2023年11月 6日 (月)

コットンランプシェードを作ってみたい

   

今日は令和5年11月6日。

きっかけは、この映像を見たことです。

紙ひもボールは棒があれば遊びが広がって楽しいよ

紙ひもボールの作り方でした。

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作りたい大きさに風船を膨らませて、

その風船の周りに紙ひもを巻いていきます。

薄めたボンドを塗っていきます。

乾かします。

乾いたら、中の風船を割って、取り出します。

ここがとっても楽しそう。

そうすれば出来上がり。

子どもたちに、ボンドの面白さを教えたいと

思い始めた私にとっては興味津々。

  

他の映像も探してみました。

紙ひもではなく、コットンボールの作り方です。

コットンボールの作り方(DIYでおしゃれかわいく!)

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そうか、ランプを入れて光らせるのもありだなと思いました。

糸の巻き方も、かなり密です。

  

次の動画。

ランプシェードの作り方(さくらの手仕事Vlog)

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今度も綿糸です。飾りを作るなら、綿糸かな。

ボールを作るなら、紙ひもの方が丈夫だと思います。

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巻きながらボンドをつけています。

上2本の動画も、そうです。

ここが子どもたちにとって、、難しいところです。

実は4本目の動画は違うやり方です。

どちらがいいか、迷います。

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そうなんです。子どもたちは、この事態に陥りそうです。

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風船のサイズが5〜6センチとしてくれているのが、

わかりやすいですね。

  

そして4本目の動画。

糸と風船で!簡単コットンボールランプを作ってみた!(いちなるといっしょ!ボンボンアカデミー)

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風船の大きさは5〜6センチくらいです。

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他の動画と微妙に配合率が違います。

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ひもの長さは5メートルくらいと決めて、あらかじめ切っておきます。

この手はいい。

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他の動画と大きく違うのは、この場面。

ボンドを薄めた液に、ひもを漬けるのです。

これの方が、子どもたちにはいいのかな?

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巻いていきます。

机上には新聞紙。そして手袋も必要ですね。

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最後に仕上げで、ボンド液を塗っています。

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風船を割る前に、ドライバーを使って、風船とはりついている糸を剥がします。

これも他の動画にはない工程。

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4本の動画を見てみて、最後の「いちなる」の映像を使って

子どもたちには説明をするのがいいかなと思いました。


今回は遊べるボールを作るのではなく、

コットンランプシェードなるものを作ることにしよう。作ってみたい。

  

  

いやあ、ネット上にはヒントになる映像があるなあ。



























   

2023年11月 5日 (日)

本「日本国紀 下」/大東亜戦争 日本人の洗脳 国旗と国歌 金日成 

   

今日は令和5年11月5日。

  

前記事に引き続き、

「日本国紀 下」(百田尚樹著/幻冬舎文庫)

から引用していきます。

   

GHQが「大東亜戦争」という呼称を禁じたのは、日本が欧米諸国に

支配されていたアジアの解放を謳う意味で使った「大東亜共栄圏」

を構築するための戦争であったというイメージを払拭させるためで

す。GHQはたとえ大義名分であったとしても「アジアの解放」の

ための戦争であったと言われるのを嫌ったのです。

この検閲は七年間続きましたが、この時の恐怖が国民の心の中に

深く残ったためか、七十年後の現在でも、マスメディアは決して

「大東亜戦争」とは表記せず、国民の多くにも「大東亜戦争」と言

うのを躊躇する空気があります。いかにGHQの検閲と処罰が恐ろし

かったかが想像できます。

(277〜278p)

同感です。

「大東亜戦争」という言い方は、軍国主義の言い方だと勝手に思い、

極力使ってこなかった気がします。

GHQのやったことの名残なのでしょう。驚きです。 

  



GHQの「WGIP」は新聞とラジオ放送によっても行なわれました。

昭和二〇年(一九四五)十二月八日(この日は真珠湾攻撃からちょうど

四年目の日)より、全国の新聞に「太平洋戦争史」というタイトルで

GHQによる宣伝工作記事が連載され、その翌日からNHKラジオで『

真相はかうだ』という番組の放送が始まりました。いずれも大東亜

戦争中の政府や軍の腐敗・非道を暴くドキュメンタリーをドラマ風

に描いたもので、国民は初めて知らされる 「真相」に驚きました。

新聞連載もラジオ放送も、その目的は日本国民に「太平洋戦争は中

国をはじめとするアジアに対する侵略戦争であった」ということを

徹底的に刷り込むためのものでした。

『真相はかうだ』はGHQがすべて台本を書いており(そのことは国

民には知らされていなかった)、放送される内容も占領政策に都合

のいいものでした。GHQは翌年も『真相箱』『質問箱』というタ

イトルで、約一年にわたり洗脳番組を放送し続けました(依然、GH

Qが制作していることは伏せられていた)。GHQが巧妙だったのは、

番組の中に時折、日本人の良い面を織り交ぜたことでした。そうす

ることで内容に真実味を持たせたのです。 しかし戦前の政府や軍を

批判する内容には、多くの虚偽が含まれていました。

当時も、これらの番組内容は真実ではないのではないかと疑義を抱く

人はいました。ところが、彼らが声を上げても、そうした記事は

「占領政策全般に対する破壊的批判」と見做され、全文削除されて

いたのです。かくの如く言論を完全に統制され、ラジオ放送によっ

て(当時はインターネットもテレビもない) 洗脳プログラムを流され

続ければ、国民が「戦前の日本」を徹底的に否定し嫌悪するように

なるのも無理からぬことです。

ただ、何より恐ろしいのは、この洗脳の深さです。GHQの占領は

七年間でしたが、それが終わって七十年近く経った現在でも、「歴

史教科書」などの影響もあり、多くの日本人が「戦前の政府と軍部

は最悪」な存在で、「大東亜戦争は悪辣非道な侵略戦争であった」

と無条件に思い込んでいます。

もちろん戦前の政府や軍部に過ちはありました。しかし連合国にも

過ちはあり、また大東亜戦争は決していわゆる「侵略戦争」ではあ

りませんでした。繰り返しますが、日本には中国を占領する意思は

なく(人口と領土を考えても不可能であるし、またそうした作戦は

取っていない)、またそれ以外のアジアの人々と戦争をしたわけで

はありません。

戦後、日本はわずか数年占領下においたアジア諸国に賠償金を支払

いましたが、その国々を数十年から三百年にわたって支配していた

オランダ、イギリス、フランス、アメリカは、賠償金など一切支払

っていないばかりか、植民地支配を責められることも、少数の例を

除いてはほとんどありません。それはなぜか日本だけが誠意をもっ

て謝罪したからです。

日本人には、自らの非を認めるにやぶさかでない、むしろ非を進ん

で認めることを潔しとする特有の性格があります。他の国の人々と

違って、謝罪を厭わないのです。こうした民族性があるところへ、

GHQの「WGIP」によって贖罪意識を強く植え付けられたことで、

当然のようにアジア諸国に深い謝罪の意を表したのです(もちろん連

合国が謝罪させた面もある)。

(279〜280p)

  

やっと自虐的史観を正そうとしている人たちの気持ちが

わかった気がします。

GHQによって修正された考え方からの逸脱を目指していたんですね。

WGIPは恐ろしい。

    

奇跡的な復興を支えたのは、ひとえに国民の勤勉さでした。

何の資源も持たない日本が欧米に伍していくためには、死に物狂いで

働くしかなかったのです。そして戦後の日本人はそれをやり遂げまし

た。敗戦からわずか十九年で、アジアで初めてのオリンピックを開催

し、ホスト国として世界の国々を招き、同じ年、第二次世界大戦の戦

勝国すらどこも成し得なかった「時速二〇〇キロ以上で走る高速鉄道」

(新幹線)を東京から大阪まで開通させました。そして、その四年後、

GNP (国民総生産)で西ドイツを抜き、世界第二の経済大国となったの

です。 世界はこの復活に驚愕しました。

私はこの事実にあらためて深い感動を覚えます。私たちの祖父や父は

何と偉大だったのでしょう。

しかし、敗れた日本が取り戻せなかったものがありました。 それは

「愛国心」と「誇り」です。これらは戦後、GHQに木端微塵にされ、

占領軍が去った後は、彼らの洗脳を受け傀儡となったマスメディアや

学者たちによって踏みつぶされ続けました。

国旗と国歌を堂々と否定する文化人が持て囃される国は、世界広しと

いえど日本だけでしょう。

この屈辱は、昭和の輝かしい復興の陰で、決して忘れてはならないこ

とです。

(306p)

国旗と国家。大事にしていきたいですね。

WGIPから抜け出たいです。

    

ラストに引用するのは、北朝鮮のこと。

ロシアと北朝鮮のつながりを示すことです。

 

朝鮮半島では、戦後、北緯三八度線から南をアメリカが占領し、北側

をソ連が占領していましたが、昭和二三年(一九四八)に、大韓民国(韓

国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)という二つの国がそれぞれ生ま

れました。 北朝鮮建国の時、ソ連は自国で思想教育した金成柱という

人物を「金日成」として送り込んで国家主席に据えました。

「金日成」は一九二〇年代頃から朝鮮の民衆の間に伝わる抗日ゲリラ

の伝説的人物で、実在の人物ではないともいわれています。

朝鮮半島と中国大陸に共産主義国家が誕生したことで、極東でも冷戦

状況が生まれました。皮肉なことに、このことがその後の日本の命運

を分けました。日本を東アジアにおける共産主義の防波堤にしようと

考えたアメリカは、日本を工業国として復興させようという方針を取

ったのです。

(312p)

  

金日成(キムイルソン)は偽物!

スタートからしておかしい、北朝鮮。

それを知りました。

以上で「日本国紀 下」からの引用を終了。

1冊の本を読むと、たくさん勉強できます。

でも読みっぱなしでは、身に付かない気分。

今回は、できるだけアウトプットしてみました。

「読んだだけでは終わらないの?」

と横で奥さんに言われても、今回はキーボードを打ちました。

本「日本国紀 下」/憲法改正をしない日本 戦争のもう一つの顔 WGIP 

   

今日は令和5年11月5日。

  

前記事に引き続き、

「日本国紀 下」(百田尚樹著/幻冬舎文庫)

から引用していきます。

    

部屋に戻ったホイットニーは、吉田らに対して「この(憲法)草案が

受け入れられれば、天皇の地位は安泰になるだろう」と言いました。

つまり言い換えれば、拒否すれ天皇の命も保証できないというもので

す。日本は草案を呑む以外に道はありませんでした。これは屈辱の歴

史です。

ところがその憲法を私たちは七十年以上経った今も改正していません

が、実はこれは世界の中でもきわめて異常なことなのです。 憲法は

絶対不変なものではなく、時代に合わせて必要なものを付け加え、

不要なものは削除するというのは世界の常識です。ちなみに第二次世

界大戦後、今和二年(二〇二〇)の時点で、 アメリカは大回 フランス

は二十七回、イタリアは十六回、韓国は九回、憲法を改正しています。

ソ連や中国といった共産主義国でさえ何度も改正しています。 日本と

同じく連合国軍によって憲法を押し付けられたドイツは六十五回も改

正しています。しかし日本は押し付けられた憲法をまるで聖典のよう

に扱い、一字一句変えることなく現代にいたっているのです。 もはや

非占領国ではなく、連合国軍が統治する国ではないにもかかわらずで

す。

(262p)

  

外国との比較で、憲法改正は普通のことなんだと思います。

現実と齟齬があるものは、直していくべきなんだなと思います。

  

悲惨な目に遭ったのは兵士だけではありません。 満洲や朝鮮半島に

いた日本の民間人は、現地人に財産を奪われただけでなく、虐殺、

暴行、強制連行などに遭い、祖国の地を踏めない者も少なくありま

せんでした。最も残酷な目に遭ったのは女性たちで、現地人やソ連

兵らによる度重なる強姦を受け、そのために自殺した女性も数多く

いました。

戦後、朝鮮半島を経由して帰国した女性の多くが強姦によって妊娠

あるいは性病感染させられていました。そのため日本政府は、昭和

二一年(一九四六) 三月に福岡県筑紫郡二日市町(現在の筑紫野市)に

二日市保養所を設置し、引き揚げ女性の堕胎手術や性病治療を行な

いました。 二日市保養所は翌年秋に閉鎖されましたが、その間に、

五百人以上の女性が堕胎手術を受けたといわれています (公にでき

ない手術のため、詳細な記録は残されていない)。なお聞き取り調

査によると、女性らを強姦して妊娠させた加害者で圧倒的に多かっ

たのは朝鮮人でした。

今日、二日市保養所の話は歴史の闇に葬り去られていますが、忘れ

てはならない史実です。これもまた戦争のもう一つの顔といえるで

しょう。残された記録や関係者らの証言、文章は、時空を超えて読

む者の胸を抉(えぐ)ります。

(266p)  

  

戦争のもう一つの顔・・・戦争をやっては行けない理由にもなります。

弱者にとって酷なことが起こってしまうのです。

容赦ないのです。

普段では考えられないようなことが起こってしまうのです。

  

もう一つ、GHQが行なった対日占領政策の中で問題にしたいのが、日

本国民に「戦争責任」を徹底的に伝える「ウォー・ギルト・インフォ

メーション・プログラム」 (WGIP: War Guilt Information Program)

でした。わかりやすくいえば、「戦争についての罪悪感を、日本人の心

に植え付けるための宣伝計画」です。これは日本人の精神を粉々にし、

二度とアメリカに戦いを挑んでこないようにするためのものでした。

「極東軍事裁判」 (東京裁判)もその一つといえます。そして、これら

の施策は結果的に日本人の精神を見事に破壊しました。

「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」という言葉は、

文芸評論家の江藤淳が昭和五八年(一九八三)から月刊誌「諸君!」に連

載した『閉された言語空間』で使った呼称ですが、彼はGHQの内部文

書から、占領軍がそうした意図を持っていたことを明らかにしました。

同連載は平成元年(一九八九)に書籍化されましたが、言論史を塗り変え

る画期的な本となりました。その後、教育学者の高橋史朗(たかはしし

ろう)翻訳家の関野通夫(せきのみちお)らが多くの一次史料を発掘し、

江藤の説を裏付けています。

同書が明らかにしたことはまぎれもない事実で、実際、昭和二〇年(一

九四五)十月二日に発せられたGHQの一般命令書の中に、「各層の日

本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難

と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、

周知徹底せしめること」と明記されています。

GHQはその方針に従って、自分たちの意に沿わぬ新聞や書物を発行し

た新聞社や出版社を厳しく処罰しました。 江藤がアメリカ国立公文書

館分室で見つけた前述の文書には、禁止項目は全部で三十もありまし

た。

禁止事項の第一は「GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部および

最高司令官)に対する批判」です。二番目は「東京裁判に対する批判」、

三番目は前に述べた「GHQが日本国憲法を起草したことに対する批

判」でした。 アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、中華民国、 そ

の他の連合国に対する批判も禁じられました。さらになぜか朝鮮人に

対する批判も禁止事項に含まれていました。占領軍兵士による犯罪の

報道も禁じられ、またナショナリズムや大東亜共栄圏を評価すること、

日本の戦争や戦犯を擁護することも禁じられました。新聞や雑誌にこ

うした記事が載れば、全面的に書き換えを命じられました。

GHQの検閲は個人の手紙や電話にまで及びました。進駐軍の残虐行為

を手紙に書いたことで、逮捕された者もいます。スターリン時代のソ

連ほどではありませんでしたが、戦後の日本に言論の自由はまったく

ありませんでした。

(273〜274p)  

  

サークルで発表した方が、この本を読んで、

WGIPについて教えてくれました。

その方は、理科の先生ですが、興味のあるものは、

なんでも調べないと気が済まない方。

WGIPなんて、社会科教師の私は知りませんでした。

これがきっかけで、この本を借りて、読みました。

そして、気になる文章を次から次に引用してきました。

いよいよ本丸に辿り着いた気持ちです。

WGIPの影響力は強く、今の自分にも影響があり、

ゾッとしました。

  

続く

本「日本国紀 下」/零戦を牛で運ぶ 昭和天皇の決断 GHQの目的

   

今日は令和5年11月5日。

  

前記事に引き続き、

「日本国紀 下」(百田尚樹著/幻冬舎文庫)

から引用していきます。

   

大東亜戦争を研究すると、参謀本部(陸軍の総司令部)も軍令部(海軍の

総司令部)も「戦争は国を挙げての総力戦である」ということをまった

く理解していなかったのではないかと思えます。国民に鍋や釜まで供出

させながら、一方で夥(おびただ)しい無駄を放置しているからです。

たとえば前述の輸送船問題にどう対応したかといえば、どうせすぐに沈

められるのだからと適当な設計で「戦時標準船」という名前の粗製濫造

ともいえる船を作り、実際に次々に沈められています。

無駄といえば、零戦の製作にもありました。 三菱零式艦上戦闘機は日本

海軍の主力戦闘機ですが、その製造の実態を知れば多くの人は耳を疑う

でしょう。 零戦は名古屋の三菱工場で作られましたが、工場の近くには

飛行場がありませんでした。そのため完成した零戦をいったんバラバラ

にして、牛が引く荷車三台に載せて、約四〇キロ離れた岐阜の各務原飛

行場まで一昼夜かけて運び、そこであらためて組み立ててから全国の基

地に向けて飛ばしたのです。

なぜ馬ではなく牛を使ったのかといえば、「名古屋―各務原」間は道路

が舗装されておらず、スピードが出る馬車だとせっかく作った零戦が壊

れるからです。同様の理由でトラックも使えませんでした。当時、飛行

機といえば世界最高のテクノロジー兵器であり、零戦の性能は世界標準

の素晴らしいものでした。 その兵器を牛で運んでいたのです。普通なら

工場の横に飛行場を作るか、その逆か、あるいは道路を広げて舗装する

かという話になるはずですが、それぞれの管轄が別という縦割り行政の

せいで、この冗談かと思うほど非効率な状況は終戦まで改善されません

でした。さらに、戦争が激化すると、工場の熟練工も召集され戦場へ送

られました。代わりに中学生や女学生を勤労学生として工場に送り込み

ましたが、当然一流の職工の代わりになるはずもなく、零戦の不良品が

相次ぐこととなります。

アメリカではもとより兵器は大量生産しやすいように設計され、熟練工

でなくても作れる工程が組まれていました。日本の同盟国ドイツでは軍

需大臣のアルベルト・シュペーアが徴兵の権限まで持っていたため、一

流の職人や工場労働者は戦場に送りませんでした。したがって戦争末期

まで工業生産力が低下しなかったのです。またドイツは敗戦の前年でも

国民一人当たりのカロリー摂取量は戦前と同じレベルを保っていました

(同時期の日本はドイツの三分の二しかない)。

アメリカもドイツも、戦争は総合力であるということを知っていたので

す。 ただ、それは第一次世界大戦の厳しい体験を通じて学んだ部分が大

きかったといえます。一方、日本はそれを学ぶ機会がありませんでした。

日本にとって直近の大戦争は日露戦争であり、戦争は局地戦で勝利すれ

ば勝てるという誤った教訓を身に付けてしまったのです。

海軍と陸軍の対立もひどいものでした。一例を挙げると、銃や弾丸の規

格と仕様さえも違っていたのです。 世界の軍隊でこんな例はありません。

似た話としては、インドネシアの石油施設を多く取ったのは陸軍でした

が、実は陸軍は海軍ほど石油を使いません。それなのに現地で余った石

油を海軍には回しませんでした。そのため海軍は常に重油不足で、聯合

艦隊の行動に制限がかけられていました。見るに見かねた陸軍の士官が

海軍に石油を回したことがありましたが、彼は軍から厳しい叱責を受け

ています。 そもそも石油を確保するために始めた戦争であったにもかか

わらず、完全にその目的を見失っていたのです。

別の例を挙げると、軍用機メーカーの中島飛行機は海軍と陸軍の飛行機

を作っていましたが、同じ会社の敷地内に別々の建物を作り、お互いに

徹底した秘密主義で建物に囲いまで作って互いの設計図や工程を見せな

いようにしていました。共同で開発していこうなどという気は皆無だっ

たのです。

海軍と陸軍の国益に反する対立は枚挙にいとまがありませんが、こうし

たことを見ると、はたして当時の日本陸軍と海軍は、本気で戦争に勝つ

気があったのだろうかとさえ思えてきます。

(228〜230p)

   

大量に引用しました。

アプリで、写真に撮ると、テキスト化してくれるものを使っています。

手打ちに比べて、はるかに楽なので、たくさん引用してしまいます。

日露戦争に勝ってしまったことで、日本は学べなかったのですね。

目を疑いたくなるようなことが、次から次に書かれていました。

実はまだまだ日本の軍部の愚かなところは、

書かれているのですが、ここまでにしました。

  

日本政府はその日の朝、連合国軍に「ポツダム宣言受諾」を伝えます

が、この時、「国体護持」(天皇を中心とした秩序【政体】の護持)を

条件に付けました。連合国からの回答は十三日に来ましたが、その中

に「国体護持」を保証する文言がなかったため(天皇の処刑の可能性

もあった)、政府は十四日正午に再び御前会議を開きます。この時の

列席者は、九日の時の七人に加え、全閣僚を含む計二十三人でした。

この席上で、「陛下を守れないなら) 本土決戦やむなし」という声が

上がりますが、昭和天皇は静かに立ち上がって言いました。

「私の意見は変わらない。私自身は如何になろうとも、国民の生命を

助けたいと思う」

もはや列席者一同は慟哭するのみでした。

そして昭和天皇は最後にこう言いました。

「これから日本は再建しなくてはならない。それは難しいことであり、

時間も長くかかるだろうが、国民が皆一つの家の者の心持になって努

力すれば必ず出来るであろう。自分も国民と共に努力する」(迫水久常

内閣書記官長の証言録より)

同日、「ポツダム宣言受諾」は閣議決定され、午後十一時、連合国側

へ通達されました。こうして大東亜戦争は終結しました。

この歴史的な出来事の経緯と昭和天皇のお言葉が、今日、文科省が選

定したどの歴史教科書にも書かれていないのは不可解としか言いよう

がありません。したがってこのことを知っている日本人はほとんどい

ないのが実情です。しかし、日本人であるならば、このことは永久に

忘れてはならないことだと思います。  

(246p)

  

日本人であるならば、このことは永久に忘れてはならないこと。

引用しました。

昭和天皇の決断で、今の日本がありますね。

  

  

GHQの最大の目的は、日本が二度とアメリカに歯向かえない国に改造

することでした。そこで、明治以降、日本人が苦心して作り上げた政

治の仕組みを解体し、憲法を作り替えることに着手しました。

(253p)

  

戦いに勝った国は、こうやって考えるよなと思います。

そしてGHQは、今の時代にまで続く影響を作為します。

  

続く

本「日本国紀 下」/チャーチルの喜び 大東亜戦争という名前 徴用船の悲劇

   

今日は令和5年11月5日。

  

前記事に引き続き、

「日本国紀 下」(百田尚樹著/幻冬舎文庫)

から引用していきます。

   

太平洋戦争に日本が参戦。

これを喜んだのが、アメリカ大統領ルーズベルト。

  

日本の攻撃を喜んだ人物がもう一人いました。イギリス首相のウィン

ストン・チャーチルです。日米開戦の報告を受けたチャーチルは大喜

びし、すぐにルーズベルトに電話しました。ルーズベルトの「いまや

われわれは同じ船に乗ったわけです」という言葉を聞いたチャーチル

は、これで戦争に勝てると確信しました。

彼はこの時の興奮と喜びを後に回顧録『第二次大戦』で次のように書

いています。

「感激と興奮とに満たされ、満足して私は床につき、救われた気持で

感謝しながら眠りについた」

さらにこうも書いています。

「ヒトラーの運命は決まった。ムッソリーニの運命も決まったのだ。

日本人についていうなら、彼らはこなごなに打ちくだかれるだろう」

ドイツとイタリアに関しては個人の滅亡にのみ言及していますが、日

本に対しては民族全体の運命に言及しています。たまたまの表現なの

かもしれませんが、私はチャーチルの白人種以外への差別意識が表わ

れたと見ています。ちなみに彼は昭和二八年(一九五三)にこの回顧録

でノーベル文学賞を受賞しています。

(220〜221p)

  

チャーチルはこんなふうに思っていたのですね。

アメリカが参戦する理由を日本が提供してくれたことが、

本当にうれしかったのでしょう。

日本にとっては、やっぱり残念な判断でした。

戦争を煽った新聞社の罪は重い。

  

  

開戦四日後の昭和一六年(一九四一) 十二月十二日、日本はこの戦争を

「大東亜戦争」と名付けると閣議決定しました。したがって、この戦

争の正式名称は「大東亜戦争」です。現代、 一般に使われている

「太平洋戦争」という名称は、実は戦後に占領軍が強制したものなの

です。

(221〜222p)

  

私たちは「太平洋戦争」と習い、教えています。

「大東亜戦争」は、大人になってから知るようになった名前です。

占領軍の目論見通りになっています。

  

   

開戦前、日本政府はインドネシアの石油やボーキサイト(アルミニウ

ムの原料)を日本に送り届けるための輸送船を民間から徴用すること

に決めていました。 しかし軍が必要とするだけの数を使用すると、

国内の流通に支障をきたすため、軍は「半年だけ」という条件で無

理矢理に民間船を使用したのです。ところが、インドネシアからの

石油などの物資を運ぶ輸送船や油槽船が、アメリカの潜水艦によっ

て次々と沈められる事態となります。 それでも海軍は、輸送船の護

衛など一顧だにせず、聯合艦隊の誇る優秀な駆逐艦が護衛に付くこ

とは一切ありませんでした。「聯合艦隊はアメリカの太平洋艦隊を

撃破するためのもので、鈍足の輸送船を護衛するためのものではな

い」というのが上層部の考えだったからです。

海軍は、かつて日本海海戦でパルチック艦隊を壊滅させて日露戦争

に勝利したように、大東亜戦争もアメリカの太平洋艦隊を壊滅させ

れば終結すると考えていました。そのため艦隊決戦こそが何よりも

優先されるという思い込みを持っており、輸送船の護衛などは考え

もしなかったのです。 海軍では船舶の護衛任務を「くされ士官の捨

て所」と呼んで軽傷していましたし、陸軍にも「重輸卒(しちょう

ゆそつ)(物資の輸送をする兵)が兵隊ならば蝶々トンボも鳥のうち」

と輜重兵を馬鹿にしたざれ歌がありました。 戦争が、輸送や生産も

含めた総力戦であるという理解が欠如していたのです。

身を守る手段のない輸送船は大量に撃沈されました。それで「半年

だけ」という約束は反故にされ、軍はさらに民間船を徴用すること

になります。そのため戦場では勝利を収めながらも、国内経済は行

き詰まっていくという矛盾した状況に陥りました。石油を含む物資

の不足が、工業生産力の低下を招き、戦争継続が困難な状況になっ

たにもかかわらず、軍はそのあたりをまったく把握・理解できてい

ませんでした。

驚くべきデータがあります。 公益財団法人「日本殉職船員顕彰会」

の調べによれば、大東亜戦争で失われた徴用船は、商船三千五百七

十五隻、機帆船二千七十隻、漁船千五百九十五隻、戦没した船員と

漁民は六万人以上にのぼります。その損耗率は何と約四三パーセン

トです。 これは陸軍兵士の損耗率約二〇パーセント、海軍兵士の

損耗率約一六パーセントをはるかに超えています。

彼ら民間の船員たちは、海外から石油を含む貴重な物資を命懸け

で運んだにもかかわらず、石油は軍に優先的に回され、国民には

満足に行き渡りませんでした。それでも軍需物資の不足に悩む政

府は、昭和十七年(一九四二)五月に、金属類回収令を発動し、寺

の梵鐘(ぼんしょう)、橋の欄干、銅像、さらに一般家庭にある

余った鍋釜や鉄瓶、火箸に至るまで強制的に供出させたのです。

これにより国民生活は一層逼迫しました。この時点で、戦争継続

は不可能な状況といえました。

(222〜224p)

  

徴用船の悲劇は、以前記事にしたことがあります。

ここでも道草 民間徴用船の調査に関する記事(2020年8月12日投稿)

この記事から、2014年の4本の記事まで飛べます。

関心のある徴用船。

船舶の護衛を重要な仕事であると思っていなかったことを知りました。

本「日本国紀 下」/樋口季一郎 バスに乗り遅れるな 百人斬り

   

今日は令和5年11月5日。

  

前記事に引き続き、

「日本国紀 下」(百田尚樹著/幻冬舎文庫)

から引用していきます。

   

ドイツのユダヤ人迫害政策は、日本にも影響を与えていました。

戦争が始まる前年から、東ヨーロッパのユダヤ人の一部はドイツの迫

害から逃れるためにシベリア鉄道を使って上海のアメリカ租界を目指

しました。しかし、ルートの途中にある満洲国の外交部が旅券を出さ

ないため、国境近くのオトポール駅(現在のロシア、ザバイカリスク駅)

で足止めされました。それを知った関東軍の樋口季一郎(ひぐちき い

ちろう)少将(当時)はユダヤ人に食料・衣服・医療品などを支給した

上で、上海租界へ移動できるように便宜を図りました。 この「ヒグチ

ルート」と呼ばれるルートを通って命を救われたユダヤ人は、明らか

になっているだけで四千三百七十人以上(一説には二万人) とされてい

ます。このことを知ったドイツは、日本に対して強く抗議しました。

前々年に「日独防共協定」を結び、ドイツと良好な関係を保ちたいと

考えていた関東軍内部でも樋口の処分を求める声が高まりました。

しかし時の関東軍参謀長、東條英機は樋口の行動を不問とし、ドイツ

に対して「人道上の当然の配慮である」として、その抗議をはねのけ

ました。なお樋口は昭和二〇年(一九四五)、北方防衛の第五方面軍司

令官として、ポツダム宣言受諾後に、樺太や千島列島に軍事侵攻して

きたソ連軍と戦っています。この時、磨下(きか)の九十一師団が占

守島(しむしゅとう)の戦いでソ連軍に痛撃を与え、彼らを足止めし

たことによって、北海道侵攻を食い止めたといわれています。 戦後、

ソ連は樋口を戦犯として起訴しようとしますが、それを知った世界

ユダヤ人会議をはじめとするユダヤ人たちが様々なネットワークを

使って樋口の助命嘆願を行ない、戦犯リストから外させました。

樋口と陸軍士官学校の同期であった安江仙弘(のりひろ)陸軍大佐も

ユダヤ人救出に尽力した軍人でした(戦後、ソ連軍に逮捕されシベリ

アの収容所で病死)。

また、昭和一五年(一九四〇)、リトアニアの日本領事館に勤めてい

た杉原千敵は、ユダヤ人難民に日本へ入国するためのビザを発行し

て、約六千人のユダヤ人を救いました。この時、杉原が日本政府(外

務省)の命令に反してビザを発行したと書かれている本もありますが、

いかにビザがあっても政府が拒否すればユダヤ人は日本に入国できま

せん。つまりユダヤ人亡命は、時の日本政府が黙認していたというこ

とです。

これらのエピソードから、当時の日本政府にも陸軍にも民族差別の

意識がなかったこと、そして人道主義の立場を取っていたことがうか

がえます。

樋口が多くのユダヤ人を救ったエピソードは現代のユダヤ人コミュニ

ティでも広く知られており、イスラエルでは、建国に功労のあった人

物の名を刻む「ゴールデンブック」に、樋口季一郎の名が刻まれてい

ます。

(207〜208p)

  

杉原千畝さんは知っていましたが、樋口季一郎さん、安江仙弘さんは

知りませんでした。

樋口さんは、関心のある占守島の戦いにも参加していたのですね。

ここでも道草 「写真が語る戦争」・・・占守島の戦い/池田末男さん(2008年11月26日投稿)

樋口さんが、戦後どうされたのか気になりました。

Wikipedia 樋口季一郎

1970年までご存命でした。

ユダヤ人を助けたことにも異説・異論があるようです。

歴史は難しいなあ。

  

  

驚異的な軍事力によってあっという間に西ヨーロッパを席巻したドイツ

の勢いを目の当たりにした日本陸軍内に、「バスに乗り遅れるな」とい

う声が生まれ、一種の流行語となりました。このことを深く憂慮した昭

和天皇は、親英米派で日独伊三国同盟には反対の立場を取っていた海軍

大将米内光政を内閣総理大臣に推挙しました(形式上は湯浅倉平内大臣

の推挙)。 昭和天皇が個人名を挙げて首相に推挙するのは例のな

いことです。いかに昭和天皇がドイツやイタリアとの同盟に反対してい

たかの証左です。

(210p)

  

この本では、昭和天皇が政治に関与したのは

数少ないことを強調しています。

その貴重な1回がこの時でした。

「バスに乗り遅れるな」が流行していたのに、

昭和天皇は冷静であったと思われます。

  

  

日本はそれでもアメリカとの戦争を何とか回避しようと画策しました。

アメリカと戦って勝てないことは政府も軍もわかっていたからです。

しかし日本の新聞各紙は政府の弱腰を激しく非難しました。満州事変

以来、新聞では戦争を煽る記事や社説、あるいは兵士の勇ましい戦い

ぶりを報じる記事が紙面を賑わすことが常となっていました。なかに

は荒唐無稽な創作記事も数多くありました。

東京日日新聞 (現在の毎日新聞)の「百人斬り」の記事などはその典型

です。これは支那事変で陸軍の二人の少尉が、「どちらが先に敵を百

人斬るかという競争をした」という事実誤認に満ちた根拠薄弱な内容

でした。しかし戦後、この記事が原因で、二人の少尉は南京軍事法廷

で死刑判決を受け、銃殺刑に処されています(毎日新聞は現在も記事の

内容は真実であったと主張している)。ちなみに「日独伊三国同盟」を積

極的に推したのも新聞社でした。

(214〜215p)

    

本多勝一さんの「中国の旅」で、百人斬りを読んだ覚えが。

これで百人斬りがあったことを信じました。

でもどうなんだろう。

野田中尉と向井少尉の争い。

野田少尉は、帰国して故郷の鹿児島で、

百人斬りの講演を行なっています。

Wikipedia 百人斬り競争

この出来事も、本当なのかどうなのか論争があるようです。

  

本「日本国紀 下」/「中国の旅」 国家総動員法の成立 ヒトラーへの妥協

   

今日は令和5年11月5日。

  

前記事に引き続き、

「日本国紀 下」(百田尚樹著/幻冬舎文庫)

から引用していきます。

   

「南京大虐殺」とは、支那事変以降、アメリカで蒋介石政権が盛んに

行なった反日宣伝活動のフェイクニュースでした。日本軍による「残

虐行為」 があったとアメリカのキリスト教団体とコミンテルンの工作

員が盛んに宣伝し、「残虐な日本軍と犠牲者・中国」というイメージ

を全米に広めたのです。 このイメージに基づいて、後年、第二次世界

大戦後に開かれた「極東国際軍事裁判」(東京裁判)では、日本軍の悪

行を糾弾する材料として「南京大虐殺」が取り上げられることになり

ます。

実は東京裁判でもおかしなことがありました。 この裁判では、 上官

の命令によって一人の捕虜を殺害しただけで絞首刑にされたBC級戦犯

が千人もいたのに、三十万人も殺したはずの南京大虐殺では、南京司

令官の松井石根大将一人しか罪に問われていないのです。規模の大きさ

からすれば、本来は虐殺命令を下した大隊長以下、中隊長、小隊長、

さらに直接手を下した下士官や兵などが徹底的に調べ上げられ、何千

人も処刑されているはずです。 しかし現実には、処刑されたのは松井

大将一人だけでした。

東京裁判で亡霊の如く浮かび上がった 「南京大虐殺」は、それ以降、

再び歴史の中に消えてしまいます。 「南京大虐殺」が再び姿を現すの

は、東京裁判の四半世紀後のことでした。

昭和四六年(一九七一)、朝日新聞のスター記者だった本多勝一(かつ

いち)が「中国の「旅」という連載を開始しました。その中で本多は、

「南京大虐殺」を取り上げ、日本人がいかに残虐なことをしてきたかを、

嘘とデタラメを交えて書いたのです。これが再燃のきっかけとなりまし

た。この時の取材、 本多の南京滞在はわずか一泊二日、「南京大虐殺」

を語った証言者は中国共産党が用意したわずか四人でした。後に本多自

身が「「中国の視点」を紹介することが目的の「旅」であり、その意味

では「取材」でさえもない」と語っています。

本多の連載が始まった途端、朝日新聞をはじめとする日本の多くのジャ

ーナリズムが「南京大虐殺」をテーマにして「日本人の罪」 を糾弾する

記事や特集を組み始めました。そうした日本国内での動きを見た中国政

府は、これは外交カードに使えると判断したのでしょう。以降、執拗に

日本政府を非難するようになったというわけです。 本多勝一の記事が

出るまで、毛沢東も周恩来も中国政府も、一度たりとも公式の場で言及

したことはなく、日本を非難しなかったにもかかわらずです。それ以前

は、中国の歴史教科書にも「南京大虐殺」は書かれていませんでした。

「なかったこと」を証明するのは、俗に「悪魔の証明」といわれ、ほぼ

不可能なこととされています。つまり、私がここで書いたことも、「な

かったこと」の証明にはなりません。ただ、客観的に見れば、組織的お

よび計画的な住民虐殺という意味での「『南京大虐殺」はなかった」と考

えるのがきわめて自然です。

(198〜200p)

  

私が若い時に、憧れた人物は2人。

アラビアのロレンスと本田勝一さんでした。

話題になっている「中国の旅」は読みました。老婆の写真が載った表紙は

今でも脳裏に焼き付いています。

現場に行って、話を聞いてルポを書く手法は、

素晴らしいなと思い、教員としても、現場主義を心掛けてきました。

鍛冶屋を教えるのに、実際に行って見て、聞いているのも、

その現場主義を心掛けているからです。

南京大虐殺のきっかけは、「中国の旅」であり、

それが不正確かも知れないという内容はドキドキします。

何が正しいんだ。

本田勝一さんの意見が聞きたい。

参考:(下)朝日記事「万人坑」はなかったという指摘に本多勝一氏はこう返答した…「中国の主張を代弁しただけ」

   

  

「支那事変」は確固たる目的がないままに行なわれた戦争でした。

乱暴な言い方をすれば、中国人の度重なるテロ行為に、お灸をすえて

やるという世論に押される形で戦闘行為に入ったものの、気が付けば

全面的な戦いになっていたという計画性も戦略もない愚かなものでし

た。

名称だけは「事変」となっていましたが、もはや完全な戦争でした。

しかもこの戦いは現地の軍の主導で行なわれ、政府がそれを止めるこ

とができないでいるという異常なものでもありました。そこには五・

一五事件や二・二六事件の影響があるのは明らかです。

支那事変が始まった翌年の昭和一三年(一九三八)には、「国家総動員

法」が成立しました。これは「戦時に際して、労働力や物資割り当て

などの統制・運用を、議会の審議を経ずに勅令で行なうことができる

ようにした法律」です。具体的には、国家は国民を自由に徴用でき、

あらゆる物資や価格を統制し、言論を制限しうるといった恐るべき法

律でした。ちなみにこの法案の審議中、趣旨説明をした佐藤賢了(け

んりょう)陸軍中佐のあまりに長い答弁に、衆議院議員たちから抗議

の声が上がったところで、佐藤が「黙れ!」と一喝したことがありまし

た。このとき議員たちの脳裏に二年前の二・二六事件が浮かんだこと

は容易に想像できます。佐藤の恫喝後、誰も異議を挟まなくなり、狂

気の法案はわずか一ヵ月で成立しました。

国力のすべてを中国との戦争に注ぎ込もうと考えていた日本はこの年、

二年後に東京で開催予定であった「オリンピック」と「万国博覧会」

(万博) を返上します。 これは、もはや世界の国々と仲良く手を結ん

でいこうという意思がないことを内外に宣言したに等しい決断でした。

このオリンピックと万博の返上は陸軍の強い希望であったといわれて

います。

(203〜204p)

   

二・二六事件の影響の話。

国会で「黙れ!」と言った陸軍中佐。

軍部に力が、国会を上回った証明みたいです。

反対できない議員。

命は惜しいですからね。

  

  

同じ昭和一三年(一九三八)、ヨーロッパではドイツがオーストリアを

併合し、チェコスロバキアのズデーテン地方を要求する事態となって

いました。チェコは拒否しますが、ヒトラーは戦争をしてでも奪うと

宣言します。 イギリスとフランスの首相がヒトラーと会談しましたが

(ミュンヘン会談)、英仏両国は、チェコを犠牲にすれば戦争は回避で

きると考え、ヒトラーの要求を全面的に受け入れます。そのためにチ

ェコは自国領土の一部をむざむざとドイツに奪われました。

イギリスとフランスが取った「宥和(ゆうわ)政策」は当時、ヨーロ

ッパの平和を維持するための現実的で勇気ある判断として大いに評価

され、ミュンヘン会談を終えてロンドン郊外のクロイドン空港に降り

立ったチェンバレン首相を、イギリス国民は大歓迎しました。

しかしこの「宥和政策」は、結果的にドイツに時間的、資金的な猶予

を与えただけのものとなりました。結果論ではありますが、この時、

イギリスとフランスが軍備を拡充して敢然とヒトラーに対峙していた

ならば、第二次世界大戦は避けられたかもしれません。仮に戦争にな

ったとしても、全ヨーロッパが火の海となり、夥しい死者が出る悲惨

な状況にはならなかったと思われます。 狂気の独裁者に対して宥和政

策を取るということは、一見、危険を回避したように見えますが、よ

り大きな危険を招くことにもつながるという一種の教訓です。

(205p)

  

この教訓は今に生きています。

プーチンに妥協しないことです。

歴史から学ぶべきです。

  

  

本「日本国紀 下」/震災時の朝鮮人 天皇の政治関与 通州事件

  

今日は令和5年11月5日。

   

今日は3連休の最終日。今日は発信が多い日にしたいです。

  

前記事に引き続き、

「日本国紀 下」(百田尚樹著/幻冬舎文庫)

から引用していきます。

  

話は関東大震災です。

  

なお、この震災直後、流言飛語やデマが原因で日本人自警団が多数

の朝鮮人を虐殺したといわれていますが、この話には虚偽が含まれ

ています。 一部の朝鮮人が殺人・暴行・放火・略奪を行なったこと

はまぎれもない事実です (警察記録もあり、新聞記事になった事件

も非常に多い。ただし記事の中には一部デマもあった)。中には震災

に乗じたテロリストグループによる犯行もありました。

司法省の記録には、自警団に殺された朝鮮人犠牲者は二百三十三人

とあります(その他に中国人が三人、朝鮮人と間違われて殺された日

本人が五十九人)。 一般にいわれている朝鮮人の犠牲者約六千人(東

京都墨田区横網の横網町公園にある「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼

碑」にもそう彫られている)は正しくありません。

韓国政府は「数十万人の朝鮮人が虐殺された」と言っていますが、

これはとんでもない虚偽です。震災当時、日本全国にいる朝鮮人は

八万六百十七人でした。 しかも震災の翌年には、十二万二百三十

八人の朝鮮人が日本に渡航しているのです。あまりの多さに渡航制

限がかけられたほどなのですが、多くの同胞が虐殺されたところへ、

それほど大勢が渡ってきたことはどう考えても解せません。いずれ

にせよ、不幸な事件であったことはたしかです。

(168〜169p)

   

大震災の時に、朝鮮人が実際に暴動とか起こしていたのですね。

一般に言われている朝鮮人の犠牲者の数は違うと言い切っています。

この辺りの真実は、きちんと見分けなければなりません。

百田さんは、自虐史観にならないようにしている人のようです。

何が正しいのでしょう。

またいつかこだわって調べてみます。

  

二・二六事件です。

侍従武官長は、蹴起した青年将校たちの心情だけでも理解してもらい

たいと昭和天皇に上奏します。しかし、大日本帝国憲法を否定するク

ーデター行為に反発した昭和天皇は、「朕が股肱(ここう)の老臣を

殺戮す、此の如き凶暴な将校等、其精神に於じょても何の恕すべきも

のありや」と怒りをあらわにして一蹴しました。そして軍首脳部に

「速やかに鎮圧せよ」と命じたのです。ところが、陸軍首脳部が部下

を討つことに躊躇します。すると天皇は自らが近衛兵を率いて鎮圧す

ると示唆しました。これによりようやく鎮圧部隊が動き、反乱軍は三

日後に鎮圧されました。現代においてもなお、二・二六事件を起こし

た青年将校らを「理想主義者」と見做す人がいますが、テロリズムの

容認は民主国家において絶対にあってはならないことです。したがっ

てこの時の昭和天皇の決断は完全に正しいものと私は考えます。

首謀者らは死刑となりましたが、この事件は、日本の全体主義的傾向

に決定的な影響を与えることとなります。この事件を契機に「皇道派」

と対立していた「統制派(軍の統制を重視し、軍による国家総動員体制

を構築しようとするグループ)」が軍の主導権を握り、官の主導で軍部

大臣現役武官制を復活させ、軍が政治を動かす体制を作り上げたから

です。

また軍を批判するとテロの標的にされるという恐怖から、政治家は軍

を批判できなくなってしまいました。 二・二六事件以降、「統制派」

が、 統制経済、言論の自由弾圧といった全体主義的な政策を推進して

いく異常事態となったのです。

(186〜187p)

   

昭和天皇は政治に関わることを避けていました。

この事件に関しての天皇の行動は、数少ないことです。

やはり、二・二六事件は、影響力の高い事件のようです。

  

昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件があり、

日本軍と中華民国軍が戦闘状態になりました。

その後のことです。

  

異常な緊張状態の中、その月の二十九日、北京東方で、「通州事件」

が起きます。この事件は、「東防共自治政府」(昭和一〇年【一九三

五】 から昭和一三年【一九三八】まで河北省に存在した自治政府で

あるが、その実体は日本の傀儡政権であるとされる)の中国人部隊が

反乱を起こし (国民党や中国共産党が使嗾【そそのかすこと】した

ともいわれる)、通州にある日本人居留地を襲い、女性や子供、老人

や乳児を含む民間人二百三十三人を虐殺した事件です。 その殺害方

法は猟奇的ともいうべき残虐なもので、遺体のほとんどが生前に激

しく傷つけられた跡があり、女性は子供から老人までほぼ全員が強

姦された上、性器を著しく損壊されていました。これらの記録や写

真は大量に残っていますが、まともな人間なら正視に耐えないもの

です。

この事件を知らされた日本国民と軍部は激しく怒り、国内に反中感

情が高まりました。また八月に上海の租界で二人の日本の軍人が射

殺された(大山事件)とともあり、日本人居留地を守っていた日本軍

と中華民国軍が戦闘状態に入りました(第二次上海事変)。このとき

ドイツの指導と武器援助を受けていた中華民国軍は屈強で、日本軍

は思わぬ苦戦を強いられます。 

(192p)

    

この本で初めて知った「通州事件」

かなり悲惨な出来事だったようです。

なぜか教えられない日本人惨●の通州事件

なぜあまり知られていないのか。

このサイトに答えがあるかなと思って読みましたが、

南京大虐殺は教えられるが、この事件は教えられないことに

疑問を呈していますが、答えはありませんでした。

中国に遠慮しているのかな。

日本人が中国で酷いことをしたのは教えるけど、

中国人が日本人に酷いことをしたのを教えるのは、

親中派の成果が多い今は、タブーなのかも。

  

2023年11月 4日 (土)

本「日本国紀 下」/日露戦争の影響 新聞が煽る・国民が誘導される 韓国併合時に日本がやったこと

   

今日は令和5年11月4日。

  

前記事に引き続いて、

「日本国紀 下」(百田尚樹著/幻冬舎文庫)

から引用していきます。

   

日露戦争で日本が勝利した時のことです。

  

十六歳の時に日本の勝利を聞いた後のインドのネルー首相は、こう語

っています。「自分たちだって決意と努力しだいではやれない筈がな

いと思うようになった。そのことが今日に至るまで私の一生をインド

独立に捧げさせることになったのだ」

ビルマ(現在のミャンマー)の独立運動家で初代首相のバー・モウは回

想録『ビルマの夜明け』で、その時の気持ちを次のように書いていま

す。「私は今でも、日露戦争と、日本が勝利を得たことを聞いたとき

の感動を思い起こすことができる。私は当時、小学校に通う幼い少年

に過ぎなかったが、その感動はあまりに広く行きわたっていたので、

幼い者をもとりこにした」

トルコでは子供に「トーゴー」や「ノギ」(旅順攻防戦の指揮官、乃

木希典大将の名前)と名付けることが流行り、後にトルコ青年らが起

こすオスマン帝国の圧政へのレジスタンスにも大きな影響を与えたと

いわれています。同じくロシアの侵略に苦しんできたポーランドなど

東欧諸国でも独立運動の気運が高まりました。 また長らく欧米の植

民地にされてきた中東やアフリカの人々にも大きな自信を与え、これ

以降、世界の植民地で民族運動が高まることになります。まさに「日

露戦争」こそ、その後の世界秩序を塗り替える端緒となった大事件だ

ったのです。

しかし列強諸国の受け止め方は違いました。日露戦争当時、ヨーロッ

パにいた孫文(中華民国初代臨時大総統)は、バルチック艦隊が日本の

聯合艦隊によって潰滅させられたニュースが届いた時のことをこう語

っています。

「この消息がヨーロッパに伝わると、ヨーロッパの人民は、みなその

ため両親をなくしたように悲しみました。 イギリスは、日本と同盟

を結んでいましたが、イギリス人もこの消息を聞くと、たいていの人

は、首をふり眉をひそめて、日本が大勝利を収めたことは、結局、白

人にとり、不幸な出来事だと、考えました」(『孫文選集』大正一三

年【一九二四】十一月二十八日神戸での講演より)

列強諸国の間で日本に対する警戒心が強まったのも、この頃からでし

た。歴史を俯瞰すると、その流れは強まったり弱まったりを繰り返し

ながら、次第に大きくなっていくのが見てとれます。

(123〜125p)

  

日露戦争での日本の勝利が、世界に影響力があったことがわかります。

そして、白人の有色人種(日本を含む)に対する蔑視。

この本でも、何度か出てきます。

今でもあるんだろうなあ。

  

日露戦争では約八万人という、日本の歴史上、最多の戦死者(日清戦

争の約六倍)を出したのです。国民からすれば、これほどの犠牲を払っ

て勝利したにもかかわらず、何の見返りもないのは許せないという気

持ちだったのでしょう。また新聞社が政府の弱腰を叩いたことも作用

して、世論は政府非難一色となりました。当時の朝日新聞は九月一日、

「大々屈辱」「講和憤慨」「日本政府自ら日本国民を侮辱するに当る」

などという強烈な記事を載せています。

こうした記事が出た後、全国各地で「閣僚と元老を辞めさせ、講和条

約を破棄してロシアとの戦争継続を求める」という主張を掲げた集会

が行なわれるようになります。

九月五日には、東京の日比谷公園で、条約に反対する国民集会が行な

われましたが、民衆が暴徒と化し、内務大臣官邸や周辺の警察署、派

出所を襲撃し、東京市内の十三カ所に火が付けられました。この時、

講和条約に賛成した国民新聞社は暴徒に焼き打ちされています。東京

は無政府状態となり、翌日、政府は戒厳令(緊急勅令による行政戒厳)

を敷いて近衛師団 (天皇と皇居を警衛する師団)が出動し、ようやく鎮

圧しました。死者十七人、負傷者五百人以上、検挙者二千人以上とい

う凄まじい暴動でした。この事件は「日比谷焼打事件」と呼ばれてい

ます。

私は、この事件が、様々な意味で日本の分水嶺となった出来事である

と見ています。すなわち、「新聞社 (メディア)が戦争を煽り、国民世

論を誘導した」事件であり、「新聞社に煽動された国民自らが戦争を

望んだ」、そのきっかけとなった事件でもあったのです。この流れは、

大正に入って鎮火したように見えましたが、昭和に入って再燃し、日

本が大東亜戦争になだれ込む一因ともなりました。

(129〜130p)

   

太平洋戦争が始まった大きな理由は、新聞社が戦争を煽り、

国民世論を誘導したのが大きい。

以前、そんなことを勉強したことがあります。

それは日露戦争後の日本で起こっていたことなのですね。

情報不足の国民としては、数少ない情報提供者の新聞を

信じて動いてしまうのですね。

現在はいろいろなメディアがあるから大丈夫か?

偏った情報の得方をしていると、危険だとは思いますね。

 

 

余談になりますが、大東亜戦争後に誕生した韓国は、併合時代に日本

から様々なものを奪われたと主張していますが、そのほとんどは言い

がかりに近いもので、むしろ日本は朝鮮半島に凄まじいまでの資金を

投入して、近代化に大きく貢献しました。列強が植民地に多額の資本

を投じて近代化を促進させた例はほとんどありません。

日本の朝鮮統治における近代化政策の例をいくつか挙げると、併合前

まで百校ほどしかなかった小学校を四千二百七十一校に増やし、全国

の児童に義務教育を施し、10パーセント程度であった国民の識字率

を六〇パーセントにまで引き上げています。ハングルを普及させたの

も日本です。

また全土がほぼはげ山だったところに約六億本もの木を植え、鴨緑江

には当時世界最大の水力発電所を作り、国内の至るところに鉄道網を

敷き、工場を建てました。 新たな農地を開拓し、灌漑を行ない、耕地

面積を倍にしました。それにより米の収穫量を増やし、三十年足らず

で人口を約二倍に増やしたのです。同時に二十四歳だった平均寿命を

四十二歳にまで延ばしました。厳しい身分制度や奴隷制度、おぞまし

い刑罰などを廃止しました。これらのどこが収奪だというのでしょう

か。

(132〜133p)

   

朝鮮のハゲ山を、日本人が植林した。

本当だろうか。

1945年への道 「ハゲ山を緑にした」は本当か

このサイトによると、緑は増やそうとしたが、

それほどの成果は上がらなかったようです。

note. はげ山の真実 日帝が朝鮮をはげ山 にしたって本当!?

朝鮮の山をハゲ山にしたのは、日本のせいだという説もあるが、

それは誤りだと書いています。

災害防止のために、植林は行われましたが、

需要が上回っていたために、成果が出なかったそうです。  

  

本を読んだことがきっかけで、さらに勉強ができます。

本「日本国紀 下」/柴五郎 閔妃 T字戦法

   

今日は令和5年11月4日。

  

前記事に引き続いて、

「日本国紀 下」(百田尚樹著/幻冬舎文庫)

から引用していきます。

   

「義和団の乱」において、忘れてはならない日本人がいます。 それは

柴五郎です。万延(まんえん)元年(一八六〇)に会津藩士の子として

生まれた柴は、戊辰戦争の折に祖母・母・兄嫁・姉妹が自決するとい

う悲惨な境遇の中に育ちますが、後に陸軍士官学校を出て、三十九歳

の時、義和団の乱が起きる直前に、北京の公使館へ駐在武官として派

遣されました(当時は中佐)。

凶暴な暴徒が各国公使館を取り囲む中(日本の公使館員やドイツ公使が

殺されている)、英語・フランス語・中国語に精通していた柴は他国軍

と協力して、義和団から公使館を守り通します。この時、柴は事前に北

京城およびその周辺の地理を調べ尽くしており、さらに中国人の間者

(スパイ)を使って情報網を築き、籠城軍の実質的な司令官として活躍し

たのです。

「義和団の乱」の後、イギリス公使クロード・マクドナルドは 「北京

籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と

言い、英紙特派員は柴を「籠城中のどの(国の) 士官よりも有能で経験

豊かだったばかりか、誰からも好かれ尊敬された」と評しました。柴は、

イギリスの武功勲章はじめ各国政府から勲章を授与され、柴五郎の名は

欧米で広く知られることとなりました。とその配下の日本兵の勇敢さと

礼儀正しさに深く心を動かされたマクドナルドは、ロバート・アーサー

・タルボット・ガスコイン=セシル・ソールズベリー首相に日英同盟の

構想を熱く語ったといわれます。 後の日英同盟の交渉の際にはマクド

ナルドがすべて立ち会い、同盟締結の強力な推進者となりました。 こ

の日英同盟が、後に起こった「日露戦争」において、日本の大きな援護

となります。

(109〜110p)

  

日英同盟は、ロシアに対する利害が一致したことで結ばれた同盟と

覚えていますが、日本人の優れた面を知った外交官が、同盟を結ぶ

ことを進めたという話は、日本人として誇らしいなと思います。

柴五郎。覚えておきたい人です。

  

  

そんな清を日本が打ち破ったことで、朝鮮国内では親日派が台頭しま

すが、日本が三国干渉に屈したのを見ると、今度は親日派に代わって

親ロシア派が力を持ちます。いかにも朝鮮らしい事大主義(強い他国

に従っていくという考え方) の表われですが、常にその時代の最も強

い国にすり寄っていく、この独特の姿勢には、自国のことを自国で決

めるという独立の精神が微塵も見られません。

親ロシア派の代表が閔妃(びんひ) (李氏朝鮮第二十六代目の王であ

る高宗の妻)でした。 閔妃は高宗の父である大院君から実権を奪うと、

独裁的な政治を行ないます。近代化を進めようとする改革派を弾圧し、

自らは国庫の財産を浪費し、そのために民衆は苦しみました。日本に

とって都合が悪かったのは、この閔妃がロシアと接近したことでした。

そこで、明治二八年(一八九五)、日本人公使の主導のもと、大院君ら

の反閔妃派の朝鮮人と日本人が閔妃を殺害しました(実行犯が朝鮮人か

日本人かは不明)。の事件は「乙未事変(いつみじへん)」と呼ばれて

います。 実は以前から朝鮮国内に反閔妃派は少なくなく、前述した明

治一五年(一八八二)の「壬午軍乱」の際にも、反乱軍が閔妃を殺害し

ようとしています(失敗に終わる)。とはいえ、他国の皇后殺害を日本

人が主導するという行為は恥ずべきものです。ただし、日本政府の関

与はなかったといわれています。一方で、事件の首謀者は大院君とい

う説もあり(事件直後、朝鮮国内で行なわれた裁判で大院君を首謀者

とする判決が出ている)、真相は闇の中です。

(111〜112p)

  

閔妃暗殺についての本を読んだ覚えがあります。

この本ですね。

Img_2605

Amazon

1993年の本。

おそらく発刊当時に読んでいるので、30年前。

まだ朝鮮の歴史がわかっていない時に読んだような。

でも心に残っている本です。暗殺シーンは怖かった。

  

百田さんの、韓国のイメージがよくわかりました。

事大主義。初めて聞いた言葉ですが、その由来は。

Wikipedia 事大主義

その語源は『孟子』の「以小事大」(=小を以って大に事える)の

一節にある。孟子では、中国の戦国時代の諸国群雄割拠において、

越が呉に仕えた例を挙げている。つまり「小国のしたたかな外交政

策(知恵)」というのが本来の意味。

  

あまり悪い意味ではなかったけど、

現在はよくないイメージをまとった言葉のようです。  

 


余談ですが、日本海海戦は「丁字戦法」(T字戦法ともいう)によって勝

利したという定説があり、多くの歴史書にもそう書かれています。 丁

字戦法とは敵の縦列艦隊に対し、その進行方向を押さえる形に艦隊を

配し、それが上から見て「丁」の字になることから名付けられた戦法で、

艦隊の砲戦では最も理想的な攻撃態勢とされています(味方の艦の主砲

と舷側の砲はすべて撃てるのに対し、敵艦の砲は前部の主砲しか撃て

ない)。しかし実は聯合艦隊が丁字戦法で勝利したというのは誤りです。

丁字戦法を目指してはいたのですが、実際には並行航行での砲戦となっ

たというのが真実です。「日本海海戦」の圧倒的な勝利と、後に秋山が

講演などで丁字戦法を用いたと語ったことから、それがいつのまにか

定説になってしまったようですが、真の勝因は水兵たちの練度の高さと、

指揮官の勇猛果敢な精神にあったのです。

(122p)  

  

そうか、映画やドラマでは、しっかりT字戦法です。

定説になってしまっていますね。

  

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