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2023年11月 5日 (日)

本「日本国紀 下」/零戦を牛で運ぶ 昭和天皇の決断 GHQの目的

   

今日は令和5年11月5日。

  

前記事に引き続き、

「日本国紀 下」(百田尚樹著/幻冬舎文庫)

から引用していきます。

   

大東亜戦争を研究すると、参謀本部(陸軍の総司令部)も軍令部(海軍の

総司令部)も「戦争は国を挙げての総力戦である」ということをまった

く理解していなかったのではないかと思えます。国民に鍋や釜まで供出

させながら、一方で夥(おびただ)しい無駄を放置しているからです。

たとえば前述の輸送船問題にどう対応したかといえば、どうせすぐに沈

められるのだからと適当な設計で「戦時標準船」という名前の粗製濫造

ともいえる船を作り、実際に次々に沈められています。

無駄といえば、零戦の製作にもありました。 三菱零式艦上戦闘機は日本

海軍の主力戦闘機ですが、その製造の実態を知れば多くの人は耳を疑う

でしょう。 零戦は名古屋の三菱工場で作られましたが、工場の近くには

飛行場がありませんでした。そのため完成した零戦をいったんバラバラ

にして、牛が引く荷車三台に載せて、約四〇キロ離れた岐阜の各務原飛

行場まで一昼夜かけて運び、そこであらためて組み立ててから全国の基

地に向けて飛ばしたのです。

なぜ馬ではなく牛を使ったのかといえば、「名古屋―各務原」間は道路

が舗装されておらず、スピードが出る馬車だとせっかく作った零戦が壊

れるからです。同様の理由でトラックも使えませんでした。当時、飛行

機といえば世界最高のテクノロジー兵器であり、零戦の性能は世界標準

の素晴らしいものでした。 その兵器を牛で運んでいたのです。普通なら

工場の横に飛行場を作るか、その逆か、あるいは道路を広げて舗装する

かという話になるはずですが、それぞれの管轄が別という縦割り行政の

せいで、この冗談かと思うほど非効率な状況は終戦まで改善されません

でした。さらに、戦争が激化すると、工場の熟練工も召集され戦場へ送

られました。代わりに中学生や女学生を勤労学生として工場に送り込み

ましたが、当然一流の職工の代わりになるはずもなく、零戦の不良品が

相次ぐこととなります。

アメリカではもとより兵器は大量生産しやすいように設計され、熟練工

でなくても作れる工程が組まれていました。日本の同盟国ドイツでは軍

需大臣のアルベルト・シュペーアが徴兵の権限まで持っていたため、一

流の職人や工場労働者は戦場に送りませんでした。したがって戦争末期

まで工業生産力が低下しなかったのです。またドイツは敗戦の前年でも

国民一人当たりのカロリー摂取量は戦前と同じレベルを保っていました

(同時期の日本はドイツの三分の二しかない)。

アメリカもドイツも、戦争は総合力であるということを知っていたので

す。 ただ、それは第一次世界大戦の厳しい体験を通じて学んだ部分が大

きかったといえます。一方、日本はそれを学ぶ機会がありませんでした。

日本にとって直近の大戦争は日露戦争であり、戦争は局地戦で勝利すれ

ば勝てるという誤った教訓を身に付けてしまったのです。

海軍と陸軍の対立もひどいものでした。一例を挙げると、銃や弾丸の規

格と仕様さえも違っていたのです。 世界の軍隊でこんな例はありません。

似た話としては、インドネシアの石油施設を多く取ったのは陸軍でした

が、実は陸軍は海軍ほど石油を使いません。それなのに現地で余った石

油を海軍には回しませんでした。そのため海軍は常に重油不足で、聯合

艦隊の行動に制限がかけられていました。見るに見かねた陸軍の士官が

海軍に石油を回したことがありましたが、彼は軍から厳しい叱責を受け

ています。 そもそも石油を確保するために始めた戦争であったにもかか

わらず、完全にその目的を見失っていたのです。

別の例を挙げると、軍用機メーカーの中島飛行機は海軍と陸軍の飛行機

を作っていましたが、同じ会社の敷地内に別々の建物を作り、お互いに

徹底した秘密主義で建物に囲いまで作って互いの設計図や工程を見せな

いようにしていました。共同で開発していこうなどという気は皆無だっ

たのです。

海軍と陸軍の国益に反する対立は枚挙にいとまがありませんが、こうし

たことを見ると、はたして当時の日本陸軍と海軍は、本気で戦争に勝つ

気があったのだろうかとさえ思えてきます。

(228〜230p)

   

大量に引用しました。

アプリで、写真に撮ると、テキスト化してくれるものを使っています。

手打ちに比べて、はるかに楽なので、たくさん引用してしまいます。

日露戦争に勝ってしまったことで、日本は学べなかったのですね。

目を疑いたくなるようなことが、次から次に書かれていました。

実はまだまだ日本の軍部の愚かなところは、

書かれているのですが、ここまでにしました。

  

日本政府はその日の朝、連合国軍に「ポツダム宣言受諾」を伝えます

が、この時、「国体護持」(天皇を中心とした秩序【政体】の護持)を

条件に付けました。連合国からの回答は十三日に来ましたが、その中

に「国体護持」を保証する文言がなかったため(天皇の処刑の可能性

もあった)、政府は十四日正午に再び御前会議を開きます。この時の

列席者は、九日の時の七人に加え、全閣僚を含む計二十三人でした。

この席上で、「陛下を守れないなら) 本土決戦やむなし」という声が

上がりますが、昭和天皇は静かに立ち上がって言いました。

「私の意見は変わらない。私自身は如何になろうとも、国民の生命を

助けたいと思う」

もはや列席者一同は慟哭するのみでした。

そして昭和天皇は最後にこう言いました。

「これから日本は再建しなくてはならない。それは難しいことであり、

時間も長くかかるだろうが、国民が皆一つの家の者の心持になって努

力すれば必ず出来るであろう。自分も国民と共に努力する」(迫水久常

内閣書記官長の証言録より)

同日、「ポツダム宣言受諾」は閣議決定され、午後十一時、連合国側

へ通達されました。こうして大東亜戦争は終結しました。

この歴史的な出来事の経緯と昭和天皇のお言葉が、今日、文科省が選

定したどの歴史教科書にも書かれていないのは不可解としか言いよう

がありません。したがってこのことを知っている日本人はほとんどい

ないのが実情です。しかし、日本人であるならば、このことは永久に

忘れてはならないことだと思います。  

(246p)

  

日本人であるならば、このことは永久に忘れてはならないこと。

引用しました。

昭和天皇の決断で、今の日本がありますね。

  

  

GHQの最大の目的は、日本が二度とアメリカに歯向かえない国に改造

することでした。そこで、明治以降、日本人が苦心して作り上げた政

治の仕組みを解体し、憲法を作り替えることに着手しました。

(253p)

  

戦いに勝った国は、こうやって考えるよなと思います。

そしてGHQは、今の時代にまで続く影響を作為します。

  

続く

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