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2023年11月 5日 (日)

本「日本国紀 下」/樋口季一郎 バスに乗り遅れるな 百人斬り

   

今日は令和5年11月5日。

  

前記事に引き続き、

「日本国紀 下」(百田尚樹著/幻冬舎文庫)

から引用していきます。

   

ドイツのユダヤ人迫害政策は、日本にも影響を与えていました。

戦争が始まる前年から、東ヨーロッパのユダヤ人の一部はドイツの迫

害から逃れるためにシベリア鉄道を使って上海のアメリカ租界を目指

しました。しかし、ルートの途中にある満洲国の外交部が旅券を出さ

ないため、国境近くのオトポール駅(現在のロシア、ザバイカリスク駅)

で足止めされました。それを知った関東軍の樋口季一郎(ひぐちき い

ちろう)少将(当時)はユダヤ人に食料・衣服・医療品などを支給した

上で、上海租界へ移動できるように便宜を図りました。 この「ヒグチ

ルート」と呼ばれるルートを通って命を救われたユダヤ人は、明らか

になっているだけで四千三百七十人以上(一説には二万人) とされてい

ます。このことを知ったドイツは、日本に対して強く抗議しました。

前々年に「日独防共協定」を結び、ドイツと良好な関係を保ちたいと

考えていた関東軍内部でも樋口の処分を求める声が高まりました。

しかし時の関東軍参謀長、東條英機は樋口の行動を不問とし、ドイツ

に対して「人道上の当然の配慮である」として、その抗議をはねのけ

ました。なお樋口は昭和二〇年(一九四五)、北方防衛の第五方面軍司

令官として、ポツダム宣言受諾後に、樺太や千島列島に軍事侵攻して

きたソ連軍と戦っています。この時、磨下(きか)の九十一師団が占

守島(しむしゅとう)の戦いでソ連軍に痛撃を与え、彼らを足止めし

たことによって、北海道侵攻を食い止めたといわれています。 戦後、

ソ連は樋口を戦犯として起訴しようとしますが、それを知った世界

ユダヤ人会議をはじめとするユダヤ人たちが様々なネットワークを

使って樋口の助命嘆願を行ない、戦犯リストから外させました。

樋口と陸軍士官学校の同期であった安江仙弘(のりひろ)陸軍大佐も

ユダヤ人救出に尽力した軍人でした(戦後、ソ連軍に逮捕されシベリ

アの収容所で病死)。

また、昭和一五年(一九四〇)、リトアニアの日本領事館に勤めてい

た杉原千敵は、ユダヤ人難民に日本へ入国するためのビザを発行し

て、約六千人のユダヤ人を救いました。この時、杉原が日本政府(外

務省)の命令に反してビザを発行したと書かれている本もありますが、

いかにビザがあっても政府が拒否すればユダヤ人は日本に入国できま

せん。つまりユダヤ人亡命は、時の日本政府が黙認していたというこ

とです。

これらのエピソードから、当時の日本政府にも陸軍にも民族差別の

意識がなかったこと、そして人道主義の立場を取っていたことがうか

がえます。

樋口が多くのユダヤ人を救ったエピソードは現代のユダヤ人コミュニ

ティでも広く知られており、イスラエルでは、建国に功労のあった人

物の名を刻む「ゴールデンブック」に、樋口季一郎の名が刻まれてい

ます。

(207〜208p)

  

杉原千畝さんは知っていましたが、樋口季一郎さん、安江仙弘さんは

知りませんでした。

樋口さんは、関心のある占守島の戦いにも参加していたのですね。

ここでも道草 「写真が語る戦争」・・・占守島の戦い/池田末男さん(2008年11月26日投稿)

樋口さんが、戦後どうされたのか気になりました。

Wikipedia 樋口季一郎

1970年までご存命でした。

ユダヤ人を助けたことにも異説・異論があるようです。

歴史は難しいなあ。

  

  

驚異的な軍事力によってあっという間に西ヨーロッパを席巻したドイツ

の勢いを目の当たりにした日本陸軍内に、「バスに乗り遅れるな」とい

う声が生まれ、一種の流行語となりました。このことを深く憂慮した昭

和天皇は、親英米派で日独伊三国同盟には反対の立場を取っていた海軍

大将米内光政を内閣総理大臣に推挙しました(形式上は湯浅倉平内大臣

の推挙)。 昭和天皇が個人名を挙げて首相に推挙するのは例のな

いことです。いかに昭和天皇がドイツやイタリアとの同盟に反対してい

たかの証左です。

(210p)

  

この本では、昭和天皇が政治に関与したのは

数少ないことを強調しています。

その貴重な1回がこの時でした。

「バスに乗り遅れるな」が流行していたのに、

昭和天皇は冷静であったと思われます。

  

  

日本はそれでもアメリカとの戦争を何とか回避しようと画策しました。

アメリカと戦って勝てないことは政府も軍もわかっていたからです。

しかし日本の新聞各紙は政府の弱腰を激しく非難しました。満州事変

以来、新聞では戦争を煽る記事や社説、あるいは兵士の勇ましい戦い

ぶりを報じる記事が紙面を賑わすことが常となっていました。なかに

は荒唐無稽な創作記事も数多くありました。

東京日日新聞 (現在の毎日新聞)の「百人斬り」の記事などはその典型

です。これは支那事変で陸軍の二人の少尉が、「どちらが先に敵を百

人斬るかという競争をした」という事実誤認に満ちた根拠薄弱な内容

でした。しかし戦後、この記事が原因で、二人の少尉は南京軍事法廷

で死刑判決を受け、銃殺刑に処されています(毎日新聞は現在も記事の

内容は真実であったと主張している)。ちなみに「日独伊三国同盟」を積

極的に推したのも新聞社でした。

(214〜215p)

    

本多勝一さんの「中国の旅」で、百人斬りを読んだ覚えが。

これで百人斬りがあったことを信じました。

でもどうなんだろう。

野田中尉と向井少尉の争い。

野田少尉は、帰国して故郷の鹿児島で、

百人斬りの講演を行なっています。

Wikipedia 百人斬り競争

この出来事も、本当なのかどうなのか論争があるようです。

  

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