本「ナポレオンと東條英機」③ 白人の女性の参政権も1946年に認められたんだ
今日は令和6年11月2日。
2回前の記事の続きで、
「ナポレオンと東條英機」(武田邦彦著/ベスト新書)
から引用していきます。
11月1日に、返さないといけなかった本なので、
付箋を貼ったところをコピーして、
引用して行くことにしました。
「自国語に翻訳する」という画期的な行動
このような特殊な日本社会がヨーロッパ文明と接したとき、他のアジ
ア諸国と違い、日本の有識者は積極的にヨーロッパの学問や文化を日
本語に翻訳する」いう画期的な行動に出ました。
ほとんどの国民は外国語を読めなかったのですから、日本の常識では
外国の書物を翻訳するのは当然だと思うでしょうが、当然と思うこと
自体が「日本人が特殊である」ということを証明しています。
日本以外のアジア諸国は、ヨーロッパの学問や文化を吸収するために、
英語やドイツ語を自国語に翻訳せず、そのまま外国語で読んでいまし
た。その理由は、国の支配層しか外国語を読めませんので、彼らが欧
米の学問や文化を独占しようとしていたからです。
日本以外の国で「国家」という意識が全然ないとも言えませんが、か
なり弱いのです。特に支配層は、「同じ同胞」というより、「国民(
庶民)は自分たちが豊かになるためのもの」という意識があり、技能
や知識を独占していました。
(86p)
翻訳をして多くの人に読んでもらいたいなんて、
当たり前のことのように思えますが、
そんな発想のない国もあったのですね。
七つの海を支配していたイギリスの海軍力は圧倒的でした。 清王朝と
の間に起こったアヘン戦争でも、戦闘が起こると清王朝の犠牲者が
2000人、イギリス軍は10人程度というぐらいの差があって、まとも
な戦闘とは言えないようなものでした。戦争の理由も今から考えると
とんでもないもので、「清王朝はイギリスが支那で販売している麻薬
のアヘンを禁止したからケシカラン!」というような理由でした。この
ような不当な戦争の理由はイギリス国内でも全員が賛成していたわけ
ではなく、特にアヘン戦争のときにはイギリスの代議士ウィリアム・
グラッドストンが国会で「醜悪な戦争」という演説をしています。
しかし、結局戦争が起こり、清王朝が敗北して、その結果麻薬のアヘ
ンを強制的に買わされ、支那の領土の一部がイギリスに割譲されると
いう酷いことが歴史的に起こっているのです。
日本で教えられる歴史では、白人が行ってきた醜悪なこと、暴虐行為
はほとんど伝えられていません。むしろ「イギリスは七つの海を支配
した」とやや輝かしいように伝えられますが、もちろん2000万人か
ら3000万人ぐらいしか人口がなかったイギリスが、数億人が住んで
いる「七つの海」を支配するには、暴虐の限りを尽くさないと支配で
きるものではなかったことも事実です。
イギリスの大きな植民地だったインドでは、有望なインドの若者が出
現するとイギリス軍が二列縦隊を作ってそのインドの若者の家に行っ
て、若者を引きずり出し、両手首を切り落とすということもありまし
た。インドに有望な若者が現れて、インドが発展し、インドの人たち
が「理由なくインドは植民地になって圧迫されている」ということを
知れば、反乱が起こり、数の力でイギリスが負けるのが予想されるか
らでした。
経済面でもイギリスは巧みな方法を用います。インドから輸入する香
料などを「ただ同然で買う」という悪辣(あくらつ)なことをしてい
ました。
当時インドの通貨はルピー、イギリスの通貨はポンドでしたが、イギ
リスはインドから香料などを輸入するとその代金としてポンドで支払
いをしていました。インド人はポンドを受け取っても国内で通用しま
せんし、当時はインド人が国外に出るということはほとんどなかった
ので、ポンドはまったく使い道がなく、その大半をイギリスのロンド
ンの銀行に預けました。
そして300年ほど経つと、イギリスはポンドの価値を切り下げます。
そうすると、たとえば100ルビーに対して1ポンドという比率だった
ものが、10ルピーで1ポンドに切り下げると、それまでインドが持っ
ていたポンドの貯金は実質的に10分の1になってしまいます。つまり、
イギリスは巧みな方法で植民地として圧迫したばかりか、インドの人
々をただ同然で働かさせたことになります。
(107〜109p)
有望なインドの若者が出現すると、両手首を切り落とす。
もちろん残酷なことですが、支配者にとっては、
先を見越しての有意義な手法だったのですね。
現代の社会では考えられないことが起こっていたのですが、そのほと
んどは闇に葬られています。アメリカでは一説に600万人と言われる
インディアンの虐殺が行われましたが、その大半はインディアンの持
っている土地を奪うためにインディアンを騙し、騙されたことに怒っ
て攻めてくるインディアンを逆襲して全滅させるというのが彼らの常
套手段でした(「インディアン」という用語は差別的だとして、現在
では主に「ネイティブ・アメリカン」と呼んでいますが、この新しい
用語も白人のアメリカ人が作ったものです。現在でもインディアンは
自分たちのことを「ネイティブ・アメリカン」ではなく「インディア
ン」と呼んでいますので、ここではそれによっています)。
また、アフリカから奴隷を連れて来るのも、「白人の秩序」から言え
ば何の問題もありませんでしたが、連れて来られる黒人側からみると
耐えられないことでした。奴隷船に乗ってアフリカに来たアメリカの
荒くれ男たちが、ライフルを片手にアフリカの西海岸に上陸し、男の
奴隷が必要だったら目についた家に押し入り、泣き叫ぶ家族を振り切
って男を拉致します。 女も同じでその家の男が抵抗したら即座にライ
フルで撃ち殺して女を連れ出すという方法だったのです。
さらに、アフリカからアメリカ大陸に奴隷を移送する奴隷船には「詰
めるだけ奴隷を積む」という方針でしたから、途中で嵐が来ると、満
載していた奴隷を「捨てる」という方法で沈没を免れていました。こ
のようなときに「殺して捨てる」のは手間がかかるので、20人ぐらい
の奴隷の手首を鎖でつなぎ、そのまま甲板から海に投げ捨てるという
殺害方法がとられました。
日本ではこのような歴史を知らない人が多いので、アメリカ人が偉そ
うなことを言うと、それをそのまま信じてしまう人がいるのですが、
アメリカ人を含めた白人 (人種的にはアーリア人と言ってよい)とい
う人たちは常に二面性があり、「まともなことを言うけれど、裏では
酷いことをする」というのが平気なのです。
(110〜111p)
アーリア人の残酷性は、知っておかなければならないと、
武田先生の話を聞いたり、読んだりすると思います。
ほぼ日本人しか知らない私は、それがどの人間にも当てはまると
思ってしまいますが、そうではないのですね。
明治時代に入り、日本は白人諸国と接するようになりましたが、日本
人は「白人の正体」がわかっていたわけではありません。日露戦争を
開始するときに明治天皇が、「よもの海 みなはらからと 思ふ世に
など風のたちさわぐらむ」と謳っておられますが、当時の日本人が相
手にしていた白人の国家というのは、そんな世界の人がみな「同胞」
というような意識を持つ人たちではなかったのです。
つまり、白人の秩序というのは、白人の男性だけが世界を支配して良
く(白人女性の参政権は第二次世界大戦後の1946年に認められている)、
その他の人は「意見を持つだけでも不適切で、まして白人男性に刃向
かうなどとんでもないことだ」という意識でした。
具体的には、「白人以外の国家は国家として認めない」というのが第
一原則で、イギリス、フランス、ドイツ、オランダ、スペイン、ポルト
ガル、北欧などの西ヨーロッパの国がまずは優先、そこから少し離れ
たアメリカとロシアが同等の国という考えでした。
白人国家でもややアジアの血が入っている東ヨーロッパの国は、一段
下に見られていました。そのため東ヨーロッパは植民地をほとんど持
っていませんでしたが、植民地になるのは免れました。
(114〜115p)
白人の女性の参政権が、1946年に認められているのですね。
ビックリでした。もっと古い歴史があると思っていました。
それは「外国の方が進んでいるから」という先入観のためかな。
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