のほんとう」である。歴史のほん

とうが、隠されていれば隠されているほど、探り出すことに興

味を感じる。

(iip)

  

磯田さんのような人だと、想像をふくらませただけの小説では

物足りないんだ。なるほど。

 

歴史には出会いがある。かつて、私は『武士の家計簿』(新潮

新書)という本を書いた。古本屋で、猪山(いのやま)という

加賀藩士がつけた家計簿をみつけ、幕末から明治の武士家族の

生き方を描いた。そしたらもう亡くなってしまった森田芳光さ

んが映画に撮ってくれた。

(28p)

  

映画「武士の家計簿」を録画したことがあるぞと思って調べたら、

何と3回も録画していました。

2010年の映画です。

今回、この本を読んだのを出会いと考えて、

映画を見始めました。

  

坂本龍馬がすごいと思われているのはいわゆる「船中八策」や

「新政府綱領八策」で二院制議会や陸海軍局の設置など新国家

のデザインを描いたとされるからだ。実は龍馬のこれらの構想

はすべて横井(小楠)の受け売り。本当にすごいのは横井であ

ろう。

勝海舟は「おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。そ

れは横井小楠と西郷南洲とだ」といっている(『氷川清話』)。

横井はわずかな情報から国の行くべき道を洞察する天才。

(40p)

  

「わずかな情報」から洞察する力はあこがれます。

  

   

つづく

 

  

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楽餓鬼

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